『デリダ なぜ「脱―構築」は正義なのか?』感想

読んだ理由: Twitter(100年後の子どもたちよ、Zは昔Xと呼ばれ、そのさらに昔はTwitterと呼ばれていた)で見かけたので気になった。

ちなみに私のデリダの経験はこhttps://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211776れだけだ。

また私は哲学について何ら専門的なトレーニングを受けておらず、法学部法律学科に在籍している。最も、こと脱構築に関しては哲学科であるより法律学科である方が有利に働くだろう。以下引用。

実際には当然ありえないことなのだが、そうした「問いかけ」あるいは脱構築的なメタ―問いかけが自己固有の場というものをもっているとしたら、それは哲学科やとりわけ文学科――その内部に脱構築的な問いを収容されるべきだとしばしば信じられてきた――においてよりも、ロー・スクールにおいて、また、ときにそういうことが起きるように、おそらく神学科や建築学科において、よりアット・ホームである、ということになるだろう

『法の力』カードーゾ・ロー・レヴュー版[仏英対訳版]


ここから先は長いので、最後の段落だけ見るといい。



本を開く前にすでに疑問点が浮かぶ。帯に『世界が現象する瞬間へ!』と書いているのだが、世界が現象するってなんだよという気持ちになる。デリダにそういう、なんか原初の時とか実在がありありと現れてくるとかの印象がまったくない。何を言っているのかよくわからない。疑問はすぐ解ける。デリダはハイデガーとかヘーゲルとかから着想を得ているので、確かに現象学の系譜にある。デリダがハイデガーとかが好きなのは知っていたけど、そうであるなら確かにデリダは現象学者ということになるというところまで追いついていなかった。でもデリダにあまり現象学っぽさを感じない。デリダが「存在を基礎づける純粋にして絶対な法則」とか言ってるところが想像できない。寧ろ、そういうのは一番嫌いそうな感じだ。現象学のことよく知らないけど。まぁ、現象学のwikiにもデリダが出てくるしそうなのかもしれない。


デリダの入門書と思って読み始めたが、早々にそれが間違いであることに気付く。筆者の「世界が表現である」という思想と「思考は対話である」という思想に基づいて、筆者がその時々で引き合いに出す哲学者たちを「あなた」と呼んで対話していく形式(実際は全く相手の哲学者たちに喋らせることはない。対話とはなんだったんだ? そこがこの本の一番の疑問だ)を採ってこの本の議論はすすんでいく。


まず初めに世界、現象というものが「差異」によって立ち現れることについて触れられる。つまり、木とか金糸雀とかお前とか醤油とかは、語という「記号」によってそれとして名指され差別化されることで、初めてそれとして認識できるようになる。世界という広大なキャンバスを、一つ一つ切り取って額縁に入れる作業が記号であり、それによって初めて単なるカラフルなモザイクを細分化し分別し対象として鑑賞すること、現象することが可能になる。


一方で「差異」それ自体を名指すことが出来ないことも重要な点だ。なぜなら差異とは名指しが名指せるようになるための当のものであって、それはそれ自体で現に存在するものではない。木は木として、皿は皿としてあなたの前に提示できる。しかし差異は差異として提示できない。身長の高い人と低い人を連れてきて「彼らの頭の位置の違いが差異です」などと言うしかない。それは確かに何らかの「差」や「異なり」をあなたに見て取らせるのかもしれないが、それは世界を種々の要素に分節したあの「差異」を示しているわけではない。額縁を額縁に入れることができるだろうか? 仮に入れられたとしても、やはりそこには新たな額縁があって、これは額縁に入れられていないし、額縁に入れられた額縁はそれによって額縁としてのありかたを損なわれ、半ば作品化してしまうだろう。


