見出し画像

メタルギアとその沈黙、デリダ的読解の戯れ

沈黙。喋らないこと。正体を隠すこと。誰からも誤解されること。犠牲になること。

メタルギアにおいて沈黙は一つの目印になりうる。それはそれ自体の性(声)質によって、決して表沙汰になることはないし、これと分かる場所には見つけることは出来ない。だが、それはいわば暗い森のざわめきが一瞬完全に消える、あの何よりも静かで、何よりもけたたましいあの瞬間に酷似した形で物語を取り囲んでいる。それは抹消された痕跡の痕跡、灰なのである。

ザ・ボスがあなた達の脳裏に浮かんでいることでしょう。彼女は時系列的な意味(この点は重要だ)でまさしく最初の沈黙者だった。彼女は語らないことによって自らのありようをありありと語った。誰からも誤解され、祖国の裏切り者と糾弾され、仲間達を自らの愛する男によって殺された。彼女の任務とは死ぬことだった。そして彼女は死ぬのである。愛する祖国に殺されるのである(彼女の愛銃、パトリオット!)。彼女が放つ言葉がこれだ。

ジャック、人生最高の10分間にしよう!

彼女はこのような状況に陥ってすら、喜び(ザ・ジョイ)に満ち溢れていた。彼女は究極的な沈黙、最後の沈黙、死への道を喜びのままに歩んだ。彼女にとって究極的な沈黙は、人生における最高の瞬間なのだ。彼女のこの沈黙の喜びは彼女の生き様、彼女の意志を最も雄弁に語っている。しかし、それは沈黙であるがゆえに、誤解されていく。

また、メタルギア・ソリッド3にはこのいわば最も声高な沈黙以外に様々な沈黙が息を殺してそこかしこに隠れている。例えばそれはアダムとエヴァの正体が秘匿されること、ザ・ボスとビッグ・ボスの体に刻まれた『S(nake, ilence)』、デイビー・クロケットの店主を騙した逸話、ジ・エンドがゲームの放置によって寿命を迎えること、仮死薬や、ソローの幽霊。後のTPPにおけるヴォルギンの沈黙も注目に値する。ザ・ボス、ビッグ・ボス、後に語るグレイ・フォックスやヴェノム・スネーク(ファントム)の本名が不明であること(しかも、ビッグ・ボスは自らの本名をジョン・ドゥだと言うのだ。身元不明の死体につけられる名前を名乗るのである! 死者の沈黙!)。メタルギア・ソリッドにおける最初の物語にして、それ以降の全ての物語の原因となるこのゲームをこれほどまでに深い沈黙が取り囲んでいる。そしてメタルギア・ソリッドの全ての原因とはまさしくザ・ボスの沈黙なのだ。

メタルギアにおいて沈黙者は凌辱され、誤解され、嬲られる。ザ・ボスは人工知能として無理やり蘇らせられ、ザ・ボスの沈黙を引き継いだビッグ・ボスもまた自らの遺伝子によってクローンを作られる。そして私が次に話すのが、ヴェノム・スネークについてだ。

MG。メタルギアの、制作順的な意味での始まり。そして、この時点ですでに、このゲームは恐ろしいほどに破りがたく驚嘆に値する沈黙を我々へと宣言する。それはつまり、ビッグ・ボスがビッグ・ボスではない。というこの絶望的なまでの沈黙、秘密である。この沈黙は、ゲーム中で明かされることもなく、その後のシリーズでも、設定資料集でも明かされず、1987年から2015年まで明かされることなく、メタルギア・ソリッドというシリーズの最後の最後にて、やっと明かされるのである。

ヴェノム・スネーク。名前も顔も生き方すらも全てが嘘で包まれた男。最後まで沈黙を貫き通した男。28年もの間沈黙を守り通した男。メタルギアとは時系列で見ても発売順で見ても、そこには物語の根幹の部分に重要な沈黙が隠されている。そしてこの沈黙者たちは皆ザ・ボス=ヴェノムの意志を継いでいる。

私が次に話すのはグレイ・フォックスだ。彼もまた沈黙者、凌辱される者だ。沈黙者たちは皆名を持たない。それはこのグレイ・フォックスにも共通する。彼の本名としてフランク・イェーガーを挙げる人がいるかもしれないが、これも彼が戦場を駆ける中で名付けられた呼び名にすぎない。

このグレイ・フォックスはメタルギアにおいて恐らくリキッド・スネークに匹敵する沈黙者だろう(なぜ私がリキッド・スネークを沈黙者の中でも最大の者として見るかは後に語る)。それというのも、彼は恐らく唯一、ザ・ボスとヴェノムの二人の原初の沈黙者の意志を継ぐ者だからだ。MGにおけるヴェノムの沈黙を継ぐのは、それは彼(グレイ・フォックス)がMG以降の作品に登場するからであり、その点でMG以降の沈黙者たちは皆ヴェノムの意志(ミーム)を継いでいる。一方で、ザ・ボスの意志を継ぐ沈黙者は、ビッグ・ボス、ゼロ(無、サイファー(暗号)とその沈黙)、スカルフェイス(髑髏、死)、そして、グレイ・フォックス。

なぜ、ビッグ・ボスはザ・ボスとヴェノムの意志を継ぐものではないのか。それはまず、彼がヴェノムよりも先に作品に登場していること。彼自身がヴェノムであって、またヴェノムでもない、脱構築的な存在であること。そして、彼は確かにザ・ボスの意志を継いでいるが、それは誤った意志、差異のある反復だということ。こうした点から、ゼロとスカルフェイスについても同じ議論が成り立つ。彼らは沈黙者であり、ヴェノムの意志を継ぎ、ザ・ボスの意志をも継ぐが、そのミームは改変されている。しかし、このグレイ・フォックスだけが、ビッグ・ボスの内に潜むミームの散種(ミーム=言語の反復可能性が無限の差異ある反復を生み出し続ける)の中から、尚も残ったザ・ボスの意志のひとかけらを拾い上げるのである。それは決して完全でも現前でもないが、確かに純粋にザ・ボス的なのだ。それを表すのがこの言葉。

スネーク、俺たちは、政府や誰かの道具じゃない。闘う事でしか自分を表現出来なかったが、いつも自分の意思で闘ってきた

ザ・ボスの意志とは何か? それは「世界を統合するのではなく、ありのままで受け入れること」。「自らの意思を信じ、他人の意思を尊重すること」。グレイ・フォックスは、確かにザ・ボスの意志のその残滓を受け継いでいる。

