日記

涙がでるうちは安心できる。悲しむうちは安心できる。真っ暗な部屋のすみで、もしかしたらなにがしかの音楽を聞いて、襲いかかる想念から目をそらそうとするのも、安心できる。というのも、それらは全て体と心が正常にうごている証だ。悲しいことを悲しいことと感じ、それによって体や心が悲鳴を上げるのは正常な反応だ。あるいは進化論的に見れば、悲しいときに涙をこぼすような人びとが自然に選択されて、今、我々もまた同じように涙を流している。だから、それらは剣を突きつけられれば盾を構えるような、正常な防衛反応であって、傷口から血が出ているうちは、まだ生きているのである。問題となるのは、そうしたことが起きなくなったとき、できなくなったときのことを言う。

精神病とはなんであろうか? 特に神経性のもの、これは一体、病と呼ぶべきものなのだろうか? それはむしろ、生存に有利であったからこそ今も残る心の諸機能の一つではなかろうか。
発達障害に目を向ければ、たとえばADHDは散漫な注意によって周りの気配を敏感に察し、多動性によって新たな土地を開拓することもあっただろう。今ほど技術も知識も発達していない時代では、弓や槍や家を作るだけでも莫大な作業量と緻密な手作業がひつようだっただろう。そういうとき、常同性や異常なこだわり、強迫性は非常に役立つ特性だったであろう。
これらと同じように、抑うつ感やパラノイアは森の中での慎重な行動を促し、無計画で衝動的な食料や材料の消費を戒め、争いの火種をそっと吹き消したであろう。

大切な人を失って嘆き悲しみ、あらゆる意欲を失い時には幻覚や幻聴を見る。一方、何事もなかったかのように常に笑顔でやる気に満ち溢れ、周りを率先して助ける。言うまでもなく、あなたは後者に異常性を垣間見るはずである。

では、悲しみの極地にいるような人びととはどのような姿をしているのだろうか?

彼らが最後にすることといえば、死ぬこと、消えること、そして、どうかあなたたちがわたしのようにはなりませんようにと、まわりを楽しませることの、この三つだ。悲しみと苦しみにあえぐ人々よ。それでいいのだ。泣き叫ぶのだ。「このままではわたしは死ぬぞ!!」と叫ぶのだ。それができるうちは、自分はまだ大丈夫なのだ。毎日死にたいと叫びなさい。それがあなたが生きていることの証だ。そして、できなくなったときは、あなたに、できるだけ、穏やかな最期が、訪れますように。

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