さらに「差異」について重要な論点が繰り返される。それは、「差異」とは常に「遅れてやってくる」ものだという点だ。これは言語的に考えると分かりやすい。例えば「高まりつつある」とか、「燃えつつある」とか、「恋しつつある」とかの表現は言語的に可能だ。一方で、差異についてこのような現在進行形はありえない。「異なりつつある」ならそれはもう既に異なっている(そして「異なっている」は状態の完成、つまり「異なり」が終わった後のことを指している)し、異なっていないのなら、それは異なっていないのだ。また身長の例をだすなら、全く同じ身長だった二人のうち一方が高くなり始めたのを「異なりつつある」と言うのはおかしい。なぜなら彼らの身長はもう既に異なっているからだ。「異なる」に、異なり度50%とか異なり度87%とかはない。『異なり度』と『翼なり渡』は異なり度50%だろと思われる人もいるかもしれないが、それだって、「異」と「翼」、「度」と「渡」の異なり度が100%以外にはありえないからそのような言い方ができる。そして私の言う異なり度とはそれのことだ。従って「異なる」は「異なっている」「異なっていた」(「異なるだろう」は当然今は異なっていないので「異なる」ではない)以外にありえず、常に遅れてやってくるもの、事後的に確認されるものになる。それに対する名指しが決定した瞬間にそれが立ち現れるのであり(従って本来は「それに対する」名指しという表現はおかしい)、差異化される以前には差異はなかったのだ。草を認識した瞬間に「草」という言葉が生まれるように(「草」でなくていい。緑のつるつる、なんかちっちゃいふさふさしたやつ、言語すらいらない。それがある一つの対象としてそのとき初めて知覚される。その経験が「記号」の意味するところだ)、「草」以前に草はこの世に存在しなかった。あなたの五感が「ここらへんはなんかゴツゴツしてないな」と思ったその瞬間、草が現象するのであって、その現象は常に差異化完了後に我々の前に立ち現れてくるし、完了しているから立ち現れることができる。

このようにして「差異」は「遅延」されることが示される。つまり、ここにおいてついに「差延」の概念が導入された。それは世界の原初を指し示しつつ、決してそれに到達することはない、このような原初の失われと、にも関わらずのその痕跡のことだ。

さて、我々が原初に到達できないことは理解した。確かに実際、世界はまるで差延などというものなしに自らを自らの力でありありと表象しているように感じる。"それ"は初めから"そう"であったように感じる。差延の動きはまったくもって抹消された如くの様相を呈している。


しかしよく考えてみるとこの感覚は間違っていることに気付く。我々の目の前に現れているこれらは、現れることによって初めて存在するという意味で、それは原初のものではある。現象することと存在することは常に同時に、どちらかが行われれば"その瞬間に"もう一方も行われるものだ。ここで重要なのはそれらは現象であるがゆえに、現れるための「何か」を必要とするということだ。確かに、草に気付かなければ草は存在しないのだが、あなたが草に気付けたということは、実は草はあなたが気付く前にすでに存在していたのである。それは草以前のものだ。つまり、現象とはその点で原初でありながらすでに繰り返されたもの、模倣なのだ。たとえばあなたが三角形を初めて知ったとき、あなたにとってその三角形は原初のもの、原初の三角形なのだが、あなたはその三角形のことを「三角形なるものの一つの現象形態」として見たはずだ。つまり数多ある三角形のうちの一つとして見たはずだ。つまり、現象が起こった瞬間、それは存在の初めての瞬間であるにも関わらず反復された瞬間なのだ。

そのような本体を失った現象の例として「声」が持ち出される。「声」が本体を伴わない現象であるというところではなぜか不必要に複雑な例が持ち出されるのだが、「声」が本体を伴わないこと、「声」という現象が遅れてやってくるものだということは言われなくてもみなさんお分かりだろう。なぜなら声とはある種の波の伝播だからだ。その点で声は必ず遅れてやってくるものだし、その声の本体、つまり発話者の中にある思考や感情といった発話者に声を出させるに至った何か、は発話の瞬間に失われ、単なる波の伝播に成り下がる。この波の伝播を追いかけたところで、発話者の口や食道や肺に行きつくだけで、本体に辿り着くことはないし、その本体は既に失われている。あなたがロープを揺らしたとき、ロープの揺れを追っていってもロープの端に行き着くだけで、それを揺らしたあなたの手には到達しないし、あなたの手は最初からロープの揺れの中には現れておらずそれはもとから完全に失われている。ただ誰かが揺らしたという痕跡が地面についたロープの揺れの跡等として遺されるだけだ。