そして、グレイ・フォックスは、沈黙者たちが外部の人であること、放逐される人であること、『まったき他者』であることを最も分かりやすく体現してもいる。

私はここで少し強引に、あるいは違法にデリダ的な要素を輸入した。私は本格的な話に入る前に、デリダ的なものの説明と、私が何を目指し、何に行き着くのか(実際のところ、それはどこにも行き着かないのだが)についてこの辺りで話しておくべきだろう。まず脱構築という概念(それは実際のところ概念ではなく、動揺、戯れ、パルマコン、他者の到来、幽霊的なもの、灰だ)は、二項対立、それも片方が片方より優れているという二項対立を解体する、そのような動きのことだ。それはある優れた片方の内部に、その優れた片方が外部へとなげうった劣った片方がもとからあることを示す。脱構築とは、他者への開きのことだ。そうした他なるもの、生と死のある種究極的二項対立の脱構築において、幽霊=灰が脱構築の形容として度々登場する。幽霊(亡霊、ファントム)とは死でも生でもなく、あるいは死んでも尚生きるものであり、灰とは、燃やされても尚残るもの、抹消された痕跡の、痕跡なのだ。脱構築はそうした階層秩序的二項対立、西洋哲学が連綿と受け継いできた原初なるプラトンの形而上学を解体する。プラトン(ソクラテス)とそれに続く西洋哲学が決定したパロール(話し言葉)の称揚とエクリチュール(書き言葉)の蔑視を、実は元からパロールの内部にエクリチュールがあることを示すことでだ。こうした二項対立における片方の称賛と片方の蔑視という誤った、最大限の暴力的な、そのような決定とそれを解体する脱構築によって、他者の到来の場所を開くこと、正義と責任を呼び込むこと。というのがひとまずはデリダの思想の始まり、根本(勿論、こうした始まり、根本といった形而上学的観念も脱構築されねばならない)にある。何故正義と責任が他者なるものの到来を必要とするのか? それは正義と責任が不可能なことを必要とするからだ。

正義について見てみよう。正義について見てみるとき、一つの概念が事態を容易にしてくれる。法である。法とはある種の正義の体現であろう。しかしデリダはそれに正義の印を見ない。なぜか? 法とは規則だからだ。そのような形而上学的規則とは、目の前のそれを一般的なものに還元し無思考な、論理的な、計算的な記号操作によって解決を図ろうとする動きのことだ。そしてなにより、法の規則とは最初の最初にまでさかのぼれば、そこには何の根拠も正当性もない、プラトン的形而上学的な、暴力的な規則の決定があるからだ。それは例えばアメリカ独立宣言における、自らの国に固有の法を与える主権者=国民の権利・権威がパフォーマティブな、つまり行為遂行的な暴力・法創設によって生み出される点にある。それが意味するのは国民の主権性は当の法によって保証されるのであって、であれば、この主権性を保証する法は、一体どのようにして創設され得るのか? という疑問のことだ。そこには理由がない。単なる暴力、「私が法を作ったから、私が法を作れる」というような行為遂行的な根源的暴力があり、それをあたかも事後的な確認であるかのように、そしてその暴力を神からの根源的な贈り物として、形而上学で覆い隠すのである。

人事の進行過程で、ある人民が彼らを別の人民に結びつけてきた政治的紐帯を解消して、自然と神の諸法とが彼らに付与した各自の平等な地位を天与の諸力によって引き受けることが必要になったときには、人類の意見をしかるべく尊重するなら、彼らは彼らを分離に駆り立てる諸原因を宣言すべきだと考えられる。我々は、以下の事柄は自明の真理であると信ずる。すべての人は平等につくられ、造物主によって一定の奪うことの出来ない権利を与えられ、……

アメリカ独立宣言

ここで行われていることはそれをこそ防がねばならない王権神授と何ら変わりがない。その点で法も、あるいは国家も、当然議会も、法創設という行為一般はこのような根源的暴力から逃れられない。したがって法に正義はあり得ない。なぜなら正義とは目の前のそれを個性的なものとして考慮する視線(『正義とは各人に各人のものを与えようとする、恒常不断の意志である』――ウルピアヌス)であり、計算不可能なものであり、暴力ではないからだ。

この世における最も誤った正義、あるいはこう言ってよければ、悪。つまり戦争において、人々、特に兵士はただの数字になる。彼らの歩んできた人生、その固有性は奪われ、軍の兵士として名前も顔も奪われ、そして、その死すらもが、何十何百何千万の内の1――故に誰からも見向きもされない――に還元されるのである。従って正義は、一般的なもの、計算可能なものの内に到来することはない。正義とは、決定不可能なもの、脱構築そのものだ。ただの数学的操作の内に正義は現れない。理性や知を超えたものとして、正義はある。一般的なものと個人的なものを同時に考慮するという不可能な法、計算不可能な規則、決定不可能なことがらにおいて、この不可能を、しかし可能にするべく人が悩み、呻き、考える、その瞬間において、初めて他者が、正義が到来する場所が開かれる。

これは責任においてもまた同様である。デリダはこの責任の議論において、イサク奉献を例に出す。イサク奉献とは、ある時神がアブラハムに対して、不妊の妻との間に授かった愛しき一人息子であるイサクを全焼の生贄(ホロコースト)として差し出させ、それによって彼の信仰心が真実であることを示せと命じる、創世記に記される逸話のことだ。イサクは深く思い悩むも、神の言う通りに、息子を生贄にしようとする。彼が斧を振り上げた瞬間、神の御使いが現れてそれを止めると、羊が現れ、アブラハムはその羊を神への供物とするのである。

ここにおいてデリダが問題にするのは、責任のアポリア、責任のパラドックスだ。事態は正義のそれと深く関わっている。一般的なものと個別的なものとの、その両立の不可能性としかし尚それの可能を欲望しなければいけないことにだ。

デリダはこのアブラハムと神の約束を絶対的責任、個別的な、特別な人との間に生ずる責任だと指摘する。同時に、アブラハムがこの神との約束をイサクや、妻に説明する責任を、倫理的責任、一般的な、他者との間に生ずる責任だとまた指摘する。そして、この二つの責任は、同時には果たすことのできないものでありながら、どちらとも果たさなければならないものとして、従って責任のアポリア、責任のパラドックスとして現れるのである。

私がある行為を行う時、倫理的責任としてその行為の理由、正当性を他者へと説明する責任が生ずる。しかし、同時に、この責任を果たした瞬間、私は私に課せられた絶対的責任を裏切らなければならないのだ。私は今からこれこれの理由で、これこれの行いをすると人々に説明するとしよう。するとこの瞬間、私の責任は他者にいくらか転嫁される、一般化される。もし私の行いが失敗に終わったとして、そのとき私が責められるのはもちろん、私の説明を聞いていながらそれを止めなかった他者たちの責任もまた追及されるのだ。そしてこのことによって私の絶対的責任が裏切られる。つまり、もし私の行いというのが誰かから頼まれたものであるなら、その誰かは「私に」頼んだのだから私の行いは私だけで完結しなければならず、私以外に責任は負えず、また負わされないものでなければならず、私が失敗するならば、それは私だけが責められるものでなければならず、従って私は私の行いを沈黙=秘密にしなければいけないのである。従ってこの二つの責任は、同時に果たすことはできないにもかかわらず、真に責任を果たすのであれば、同時に果たさなければならない責任なのだ。家族と、全くの無関係の他人のどちらかを殺せばどちらかを助けられるような状況において、個人的責任とはまさしく家族を助けることだが、一方で、この無関係の他人。全くもってあなたに関係のない他人に、単なるあなたの個人的な問題で何らかの不利益を被らせるなどあってはならないことであり、従ってあなたはこの倫理的責任によってこの無関係の他人をもまた助けなければいけない。

