「人間の痕跡」

序の章の冒頭に、こんな定義があった。

古代ギリシャ・ローマの文化の伝統は、「パイデイアー(教養、と同時に教育)」である。

古代ギリシャの哲学とは、そもそも一体何か?私は一体何を研究し、何について学んでいるのか?そんな問に、この定義は1つの答えを与えてくれた。それも、核心的な部分を含んで。

ギリシャ哲学は人間に関する学問であったのだ。そしてその中でも、人間を教育することに関する学問だったのだ。

プラトンを読んでいると常に問題となってくるのは、知恵や思慮深さ、勇気、ひいては善と、人間に関することがらがテーマとなっていた。

しかしそれは、ただ人間に関することがらなのではない。人間にまつわる様々なテーマ(私が想定しているのはお金や経済、宗教、もっといい例はたくさんありそうだがとにかく人間しかやっていないこと、あるいは人間が非常に深く関わっているテーマ)のうち、人間の内面に関することがテーマとなっていた。

ギリシャ哲学は人間を教育する学問である。ここでいう「人間の教育」とは何であるか。専門的職業人の育成と、人間の、人間性についての教育、この2つを対比することで、その意味が見えてくる。

専門的職業人とは、名前のとおり、「専門を持つ」人間といってもよいかもしれない。ただしそれは、その道に精通している、有識者として語られるときのポジティヴさは無い。それは、「専門」という牢獄に囚われた、一種の奴隷である。

それに対して、人間性の教育とは、その目的は真に自由な人間となること、すなわち、何者にも支配されることのない人間ー権力にも、欲望にも、自らの仕事、肩書きにもーを意味している。人間性の教育が目指すのは何か特定の分野において、小手先のスキルを身につけるものではない。そうしたスキルを扱う人間本人の内面の育成を目指す。それは、どんなスキルを身につけるにせよ、結局大事なのはそれを使って何をするのかであり、その「何をするのか」そこを決めるのがまさしくこの教育が対象としている、「人間の中身」なのである。

最近の例でいうなら、エクセルやワードが使える、TOEICで900点とった人間などが、まさに専門的職業人のための教育が生み出した失敗例と言えよう。パソコンが使えても、英語がしゃべれても、結局何にそれを使うのか、そこが低俗でくだらない内容ならどうしようもない。誰かに使ってもらえなければ何もできない、自ら道具的人間に成りさがったかわいそうな人間である。(ここら辺の表現は、批判的に書かないとうまく伝わらないと思う。それほどまでに、中身の教育がすごく大事なんだと言いたい。それは、単に何かが人よりできるといった、スキル的な面でしか優れてない人間のお粗末さを引き合いに出せば、いっそう明白に伝わると思う。)(←このやり方、ソフィスト的で全然哲学的じゃないから感情的な面だけ受け取って、その中身の真偽は触れなくていいです。本当にお粗末な文章。)(自分が言いたいのは端的に、技術身につける前に人間性磨けということ。)

話をもとに戻す。人間性の教育といっても、その内実は何であるのか?当時のギリシャ・ローマの人間が「人間とは何」と考えていたのか?

アリスティッポス「きっといいことがあるぞ、人間の痕跡がここに認められるから」(上陸した海岸に幾何学図形が書いてあるのを見て)

アリスティッポスは幾何学図形、すなわち数学を人間の痕跡とみなした。そしてキケロによる「彼は目にした耕作地からではなく、学問のしるしから、「人間」がいることを解した」という発言からよりいっそう明確に区別される。

「人間」がいるということ。ここで言うところの「人間」に、一般的な人間は含まれていない。ここではまだ「人間」の定義は言えないが、少なくとも、ただ農耕するとか、居住跡があるとか、そういうレベルの話をしているのではないことは明らかである。ただ農耕をしていることからは分からない、数学の痕跡にしか含まれ得ない人間性ーそれをまさにかれは人間が人間であることだと考えたのだ。

おわかりいただけただろうか。人間とは、ただ飯を食って寝るだけの生き物ではないのだ。いや、それでは本当はダメなのだ。

私は別に、何をしていても全く構わない。その人が何をしているのかは、何でもいい。ただ、その人がそのスキルを何に使うのか。その使い先を決める中身がちゃんとしているのか。教育とは、まさにその中身に向けられるものなのではなかろうか。

他の分野では人間性は問題にしなくてもいいかもしれない。しかし教育の分野において。これだけは「人間」を見失ってはならない。

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