こうした本体とか原初とかの失われが「エクリチュール(書き言葉)」という語で表される。なぜ書き言葉なのか? 本の出版ということを考えてみる。本が本足り得るのに最も必要なこととは、それが刊行されること。つまり筆者によってもはや書かれなくなることにある。それはある意味で筆者の「死」であり、本とは生気を失った冷たい言葉たちであって、だからこそ我々はこうして安心してふんぞり返ってあーだこーだ批評することができる。死人に口なし。面と向かって言うのは憚られるが、陰口言う分にはボロクソ言ったところで何の問題もない。しかも本のいいところは、それがモノとして残ること、時代も場所も越えて実質的に無制限の反復を可能にする点にある。本は我々によって無制限に好き勝手に読まれまくり、解釈されまくる。筆者は死んでいるが、筆者の痕跡は残っており、それを我々が解釈し筆者の気持ちとやらを汲み取ろうと奮闘するのだが、それは結局いつも誤解され歪められる。これほど本体のない痕跡という事態をよく表したものもないだろう。


書くたびごとに筆者が死ぬこと、書くたびごとに書きたかったものが失われていくこと。あなたの頭の中にふと浮かぶイメージを"そのまま"映像に映すようなものがあったとして、それは全くあなたの思考を表現していないし、寧ろそれを殺してすらいる。なぜならあなたの頭の中で何か意味不明な言葉や図形、昔聴いた音楽や、映画のワンシーンがふと思い浮かんだとき、あなたはそれら自体を思い浮かべたのではない。それらを喚起した「何か」、それらによって象徴される「何か」、それらの向こう側に閃く「何か」がその時現象したのであって、それら自体には何の意味も含まれていないとすら言えるかもしれない。言葉にすること、書くこととはそういうことだ。あなたの中にある「何か」のある意味での殺害なのだ。そして、その殺害からの復活を通してしか、書きたいものは書かれない。つまり、筆者もまた自らの書いた文章を、読み手として解釈するというそれによって。書き手は書き手のままでいることは出来ない。書物を完全に自らの書物とすることは出来ない。それは上梓されることによって書物が自らの権力の範囲外に行ってしまう点でもそうだし、そもそも書き手自身が書き手でい続けることが出来ないという点でもまたそうだ。

こうしてエクリチュールは誰の手からも逃れる。それは深い森の中を駆け回る蝶のように、視界の端に映った気がして振り向けどそこにはいないし、やっと追いついたと手を伸ばしても、ひらりと優雅にそれを躱す。書き手は必死にこの蝶を檻の中に閉じ込めようとするのだが、どれだけ厳重に鍵をしても、蝶はひらひらと青空へと溶け出していく。そこでは蝶はなんのしがらみもなく、純粋に自由だ。


無限の誤読の波にさらわれることは、もしかしたら悲劇と呼べるものかもしれない。しかし、もし仮に世界が全て白日のもとに明白なものであるならば、その世界は果たして豊かさを持ちうるだろうか? 数学で考えよう。そのような世界とは、公理系(数学を考える上で無条件に成り立つと認めるものたち)を設定した瞬間に、全ての定理が得られるような世界のことだ。それは確かに誰の目にも明らかな論理展開で、全てが一挙に明らかになるのだが、その後に訪れるのは沈黙と停止だ。物語の終わりだ。我々はもはや何も残されていない世界で、一体何を糧に生きていけばいい? 差延の世界は、絶望から始まるのかもしれない。根源的な一、絶対的な真理には到達できないことを示すかもしれない。しかしそれはある種最大限の希望にもなり得る。人々があーでもないこーでもないと毎日寝る間も惜しんで一つの本と相対して、自らの解釈を組み上げて、それを人々に共有する。時には賞賛を得て、時には罵詈雑言を浴び、激しい議論を交わすこともあるかもしれない。しかし、ここでこそ人間の営為が、真理への真摯な探究が為される。それに何も心配することはない。なぜなら、真理の痕跡は世界に溢れているのだから。 