そしてアブラハムはこの不可能を可能にするのだ。つまりどういうことかというと、彼は愛しながら殺すのだ。彼はこの神との約束を誰にも話さない。秘密にする。彼が誰かに話してしまえば、その結果イサクを殺そうとしたとしてもそれはもはやアブラハムの信仰心を試したことにはならないし、アブラハムの信仰心を試したことにもならない。なぜなら信仰心とはひたすらに個人的なもの、自らの内部にしか存在しないものであって、神を信じることとはあなたが神を信じること、己が内に――そして世界の外に――神を認めることに他ならないからだ。そして当然、彼が話すことによって、他者と話し合ってしまうことによって、イサクを殺すことをやめるのなら、それは神との約束、神への信仰心の裏切りに他ならないのである。

そしてアブラハムはこれをしない。彼は誰にも話さない。しかし、それは他者を見捨てたとか、神を他者より優先しているということでもないのだ。なぜなら彼は最後の瞬間までイサクを愛していたから。その愛は供物へと捧げる旅路、斧を振り上げるその最中ですら、際限なく膨れ上がっていた。彼は間違いなく神を愛し、イサクを愛した(もしかしたら神以上に)。そしてだからこそここに生贄が、供物が、犠牲が成立するのだ。彼はたとえばそこらにある石や、自分の髪の毛の一本や、一掬いの水といった、どうでもいいもの、いくらでもあるものを供物に捧げられることを命じられない。それは供物にはなりえないし、彼の信仰心を何ら試すことはないからだ。だから神は彼の息子を差し出すように命じるし、またアブラハムも、最後までイサクのことを愛し続けるのだ。なぜなら彼が少しでもイサクをどうでもいいものだと諦めたり、憎んだりすれば、それはたちまち供物としての意味をなさなくなるからだ。もし彼がイサクを神以上に愛していたのなら、これはまさしく究極の生贄であり、彼の究極の信仰心の証明となるだろう。そして、ここにおいて、絶対的責任と倫理的責任との両立が可能とされるのである。つまり、アブラハムはイサクを殺さずに済み、なおかつ神への信仰心も同時に証明するのである。この神の恩寵が、不可能を可能たらしめるのだ。

そしてこのイサク奉献、アブラハムの秘密、正義と責任の体現が、メタルギアにおいてもなされる。それがヴェノムの沈黙、あるいはザ・ボスの沈黙なのだ。ビッグ・ボスとの約束を守るため自らがファントムであることを最後まで告げることなく、同時にまた、ソリッドに殺されることによって彼らの計画は破綻する。従ってヴェノムはビッグ・ボスとの絶対的責任と、他者に対する倫理的責任を果たす。つまり、彼は、彼女は、自らを生贄に捧げるのだ。

私はこの文章のタイトルを戯れとすることについても倫理的責任を果たすべきだろう。なぜ、それがデリダ的読解の方法や、試みではないのか。なぜ戯れなのか。それは、デリダ的読解、脱構築的読解が、構築を解体する読みであること、テクストの中に、テクストの中から、テクストの他者、他者としてのテクストを読み取る、救済する読みだからだ。従ってそれは、方法といった一つの決定された構築の中には還元されえない。それは、規則もルールも絶対的でない、意味をなさない、存在しない、参加者すら目まぐるしく入れ替わる子供の遊戯、戯れでなければいけないのだ。方法ではなく、試みでは足りず、戯れなのだ。それはつまるところ、ある種の言語ゲーム=戯れなのだ。

最後に散種について。この散種とは、言語、あるいはマークや署名といったものの根源的な反復可能性、つまり主体や固有性や意味のイデア的同一性といったものが、この反復可能性によってその絶対性、形而上学的特権性を失うことによって、無限の差異ある反復の中で言語が他なるものを目指して増殖し、生み出し、種をまく、その動きのことだ。

言語やマーク、署名の反復可能性とは一体何か? なぜそれによって同一性や固有性が失われるのか? まず第一に、デリダの言うこの反復可能性は、エクリチュール(書き言葉)が、その父(ロゴス=理性、著者)の手を離れ、どのような場所、どのような時代においても繰り返し読まれ、従って父が死んだあとですら残り続け、その度にそのテクストの解釈が読者に委ねられてしまうという、この反復可能性のことだ。こうしたエクリチュールの誤解の危険性とそれを解消することがもはやできないこの反復可能性こそが、西洋哲学、古代ギリシア、プラトンやソクラテスがエクリチュールを貶める理由なのである。しかしこの反復可能性は、実はパロール(話し言葉)においてもまた本質的である。たとえそれが話し言葉であろうと、それが言語である以上、そこには反復可能性がなければならない。例えば「私は、この私以外にありえない」というような発話は、原理的にはその私以外の他者もまた発話可能でなければいけない。たとえその私が世界に唯一のあなたのことだとしても、つまりその言葉が事実だとしても、言語はそれを一般性、反復可能性の領野へと回収する。あなた以外の人、他者がこの発話をしたとき、それはある種の独我論的地平に立てばそれは全く事実ではないのだが(なぜならあなたにとって<私>とは、あなたの言語的世界において、あなた以外の何者も意味しないし、できないからだ)、こうした地平に立っても尚、「私は、この私以外にありえない」という発話が他者によってなされることが可能でなければいけない。そうでなければ、そうであるからこそ、言語は言語として機能するのである。そしてこの反復可能性に先の独我論が敗北したことから分かるように、この反復可能性は主体を、<私>の固有性を、一般性へと還元するのである。

そしてまた同時に言語は根源的な引用可能性、オリジナル(固有の)コンテクストから引き抜かれ、他のコンテクストへと接ぎ木されることの可能性も持つ。ある言葉が、元来の意味をゆがめられ、他の文脈において使われること。エクリチュールのあの反復、言語ゲームのような、言葉の意味当てゲームが言語の根源的な性質なのである。例えば犬は当然犬を意味するし、下僕や社会の歯車としての人間、あるいは『犬』と名付けられた猫というように、無限の差異ある反復として無限の意味を持つ、持てる。あるいはそれは持つのですらなく、与えられる、生み出される、外部から挿入されるのである。そしてこれこそが言語の要件なのだ。

勿論こうした反復可能性はマークや署名についても同様である。マーク(印)とは、たとえそれが一回限りにおいてしか効力を有しないと決められたものでさえ、尚も反復されることが可能であるものでなければならない。スパイが使った暗号が、たまたま子供たちの間の合言葉になる。あるいは、敵対するスパイ同士の暗号が完璧に一致する。こうしたことが実際に起きるかはともかく、可能でなければいけないのだ。それは知らない者、気づけない者には頑なに口を閉ざしながらも、しかし重要な情報を語る、このある種の沈黙である暗号(サイファー)の本質的な反復可能性であり、ゼロ(サイファー)がザ・ボスのミーム=意志=暗号を差異ある形で反復することと類比的だ。

