テアゲス(知恵について)-2

前回に引き続き、テアゲスを読み進めていく。

前回分かったことは、

・人間も植物も、種から芽を生じさせたり、子供を産ませたりすることは容易だが、そうして生まれたものを育てるのは容易ではない。

・何かについて議論を始める際には、そのテーマについての認識を共通のものにしておく(今回は〈知者〉について)

とのことであった。それでは引き続き読んでいく。

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122E〜

ソクラテス「知者とは、何であれ彼らが弁えていることについて知識のある人か、それとも無知な人か」

ここで知者とは、知識を持っている人。それについて知識はないけれど、何となく出来てしまう、そういう人間は知者ではないことが確認された。またこの問答は、全ての知者に当てはまる条件を指定するため協力な帰結をもたらす。すなわち、世の中の人を、無知の人と有知の人のどちらかに振り分け、知者がどちらに帰属するのかを問うている。この点は、アリストテレスのカテゴリー論に通じる考え方だろう。

(テアゲスはもちろん知識のある人と回答する。そこでソクラテスは、その知識の内容の探求に移る。)

ここでソクラテスの出した例が、とても適切なので取り上げたい。

例えば、船の舵をとる、そうした知恵を望むのなら、その人の望む知恵は舵取り術となる。                        もし戦車を駆する、そうした知恵に秀でた知者になりたいのなら、その人の望む知恵は駆者の術となる。

このような例から明らかなように、知識とは、何かを支配、制御するものである。こうしてソクラテスは、テアゲス自身もうまく答えられなかった、彼自身の求める知恵の支配する対象を明らかにした。

それは今回の場合、「人間を支配・制御する術」であった。

まとめ

・知者とは、その人が弁えているものについて知識を持っている人。

・知識とは、それを通して支配・制御する対象を持つ(今回は人間)

知識が、人間においては目的を有するものであるという考え方は、人間にとって馴染みやすいのではないか。現代の認識論などのこんがらがった理論よりも、私個人としてはずっと納得がいく。(砂糖も溶けることができるから知識を持っている、とかはもはや人間の範疇を超えた見方で到底人間に使えるものではない。)

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