このような事態において最も注意するべきことは、現象と向き合わずに、常に同一の「本体」を措定し、それによって差延の運動を覆い隠し抹消する行為だ。デリダはこれを「暴力」と呼ぶ。書き手が本を所有しようとすること、差延に恐怖し、何の根拠もなしに真と偽を決めつけるようなこと。名付け、あるいはレッテルを貼ること。これらは最も避けねばならない事態だ。そこには自由は存在しない。「この読みが正しく、その他は全て間違っている」。そこには豊かな現象は発生しない。自由に世界を解釈することは不可能になる。第二次大戦時、ユダヤ人はユダヤ人でしかなかった。彼らは学生だったかもしれないし、スポーツ選手だったかもしれない。しかしそれらの豊かな解釈は失われ、ただユダヤ人かそうでないかでしかなくなり、ユダヤ人であるならば、地獄が待っていた。ここで重要なのは、名付けそれ自体が既に暴力であることだ。スポーツ選手だとするのもまた暴力ではある。それは何者でもない「あなた」(従って「何者でもない」あなたはまた不在のものでもある)を抹消するからだ。問題は、そこから最小限の暴力を選び取ることにある。


デリダは、こうした形而上学的決定をこそ危惧していた。同じものが、その都度別の仕方で新しく生まれいでる可能性、あなたが次の日の朝に新たに生まれなおす可能性、今までの常識を一変させるような解釈、有が生まれるための土台としての無の有、絵画を真っ直ぐ見たり、下から見上げたり、陽に透かしたり、裏から見たりする無限の鑑賞の仕方、そこから現れるもの、デリダの目線は常にそれらに向けられている。その内にある他なるものへの視線、色の塗り方が気になるなら近くによって見るべきだし、どれくらい昔に描かれたか気になるなら放射性炭素を見るべきだという、このような多様な鑑賞の仕方。それが「脱―構築」の運動だ。それは決して破壊ではない。それは暴力的決定から脱出し、他なる構築への道を指し示すことだ。そしてそれ故に「脱―構築」は何か特定のことを意味しない。それは常に彼方を指差す動きのこと、進み続け増え続ける大旅団の進行による地鳴らしのことだ。


他者としての「他者」。私の私としての同一性を揺るがしかねない、ある種の死。私が一年後、一秒後、あるいは明日起きたとき、全く別の志しを持って生まれ変わること、それは希望であり、生であるが、そこには当然死がつきまとう。脱―構築とは動揺のことだ。それは独裁者への革命を高らかに歌い上げることだ。その過程で、我々は血を流すこともありうるだろう。それでも、我々は脱―構築をしなければいけないのか? それは何のために? 虐げられた弱者のため。見棄てられた人々のため。私以外の誰かが存在していいこと、いることを証明するためだ。


そのためには、他者への肯定がそのたびごとに更新されなければいけない。それはその瞬間に即座に再確認され、いや、また新たに肯定され始める形で、無限に反復される。その肯定は書かれては消されまた書かれるような肯定だ。それは絶対的なものではない。なぜ他者への肯定がそのようなものでなければいけないのか。それは他者への肯定とは、私を他者へと開くこと、すなわち応答であること。つまり、相槌であること。「うん、そう、うん、私は今あなたの話を聴いているよ、はい、うん、そう、聴いてるよ、そうだね、うん、うん………


そろそろ『「脱―構築」は正義なのか?』という問いにも答えるべきだ。答えはNOだ。脱―構築は正義ではない。しかし、脱―構築のみが、正義の可能性を生み出す。それは、あらゆる可能性がそこで立ち上がるための舞台だ。


他者への肯定、他者の到来。それは即ち、襲来でもある。宇宙人との邂逅と言ってもいい。その時、我々に迫られるのは「決断」だ。誰とも知らない、「誰」なのかも分からない。知識も常識も通用しない。それでも、我々は「決断」しないといけない。無視するか? 接触するか? 攻撃するか? 他者への肯定とは「他者への服従」でもある。たとえここであなたが無視することを決断したとしても、それは無視である時点でその根幹にはどうしようもなぬ他者の存在への肯定がある。我々は他者に対して何の優位性も持っていない。私が他者の存在に対して神の如き目線で傲慢にその肯定や否定を選択できるわけでは決してない。寧ろ私は他者に圧倒され、その存在をどうしても認めざるをえないような、そんな窮地に立たされている。だから、為されるべきは「決断」なのだ。それは一つの極北で為される行いだ。そこには論理もないし経験もない。頼りになる規則や盲目的に従える常識も存在しない。どうしようもなく孤独で、どうしようもなく真っ暗で、それでも私は為さねばならない。そして、このような、単なる数学的記号操作や、盲目的規則に従った思考から遠く離れたところ、正しいも間違いも遠く及ばない、全てが不可能な場所。しかしその不可能をそれでも可能にしようと人が懸命に力を振り絞ったとき、そこにこそ、正義が、他者が到来することのできる場所が開かれる可能性が、生まれ始める。