署名についても同様である。この書き込み、エクリチュール的言語においても反復は可能でなければいけない。署名とは偽造可能でなければいけないのである。私はさっき「『犬』と名付けられた猫」を例に出したが、ここにおいて、名の、署名の、反復可能性と、名の根源的な暴力が示されている。

猫に対して『犬』と名付けるこの暴力性は、それが猫であるという固有性を剥奪するばかりか、名付けるという行為一般が、既にこの、猫に対して『犬』と名付けるような、固有性の暴力的な排除であることが示される。なぜ猫に対して『犬』と、あるいは『牛』と、あるいは『人間』と名付けられるのか。それは名付けがやはり、根源的な反復可能性を有しているからだ。名付けとはたとえそれが歴史上たった一人の人物に使われた名前であっても、原理的にそれが他者にも名付けられることの可能性がなければ、名付けとしての意味を持たないのである。従って名付けはこの反復可能性によって、真なる個人、個性的な人というものを、社会的システムへの書き込み=名付けによって一般的な、反復可能的なもので覆い隠してしまう。ここにはあの根源的な暴力、法におけるあの根源的な暴力に似た働きがある。そして実際に、我が国では名付けは生後14日以内になされなければいけないと法律によって決められているのである。

こうした名付けの反復可能性によって、署名の偽造可能性もまた帰結される。署名は原理的に他の誰かによって真似されること、偽造されることが可能でなければいけないのだ。どれだけそれが複雑で、ユニークで、歴史上一度しか使われたことのない署名であっても、それは反復可能性を有していなければならない。ある特定の個人にしか書くことのできない(それは技術的なことを意味しない。それは文字通り他の誰にも書けないということを意味する)署名があったとしたら、それはもはや署名ではないのである。他の誰にも書けない名前とは一体何だというのか? そんなものは存在しないのである。従って署名は反復可能であり、反復を必要とするのである。最初の署名が、それの模倣、他なる署名による連署を必要とする。

トラヴェラーズ・チェックがここでは例として出される。この旅行者のための小切手は、最初の署名の後、旅行先で現金として引き出す際にこの署名への連署を求められる。最初の署名を、その署名の模倣によって再確認すること、保証することを要求するのだ。がしかし、実際のところこの連署をする人物が最初の署名者(真の署名者)と同一人物であるのか確認する手立てはないし、またされないのである。この点で、連署とは真の署名者による署名の模倣と再確認ですらない。連署とは本質的に他者の署名なのである。この他者の署名はそのままエクリチュールにおける他者の読解に結びつく。エクリチュールにおいては、無限の連署がなされる。

このように言語は反復可能性、しかも他なるものへの反復可能性を要求・要件する。こうした無限の、他なるものへの、もはや父には回収不可能な言語の生的なダイナミクス。実を、種をまいた人が回収することも管理することもできず、ただ実るままに実らせることしかできないこの決定不可能性・予測不可能性こそが、散種の動き、種蒔き、種付けであり、原暴力である言語の中に他者を呼び込む契機となる。

また、この署名の他なる署名の要求が、言語において根源的なものであること(そしてその根源的なものが差異ある反復の動きであること、根源的な一でないことによって同時に根源性が解体されること)をデリダは示す。それは、「ウィ」の根源性だ。

「oui(ウィ)」。それはとりあえずフランス語における「Yes」のことだ。デリダはこの「oui」が肯定、他者の肯定、言語としての他者、言語の他者の肯定であることを示す。ここでは「ウィ」はもはや言語の中の一つの単語や要素ですらなく、言語以前の、根源的な肯定なのだ。ではなぜこのイエス(・キリスト。これは私の物言いだ)、肯定が言語にとって根源的な、本質的なものなのか。それはまさしく言語が他者とのものであるから、つまり、この「ウィ」とは、「はい、私はここにいます」という「ウィ」だ。言語が他者とのためのものであること、他者を目指すものであること、言語とはまず他者を必要とすること。電話における「もしもし」(「申し申し」、「私はここにいる。私は今から話す。私は今話す。あなたはそれを聴いているし、私もあなたの言葉を聴く。私は話す」)のような、「私が」―「他者に」―「言う」というこの言語の他者への開かれた場。この「ウィ」はそうした言語があるために必要な基礎、その場所でしか言語が起こらないような根源的な舞台であって、これはたとえその人が嘘を言ったり、言葉を発せず沈黙の内に他者と対峙するような場合でさえ、すべてこの「ウィ」が先立っている。例えばあなたが人質に取られ少しでも口を開けば殺すと言われたとしよう。あなたはその時沈黙するだろう。しかし同時にあなたは間違いなくその瞬間に喋ることが可能のはずだ。もしかしたらあなたは怒鳴られ、銃で殴られ、あるいは殺されるかもしれないが、それでもあなたはその瞬間に助けてだとか殺されるだとかの言葉を発することが出来る。例えあなたが沈黙していても、そこには言語のための舞台、「ウィ」の劇場が開かれていなければならず、いわばあなたがそのような場合に沈黙するのは、あなたが舞台の外にいるからではなく、「演じない」という演技をしているからだ。言語は、原理的に、他者に聴きとられること、読まれることが可能でなければいけないというこの当たり前の、根源的な、そこから逃れることのできないこの超越的な他者の肯定を必要とする。誰も聞くことのできない、誰も読むことのできない、あなただけがそれが可能な言葉。そんなものはなく、それは言葉ではないのだ。たとえあなたが独自のでたらめの文字と発音、意味をなした言語体系を構築したところで、その言語体系が他者にとって理解可能でなければそれは言語ではないし、また他者にとって理解可能でない言語など存在しないのである。言語とはまずもって他者を、他者の連署を必要とするものなのだ。言語における<私>以前の、こうした他者との関係の根源性。そして、この「ウィ」は「oui」であるがゆえ、「Yes」であるがゆえ、第一義的に<私>が他者へと発する応答であり、したがってこの「ウィ」が自己の主体的・能動的・原初的な応答と思ってはならない。なぜならそれは「応答」である限り「他者への」応答、他者への呼びかけ(もしもし)以前に他者からの呼びかけへの応答であって、他者の「ウィ」によって先立たれている。それはいわばあなたが「ねぇ」と呼びかけることの可能性の条件、他者からの「ねぇ」への根源的な許し=肯定、あるいはあなたが「もしもし」と言う前に相手が受話器を取り上げてくれたというこの肯定。この根源的な肯定がなければあなたは文字通り「もしもし」すら言えないのだ。あるいはもっと戻って、あなたが電話をかけられたのは、相手が電話番号を持っているから。着信を拒否していないから。相手があなたからの呼びかけを肯定しているからだ。<私>とはこの他者の肯定がなければ沈黙する他ない、反復的な、二次的な存在だ。コギト、超越論的自我、これらの形而上学的根源性としての<私>はこの他者からの先立った肯定なしにはないものであって、したがってその根源性を解体されるのだ。この根源的な「ウィ」が根源的には他者への応答であることによって、「ウィ」は根源的でないということがまた示される。

そしてまた、この「ウィ」は更に「ウィ、ウィ」でなければいけないという反復の要求にさらされる。この「ウィ」。他者への応答、署名、約束としての「ウィ」はただちに反復されねばならない。それはいわば約束の記憶を記憶することを約束すること、肯定したことを肯定することなのだ。この繰り返しによって、「最初」の署名や「最初」の「ウィ」がある種の危機に晒されることになる。つまり、それはもう一度約束したり、もう一度肯定することを必要とされるような、いわば「弱い」もの、非―根源的なものになるのである。こうして根源的な<私>の「ウィ」が、他者の「ウィ」への応答であること、「ウィ、ウィ」であることによって二重にその根源性が解体されるのである。忘れられる可能性のあるもの、それが儀式的再確認や論理的な帰結ではなく、薄れるごとにまた上書きするような、常に新しく初めからなされるような「ウィ」、<私>だけで完結しないもの。そうした「ウィ」は他者の記憶へと継承される可能性を秘め始める。ここでもデリダは他者を呼び込むチャンスを伺っているのだ。

デリダのこうした形而上学、固有性の解体を、相対主義による物事の無意味化・無価値化、秩序の破壊(それは破壊ではない。私は決して破壊という言葉を使わないことに読者は気付いているはずだ)と見るような人たちがいるが、それはまさしくエクリチュールの誤読のあの危険性の表出だろう。デリダは常に形而上学的決定を動揺させ、そこに他者を呼び込むこと、正義と責任を呼び込むことを欲望する。西洋哲学、あるいは言語そのものに内在するこのような暴力や他者の否定を知らずにいることこそがデリダにとっては悪そのものであり、この根源的な暴力=最大限の暴力に立ち向かう他なる暴力を、最小限の選び取られた暴力を、従ってそれが正義と責任の方へと向かう道を歩まなければいけないのだ。それは不可能の道だが、その先には、あの斧を振り上げたアブラハムが、最小限の暴力が、愛ある殺しが、神がある(この最後の部分も多分に私の個人的な考えが含まれている。デリダはこのような物言いはしないだろう)。

さて、私はこうして長ったらしく説明したデリダ的・脱構築的な読解を通して、メタルギアが脱構築的な物語・ゲーム(戯れ)であり、他者のために開かれた物語(したがってそれはどこにも行きつかないのだ)であることを見て取るつもりだ。そろそろ私は元の話に戻るべきだろう。私はまずグレイ・フォックスの辿った歩みについて見ていく。

グレイ・フォックスの出自は、アフリカでモザンビーク解放戦線の少年兵として戦争へとその身を投じることから始まる。この時点で彼が沈黙者であること、奪われたものであること、外部の人、どこにも属さない人であることが示される。なぜか? それは彼がその地において片言のドイツ語を話すからである。ここにおいて彼の二重の外部性が露呈する。つまり、彼はドイツ語を話すということからまずアフリカの外部の人である。そして、それが片言であることから、彼はドイツの外部の人でもあり、あるいは、この母言語の奪われによって、彼はこの世界のどこにも属さない人とすら言えるかもしれない。

その後、グレイ・フォックスはこの戦争に参加していたビッグ・ボスに敗れ彼に保護される。更生施設に入れられるはずだった彼はしかし、賢者達によって奪われ、任務の度に記憶を消される超兵としてヌル(0・無)と呼ばれるようになる。ここでも彼は徹底してどこにも属せない人、沈黙の人、凌辱される人である。また彼の身体能力は銃弾をマチェットではじき返すなど常軌を逸したものであり、彼が人間離れした、人間の外側の人間であることが垣間見える。

そしてここでまた奇妙な沈黙・嘘・決定不可能性が彼の歴史(歴史、この形而上学の最たるもの!)に影を落とす。というのも、彼の語られる出自はMG2とMPOで異なっているのだ。

私が先に語ったのはMPOでのものだ。MG2においても彼の出生について説明されていて、ベトナム戦争後期(あるいは終戦後か)に現地人と白人との間に生まれた白人二世ということになっている。その後彼は同じようにモザンビーク解放戦線に参加するのだが、ここで彼は敵勢力に捕らえられ拷問を受け、ビッグ・ボスが助け出した時には耳と鼻をそぎ落とされていた。

ここでもやはり彼は外部の人、どこにも属せない人、沈黙の人だ。彼は白人にも現地人にもなれず誰からも迫害され、そして最後には耳をそぎ落とされて沈黙の人となるのである。

ここでは彼のこの二つの経歴のどちらが真実なのかといったことについては扱わないし、ここまで読んだ大いなる暇と根気を持て余した読者は、そのような決定がデリダが嫌うような決定であることに思い至っているはずだ。

さて先述したように彼は賢者達と呼ばれる組織によって特殊な訓練を施され、『記憶野の初期化』、『感覚神経の遮断』といった半ば拷問めいた方法で「絶対兵士」を作らんがための人体実験の生贄となる。この計画は彼以外の成功例が現れないまま頓挫し、『破棄されたロストナンバー』という意味で「ヌル」と名付けられることになるのだが、ここで重要なのが、この「絶対兵士」達を統率するための戦闘指揮官を生み出すための計画も同時に進められており、その成功例の名が「ジーン(遺伝子)」なのである。

「ジーン」と「ヌル」。グレイ・フォックスはその遺伝子すらも否定されるのだ。彼は後世に自らの種を残すことすらできず、隔離される。外部へと放逐される。この遺伝子的隔離、遺伝子的沈黙はビッグ・ボス、リキッド、ソリッド、ソリダスといったこれらの主要人物、部分的にはザ・ボスにすら見られる重要な沈黙だ。

こうして「ヌル」として改造、無化されたグレイ・フォックスはサンヒエロニモ半島事件でまたもやビッグ・ボスに自らの自我をすら救われる。グレイ・フォックスはビッグ・ボスに深い感謝の念を抱くと同時に、ここで彼の忠誠心の原型が形作られたのだろう。

この後彼はナオミ・ハンターとグスタヴァ・へフナーという二人の女性の運命に深く介入することになる。ナオミの両親を殺しながらも幼いナオミを殺せなかったグレイ・フォックスは彼女の兄がわりとなって、真実を打ち明けぬまま彼女の面倒を見ることになる。一方、グスタヴァと恋に落ちるも、当時は東西冷戦の真っただ中。”東側”と”西側”の溝はたかが二人の男女の愛では渡れぬほどに長く深い。結局グスタヴァの亡命はかなわず、むしろこの件によってグスタヴァはスケート選手の道を閉ざされ、チェコ秘密警察の諜報員として生きていくことになる。そしてこれがグスタヴァとグレイ・フォックスを最悪の形で、しかしそれは紛れもない奇跡として、二人を引き合わせる。

彼はビッグ・ボスの指揮する特殊部隊FOXHOUNDへと入退し、ここで”グレイ・フォックス”と名付けられる。彼は部隊のリーダー的存在であり、こうしたことがビッグ・ボスの右腕的地位として、後に続いていく。

MG(アウターヘブン蜂起)でビッグ・ボスがFOXHOUNDとアウターヘブンを同時に指揮していたことが判明しても尚彼はビッグ・ボスの後を追いかけ、ビッグ・ボスが築いた武装国家ザンジバーランドの傘下へと入り、副将的な立ち位置を確立する。