不可能を、それでも可能にせんと抗う。あなたが誰かに贈り物をしたとき、その誰かはあなたに負い目を感じることになる。それはあなたの贈与が贈与であればあるほどそうなのだ。「こんな高いものタダで貰っていいのかしら」「私もしかしてなにか騙されているんじゃ」。例えそれが「ありがとう」という感謝の感情だとしても、それはやはり負い目であり、負債だ。故に贈与は、エコノミーに、交換にならざるをえない。それはもはや贈与ではなくなってしまうのだが、それによって、贈与として贈与が為されもするのだ。真の贈与は不可能だ。しかしそれでもそれを希求すること、贈与と交換という二つの相反する行いを、それでも行うこと。ここでも不可能な正義の可能性の追求という正義の動きが働いている。


脱―構築。地下に張り巡らされた秘密の抜け穴。暴力的決定や、最初から失われているものがある仕方で我々に痕跡を残すというこの現象を、単なる繰り返しへと還元し、有のための無の土台そのものを覆い隠すような動き。我々はそれらに常に抗い続ける。この戦いに完全な勝利は訪れない。我々は常にこの二つの力の間で立ち尽くすことしかできない。そしてそれが脱―構築だ。それは常に他なるものなのだ。勝利でも敗北でもない。敵でも味方でもない。全くの第三勢力。そしてそこにおいて初めて正義の可能性が生まれ始める。それはもしかしたら更なる悲劇をもたらすかもしれない。しかし、勝利も敗北も届かない、全く新たな地平へと、我々を連れて行ってくれる、そんなことが起きうるとしたら、それはやはり脱―構築以外にありえない。我々は常にそこを目指し続けなければいけない。それは不可能な所業だ。なぜなら戦争は互いの正しさの証明だからだ。善と悪ではない、それは正当化の論理戦争だ。だから正義は不可能だ。どちらも正しいということはありえない。それができなかったら争っている。しかし、よりよい仕方があるはずなのだ。戦争と、それによってもたらされるものより、もっといい方法が。それが何かは分からなくても、我々はそれを考えつづけなければいけない。そしてそれは考えて出るようなものではない。それはあなたが勇気をもって(それは時には狂気ですらあるかもしれない)行う、決断のときに、我々の前にその可能性を見せ始める。世界中の全員とついでに自分も救われることを考え続けることだ。それは不可能だが、それでも私がした決断によって、幾分かマシな世界ができるかもしれない。それを願おう。





これで一応感想は終わりなのだが、かなりひどいことになっている。筆者もデリダ解説と見せかけて自我が満載なのだが、私も大概だった。もしこの本を見た人がいたなら、「こいつマジで読んだか?」と思ったかもしれない。それくらい違ったことを言っているし、時系列を無視している。かなり夢見がちな文体なのだが、まぁそれもいいじゃない。私もかなり影響を受けている。『デリダ 脱構築と正義』とはまた違った解釈が多くあり、楽しめた。またかなり短いので、さくっと読めるのもいい。また、私は( )を非常によく使う。文章を書いていると、注釈を差し挟まずにはいられないのだ。一方でそれが判読性にかなりの悪影響を与えていることも自覚していたのだが、この本を読んで実際にそれを読まされる人間としての感覚をあじわった。この本もめちゃ( )を使う。なおそうと思ったが、まぁ、無理だったみたいだ。デリダの入門書であるかは微妙なところだ。筆者のエッセンスが入りすぎている。が雰囲気を掴む分には優れた本と言える。




















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