そうしてMG2においてソリッドとグレイ・フォックスは敵として相対することになる。ここにおいてグスタヴァとグレイ・フォックスの数奇な運命が絡み合う。ザンジバーランドにとらわれた科学者マルフの警護を担当していたのがグスタヴァだった。彼女はソリッドと共にザンジバーランド内部へと潜入するのだが、他ならぬグレイ・フォックスが乗ったメタルギア改Dの砲撃によって命を落とす。

メタルギア改Dを破壊されたグレイ・フォックスは、地雷原の中でソリッドと”チキン・ファイト”を繰り広げ、ソリッドに敗れる。彼は自らがソリッドにたびたび『ファンの一人』として助言を施してきた人物の正体であることを告げて、息を引き取る。ここでも彼はやはり沈黙の人であり、同時に内部告発者(内部の内部にいる外部)だ。しかも彼のこの裏切りは、ビッグ・ボスへの感謝と忠誠心が損なわれることなく行われるのだ。つまりこれは裏切りの要件だ。完全に敵へと寝返っている人物の裏切りとは、それは実は裏切りではない。それは寧ろ当然の敵対行為なのだ。真の裏切りとは、心の内は全くもって味方勢力であるのに、内部であるのに、にもかかわらず敵対的行為を行うこと、これこそが裏切りであって、事態は生贄のそれと酷似している。生贄は「生贄にしたくない」という気持ちがなければ生贄たりえないし、裏切りは「裏切りたくない」という気持ちがなければ裏切りたりえない。

こうしてグレイ・フォックスの人生は終わる、はずだった。メタルギアにおける沈黙者たちの多くは、この奇妙な共通点を持っている。つまり、『復活』するのである。そして同時に『復活』することによって沈黙者にもなりうるのだ。ザ・ボスのママル・ポッド、ビッグ・ボスのファントムによる死の偽装と賢者達による蘇生、グレイ・フォックスの復活、リキッドの復活。これらが前者に該当するだろう。そして復活による沈黙化についてはヴォルギンが該当する。あるいはここに、ゲームへの再登場という意味での復活を考慮すれば、サイコ・マンティスやリキッド(イーライ)といった人物も含めることができるかもしれない。なぜ彼らは復活するのか? なぜ、死んでもなお、生き続けるのか。それは彼らが脱構築的存在の象徴として、すなわち幽霊を、灰を欲するからかもしれない。

MG2の続編であるMGS、メタルギア・ソリッド(この"ソリッド"は非常に重要だから、頭の中に留めておいてほしい)において、スネークに謎の人物からの通信が入る。彼は自らをファンの一人、ディープ・スロートと名乗る。ディープ・スロート。その名はウォーターゲート事件における秘密の情報提供源を指し、同時に性行為におけるペニスを自らの喉奥へと深く呑み込む行為をも指している。この謎の人物が内部告発者でもあり、凌辱される者でもあり、また喉を閉ざれた者、声を奪われた者、沈黙者でもあることがここで示唆される。そしてこの男は他でもない、グレイ・フォックスその人なのだ。地雷の爆発に巻き込まれ確かにその命を落としたにも関わらず、無理矢理に蘇生され、サイボーグ技術の実験体として麻薬漬けにされてもはや自らの自我すらも崩壊しかかっているが、確かにあの灰色の狐なのだ。

MGSにおける一連の事件、シャドーモセス島事件にとってこの男、サイボーグ忍者は全くの不確定要素であった。彼は実験施設から抜け出して、亡霊のように彷徨い歩きながらも、ソリッド・スネークとのあの"チキン・ファイト"の快楽、敵も味方も憎しみも復讐もない、純粋な闘いの記憶と、それによる殺し=殺されを求めて、スネークの前へと姿を表す。彼はどんな機関からの使者でもなければ、シャドーモセス島に渦巻く計画への参画者でもない。それは幽霊、巻き上げられ運ばれた灰、全くの外部からの全くの他者の訪れ、戯れなのだ。

にも関わらず、いやだからこそ、彼のこの島での行動は後のMGSシリーズに決定的な要素を齎している。それが、オセロットの右腕の切断だ。後のMGSシリーズにおいて、オセロットは喪った右腕にリキッド・スネークの腕を移植し、これこそが、MGSという作品における究極的な仕掛け、嘘、沈黙の鍵となる。外部からの他者が、内部に決定的な傷痕を、他者の訪れへの開かれた場を遺すのである。

リキッド・スネーク。メタルギア・ソリッドと銘打たれたこのゲームにおいて、ビッグボスの優性遺伝子のクローンであるリキッドと劣性遺伝子のクローンであるソリッド、つまり兄弟であるはずの彼ら。しかしMG"S"であることによってリキッドはこのゲームの全き外部へと放逐される。この放逐はこのゲームにおいてグレイ・フォックスに為された以上の放逐に他ならず、その意味でこのゲームにおける究極的な外部の人とは、このリキッド・スネークに他ならない。

実際、彼は自らをビッグボスの劣性遺伝子を集めたクローンだと勘違いしていた。だからこそ優性遺伝子を集めたクローンであるソリッドを憎しみ、父も母もなく生殖機能すら奪われたクローンである自分を憎しみ、父親であるビッグボスに屈折した憎しみと愛情と尊敬の念を抱くに至る。

ここでは二重の誤解が生まれている。まず、本当はリキッドが優性遺伝子を集めたクローンであったこと。そして2つ目が、優性劣性とは遺伝子の優劣を意味してはいないこと。

一見このあまりに愚かな誤解は、リキッドがプラトニズムにおける劣った外部であると考えると、奇妙にそれと符合する。彼はソクラテスが、プラトンが貶めるエクリチュール=書き込み=遺伝子であり、それ(エクリチュール、書物)が貶められるのは、読み手によっていかようにも解釈され、またその解釈を書き手が管理することも出来ないこと、つまりこの解消不能の無限の誤解の連鎖にあったのだった。我々はリキッド(液体)とソリッド(個体)が明らかに二項対立を意識した配置であることに注意するべきだろう。そしてこの二項対立から、ソリッドが、優れた片方として選び取られ、メタルギア・ソリッドの名を冠することとなる。ここで行われていることは、まさしくあのプラトニズ厶的な決定の形而上学だ。

しかしこの誤解こそが他者を呼び込む契機となり、ひいては正義を齎す契機となることは先に述べた通りだ。ではリキッドによる正義とは何か? それこそがオセロットなのである。 

オセロットは喪った右腕にリキッドの腕を移植するのだが、徐々にリキッドに人格を侵食され始める。デリダは外部から添え物的に付加されたものが内部の内部へと侵入し、それに取って代わってしまうような運動を、代補の運動と呼ぶ。例えば、絵画における額縁は単に外部から備えつけられた飾りのようなものだが、しかしそのような額縁があることによって、我々はその内側にあるものを芸術作品として初めて鑑賞することができるようになる。芸術の添え物としての額縁が、寧ろ芸術の要件のようなものになる。本来芸術の添え物でしかなかった額縁が、それを付けることによって、逆に内部のものが芸術化されてしまうような、そのような主客転倒が代補の運動のことだ。

そのような代補によってオセロットはリキッドに人格をのっとられ、MGS4においてはもはやその名はリキッド・オセロットに変わってしまう。

噫だがしかし! これすらも嘘なのだ! 沈黙なのだ! このゲームでは!

臓器移植による記憶転移は確かに確認されているがそれは人格の混濁を引き起こすようなものではない。ましてや人体の内部でもない腕の移植によって完全に元の人格が消え去り、あまつさえ乗っ取られる? そんなことが起こるはずはないのだ。 

つまり、オセロットはリキッドに人格を乗っ取られたのではない。彼は愛国者達の目を欺くため、自分を洗脳することで、自分がリキッドだと思いこんでいただけなのだ。

そうしてこの洗脳、この嘘、この沈黙、この他者の到来によって、愛国者達による管理統制社会は崩壊し、スネークの物語が幕を閉じる。リキッドというメタルギア・ソリッドにおける究極の他者が、オセロットの右腕の移植という代補の運動、他者の訪れを通して、管理統制社会という個性を無視する社会を、タグ付けされた兵士たちがID付きの銃を持って闘う戦場を、プラトニズム的な形而上学を、愛国者達の手先であったオセロットによって、内部から解体していくのである。

MGS4で実はソリッド・スネーク(オールド・スネーク)は何もしていない。彼は最初から最後までリキッド=オセロットの掌の上で踊っていただけだ。だからMGSは、リキッドが救ったのだ。この他者の訪れが、正義を、MGSにおける理想を、ザ・ボスの意志を、実らせる。オセロットがザ・ボスの息子であることは示唆的だ。しかしオセロットはザ・ボスの意志を為そうとしたのではない。ビッグ・ボスの意志を為そうとしたのである。ザ・ボスの正嫡の子としての自分ではなく、ビッグ・ボスの私生児としての子の自分。故に彼はリキッド・スネークを選んだのではないか、とも言われている。つまり、自らの尊敬する兵士であるビッグボスの、スネークの、蛇の系譜へと列せられんがため、彼はリキッドを隠れ蓑にすることを決めたのだ、と。

この他者の訪れとしての物語、脱構築的な、デリダ的な物語の主人公がスネークの名を冠するのもまた示唆的だ。デリダは脱構築の形容として幽霊や灰の他に、パルマコンという言葉を使う。この語は薬の意味を持ちながら、毒としての意味も持つ言葉として、二項対立の解体を目論むデリダにとって象徴的な語として登場するのだが、このパルマコン、薬と毒というこの関係がそっくりそのままスネークに、つまり蛇にも当てはまる。蛇とは、パルマコン的生物なのだ。

毒の方はすぐさま理解できるだろう。では薬は? 全くもって、これを書いている私ですら信じられないほどに、実にぴったりと符合するものが存在する。それがアスクレピオスの杖である。この蛇の巻き付いた神話の杖は、医療の象徴として世界的に用いられるシンボルマークだ。WHOや米国医師会のマークも、日本の防衛医科大学校のシンボルもアスクレピオスの杖とよく似たカドゥケウスの杖と鳩をかけ合わせたものだ。もっと言えば薬学におけるシンボルはヒュギエイアの杯と呼ばれるもので、これもアスクレピオスの持つ杯に由来し、やはり蛇の巻き付いた杯なのだ。蛇とはまさしく、毒でもあり薬でもある、パルマコン的生物であることがお分かりになると思う。「毒」という言葉のみについて見てみても、poisonという言葉は元はラテン語のpotioから来ており、中世には水薬や魔法の薬効ある飲み物を意味し(potionを思い浮かべよう)、ブレイアード派の詩人などもこの意味に倣って「愛の妙薬(poison amoureuse)」という風にも表現している。あるいは「毒」という漢字の字源にはいくつかの説があるが、その内の一つには、毒とは生え始めた草としての「生」と子供を生むことの「母」からなり、昔出産の際に服用した強精剤の草のことを表したのが毒になったというものがあり、やはりここでも毒には薬的性質がついて回っている。

そしてこの脱構築的生物、パルマコン的生物である蛇が、このメタルギアシリーズにおける主人公の名前なのだ。勿論それは偶然以外の何物でもないが、しかしこの偶然が起こったことが、この物語がいかに脱構築的な運命の戯れに左右されているかの証左に他ならない。


そしてメタルギアはファントム・ペイン(幻肢痛。この脱構築的痛み)へとその歩みを進めていく。メタルギアシリーズが時系列に沿って作成されていないのも、形而上学の解体という点で非常に示唆的だ。デリダはハイデガーやヘーゲルから多大な影響を受けている。そのデリダにとって『歴史性』というのは重大なテーマであり、彼が解体すべき形而上学の牙城の内最も強固にして重大な防壁だろう。メタルギアは時系列を無視し、語られた設定と矛盾し(尚且つそれらと何らかの整合性を保ち)ながら、『時間の関節が外れてしまっている(「The time is out of joint.」)。』。この表現は非常に重要だ。この『ハムレット』から引用された一文はデリダにとって他者を呼び込むための契機、脱―臼による脱―構築に他ならない。デリダは『マルクスの亡霊たち』でこの語をテーマとしてマルクス論を展開していく。マルクスはディケー、ギリシャ語で正義を意味する言葉をその根源的意味において「接合」であると述べ、従って対義のアディキアは「不接合」であると述べる。デリダはこれには同意するわけだが、一方でこの両者の差異はマルクスにとっては「不接合」が不正であることに対してデリダにとっては正義の契機になることにある。なぜならマルクスにとって「正義」とは「接合」していること、存在がある一つのものに結集していることを意味する一方で、デリダからすれば時間の不接合(「out of joint」)とは存在と時間の秩序を攪乱し一つのもの、全体性への存在の沈殿を乱し他者への開きをもたらすことにつながるからだ。このようにしてデリダとメタルギアは『歴史性』を脱構築する。

この作品をプレイした経験がありかつここまで読んだ読者諸氏ならばファントム・ペインの内に私が書いてきたものの痕跡を見つけるだろう。クワイエットの名、ヴェノムの沈黙(彼がビッグ・ボスでないこと)、イーライ(リキッド)やサイコ・マンティス、ヴォルギンの沈黙(彼らは不思議なほどに作中言葉を発しない)。しかし私が最も強調したいのは、この作品が『未完』であること、そして、これの続編的位置付けであるメタルギア・サヴァイブによってこのメタルギアシリーズが外部(つまり、コナミによって)に取って代わられてしまう(凌辱される)ことだ。

そしてこれらのことがこのメタルギアシリーズが脱構築的物語であることを理由付ける。つまりこの物語とは誰か個人の手(小島秀夫監督)によって完結されない、内なる他者(コナミ)に開かれた物語である。従ってこの物語は未完のまま、我々やコナミやその他の誰かに無限の開きをもたらし、そして最終的にはコナミという他者(しかしそれはメタルギアにとって内なる他者だ)によってメタルギア・サヴァイブが生み出されたことでメタルギア・シリーズは作中のみならずメタ的な点においても他者への開きを我々に示唆する。メタルギア・サヴァイブがこれだけ見れば良ゲーだと言われるのも私の妄想を膨らませてくれる。そう。妄想。幻想。メタルギアはこの他者への開きによって私のこの『他者への開き』論という妄想、他者の入り込む余地をまさしく開いてくれている。

デリダは黙示録についても主張する。デリダは「黙示録なき黙示録」について「来なさい」とはしかじかの終末論を予言するものではなく、終末論それ自体を呼び込むためのある種の地平の開きであり、この全てに開かれた応答――なぜなら「来なさい」もまた「来なさい」なしにはありえない――こそが経験の本質的な条件であることを主張する。こうした考えはヘーゲルから受け継がれていて(https://www.hakusuisha.co.jp/smp/book/b506306.htmlのクソ序盤に書いてるから図書館とかで探して欲しい)、ヘーゲルは歴史の形而上学、つまり今までの全ての哲学を包括するような哲学、哲学の終わり、終末論的哲学でその名を知られているわけだが、こうしたヘーゲルの試みに対して為される批判というのが「ヘーゲル以後も哲学は続いている」というものだ。しかしデリダはこれに異を唱える。ヘーゲルが提示した終わりの哲学、哲学の終わりとは今までの哲学全てを内包するものだ。従ってそれは例えば今までの哲学の完全な否定や、それらと全く断絶した外宇宙から飛来する哲学でもない。最後の哲学、それはデカルトやプラトンやカントが究極の原理であることを論駁するだろうが、しかしそれらを自らの一つの要素として取り込み、それらを取りまとめるものになる。それは最終弁証法的哲学なのだ。そうして実際のところ、「最後の哲学のありさま」に対するこのヘーゲルの哲学というのはまさしく「最後の哲学」であり、それは歴史性というものが遂に今ここで無限の開けとして我々の前に姿を表した、「この世界には未だ未発見の土地がある」ことが発見されたことに相違なく、ここにおいてヘーゲルの最後の哲学を「単に時間的に最近接の哲学」であるとか「そこで哲学の全てが取り尽くされてしまう哲学」というようなものであると考えるのは全くの誤解だ。というわけである。そしてこの「終わりの哲学とは無限の開けである」というデリダのヘーゲル解釈がデリダの他者への開き、「ウィ、ウィ」、黙示録への開きといった思想に大きく寄与したのは間違いないだろう。そしてこの無限の開けとしての終末論がファントム・ペインにおいてもそれが未完であることで為されていると言えるように私は感じる(お分かりのように私はもはや自分が何を書いているのかよく分かっていない)。

メタルギアというこのステルス(沈黙)ゲームはこのように徹頭徹尾脱構築的物語であることが垣間見えたであろう。

私は最後にデス・ストランディングについて話そうと思う。勿論ここにもデリダ的思想は色濃く受け継がれている。生と死の混濁、BTが全くもって脱構築的存在であることは言うに難くないし、アメリカ再建が達成されるべき絶対的善であるようには描かれていないのも注目するべきポイントだ。胎児を道具として使用したり、サムに手錠を取り付け、好き勝手に血を抜き、そもそもが一度は彼を殺しかけた女の意思によるものだったりとデス・ストランディングのストーリーはプレイヤーが体制側を手放しに称賛することが出来ないようになっている。それはアメリカ再建がまさしくプラトン的決定であるからに他ならない。アメリカ合衆国の再建、離れ離れになった個人達を繋ぎなおすと言えば聞こえはいいが、それはつまるところ他者の否定そのものだ。だから小島監督はこれを善としては描かないし、ストーリーを進める上で、全てのプレッパーズ達がアメリカ合衆国に入るわけでもない。アメリが絶滅体であること、アメリカ合衆国再建の立役者であるサムがどこかへと姿をくらますのは内なる他者性の現れと見て取れる。中でもこのサムの他者性、脱構築性を表すのが、クリフのこのセリフ。

サム、お前が俺の代わりに本物の橋になれ

一見、形而上学的決定の側に与する言説にもとれるかもしれない。しかし「橋」という建造物について注意を深めると、別の側面が見えてくる。

ロンドン橋を例に取ろう。ロンドン市内のシティとサザークを結ぶこの橋。私はあなたたちにこう問いかけよう。

ロンドン橋は、果たしてシティにあるのか、それともサザークにあるのか?

そう。橋というのは不思議な性質を持っている。橋は離れた場所、行き来のできない場所を結び、人々を結び付ける。にも関わらず、この橋自体は実はどこにも属さないし、またどこにも属するのである。橋とは脱構築的建造物だとも言える。

そしてサムは橋なのだ。彼はアメリカと孤立した人々を繋ぐ。しかし、彼はアメリカでもないし孤立した人間でもない。同時にアメリカでもあり孤立した人間でもあるのだ。何より、彼がサム・ワン(サムその人であり他の誰かでもある)と呼ばれること。この脱構築的呼びかけ。「誰かいるか!」と呼びかけることができること。他人の建造物や道具、捨てた荷物が自らの世界に座礁してくるこの他者への開き。接触恐怖症という他者の存在の否定とその肯定と、それにも関わらず何故か荷物を運び続けるサムのこの矛盾。クリフォード・アンガーが亡霊として立ちはだかってくること。孤立した人々を繋ぎあわせる縄(ストランド)が暴力の手段としても使われること。消滅を望む宇宙。種の絶滅が一方で種の繁栄をもたらすある種の矛盾。デス・ストランディングもまた小島監督の脱構築の系譜をその身に受け継いでいる。

他者への開きとは、その人を自らの仲間にすることではない。自分以外の誰かがいることを認めることだ。他者を思うこと、共感とは、原理的に無理解のことだ。他人のことが理解できないからこそ、我々は自分の経験をそこに当て嵌めて、妄想を膨らませるなどという曲芸が可能となる。他人を、所有しようとすること。それが共感であり、そして完全に他人を所有したとき、もはや共感は不要になる。完全な共感はもはや共感を必要としない。『重力と恩寵』におけるシモーヌ・ヴェイユの言葉。

他の人がそのままで存在しているのを信じることが、愛である

好きな人と付き合う。好きな人と結婚する。これらが真の愛足りえることは稀だ。なぜならそれは所有することであり、他人がそのままでいることを拒み自らの手中に収めようとする行為だからだ。真の美とは何を意味するか? それは完全であること。つまり、いかなる変更も加えられず、永遠に不変であることが望まれるものだ。それが真の美であり、そしてその真の美のために自らを無化すること、これが真の愛だ。愛するとは、愛さないことだ。ブレード・ランナー2049。

誰かを愛するには、他人のままでいたほうがいいこともある

究極の愛とはこのようなものだ。愛するためなら、愛さないことすら厭わないことが、愛するということだ。慎重に、決して何も望まず、人目につかず、隙を見せない。これが愛だ。モナ・リザに触れようとは決して思えないように、愛する人には決して近づいてはいけないのだ。この無限の開けが愛であり、言語の要件であり、なにより他者の存在の肯定なのだ。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?