日記

ウィトゲンシュタインには兄がいたが、そいつがマジモンの天才だったらしい。が、病跡学的事情により、ウィトゲンシュタイン家では自殺が流行っていた。結果的に皆死んじまった。いや、この言い方は悪い。死ぬのは全員そうだ。それは普通のことだ。だから、皆人殺しになっちまった。が、ひとまずはよりよい表現の仕方だろう。その兄は自殺だったかどうか忘れた。ウィトゲンシュタインも常に希死念慮に駆られていたらしい。ちなみに俺は「ヴ」ィトゲンシュタインとは書かない。ツイには何名かそういう人間がいるが、私はそれを面倒くさいと思うのであった。

前段は全くもって独立した文章であって、したがってここから先の文章と何か必然的なつながりはない。しかし偶然的なつながりはあるかもしれない。それをあなたが実は私が細工したものだと思っていただいても結構だし、こいつはテキトーに文章を書きなぐってるだけだと思うのも結構だ。私から注意を付せば正しい読解は後者だ。しかしあなたがたにとっては正しさは目を惹かないのでしょうね。あなたがたはとにかく何かを探したがる。私の頭の中でデリダの声がする。プラトンとソクラテスの顔もかすかに浮かんだ。

青葉被告 死刑確定 などといったワードがトレンド入りしていた。いくつかの記事を見た。以下引用。

裁判長は「被告は子どものころ、父と兄、妹と生活していた。柔道大会で優勝して盾をもらうが燃やされるなど身体的、精神的虐待を受けていた。中学校で不登校となり、定時制高校に通い、アルバイトをしながら皆勤で卒業した。卒業後は実家を離れ、住み込みで働いた。アルバイト先ではパイプいすを蹴るなど同僚を威嚇することもあった。コンビニでのアルバイトをやめた後、その後は茨城県内の実母と過ごしていた」と述べました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240125/k10014333101000.html

結局のところ異常者には2つしかない。1つは劣悪にして邪悪な環境によるもの。1つは遺伝子の偶然によるもの。更には隠された条件として(その時代における)がある。ここまでして、初めて異常が見つかる。それは異常を見つけているというより、半ば妄想めいている。

前者はまだいい。そこには大いなる共感の余地があり、また社会的問題として解決可能ではある。彼らはもしかしたら少し人とはずれて生まれてきて、その傾向が環境によって助長され、だから結局は彼らは元から悪かったのだと、そう言うこともできるし、また行政的・社会的判断をする際にはそうしなければいけない場合もあるだろう。つまり、彼らは人とは違うが、尚人ではある。

問題は後者だ。彼らは真の意味で元から異常者として生まれてきている。時代は彼らを見放し、従って不完全で不健全な我々の社会は彼らを爪弾きにする。一生を裁判なしに送れた者は幸運だろう。それだって、我々が量るにあまりある激しい苦痛と絶望が彼の人生にはついて回ったに違いない。もし彼らが二重の不幸によって刑事事件化するような、しかも凶悪な事件として理解されるような行動を起こす傾向を持っていたのならば、我々が彼らに感じる邪悪さが赤子のいたずらに見えるほど、彼らにとって我々は悪魔的で残忍で異常なものに見えていたに違いない。そこにはもはや空想の余地は残されていない。彼らに課された理不尽と拷問が如くの運命はあまりに絶望的だ。引用。

殺人鬼は水を飲むのか?

人と人に対する法を彼らに適用することが果たして正義と呼べるのかどうか私には分からない。私は彼らを化物だと言うのではない。それは例えばイエス・キリストが聖霊であり父であることと同じように、彼らもまたある種の精霊、少しいたずら心に富んだ精霊なのではないかということだ。彼らが一体何をしたというのだろう? 理非善悪の弁識というものを彼らが持っていたとして、それによって責任能力を認めるなら、ここのどこに正義がある? これは行政処分とどこが違う? 彼らは単に絶対的真理とは程遠い我々の教育を押し付けられ、一応の知識としてそれらを持っているに過ぎず、それは中国人の部屋のようなもので、彼らにはこの世界のほとんどがそのようなものでしかない。

社会とは何か? それはグー・チョキ・パーのことだ。私とあなたと、もう一人。これが社会の最小単位だ。私とあなたでは、社会とは呼べないし、そこからは何も生まれない。だからエヴァはやり直されなければならなかった。そして社会がその力を真に試されるのは、ここに親指と人差し指と中指だけを伸ばした「キュー」が現れたときだ。キューを社会の一員として認めればじゃんけんは崩壊してしまう。では、キューの存在を認めず、外部へと放逐するか? なぜ? 社会の構造を維持することが目的なら「キュー・チョキ・パー」でもいいはずだ。社会が真に力を試されるというのはこういうことだ。社会はその社会が規定し(得)ない異常、社会の外部が現れたときにその力を試される。悪いやつは全部牢屋にぶち込む。知らねぇやつは全員ぶっ殺す。それも1つの対処の仕方だ。だが私が思うに真の完全な社会とは、社会の外部すら社会の内部として受け入れることのできるようなもののことだ。それは異常者を『治療』して『普通』にするようなことを意味しない。それは外部を受け入れることにはならず、寧ろ最大級の外部の否定でしかない。外部を外部のままに内部に受け入れること。それは例えば殺人衝動を殺人することなく満たせるような社会づくりのことだ。ロリコンおじさんが実在のロリ(実際のところ実在のロリというのはない。人は物自体には触れられないように、ロリコンおじさんもロリ自体には触れられない)に原初的父親のまんなかにある前肢のフロイト的象徴を見せびらかしたりしなくてもその欲望を完全に満足させられるような福祉を充実させることだ。我々はもうその場所まで来れている。福祉とはもはやそのような次元、経済的弱者や病気的弱者や年齢的弱者への救済のみならず、こうした弊害のある欲望の穏便な充足というところまで私たちは来ていると私は感じている。結局のところ、世界というのは無限であって豊潤な構造を持っている。従ってあなたがたが何か枠線のようなものを引いた瞬間にあなたがたとそれ以外というものが生まれてしまう。例えあなたがたがどれだけ大きな枠線で囲ってもだ。だから私たちは絵を描くとき輪郭を描くのをやめなければいけない。世界というものを真に眼差そう。そのとき、輪郭というものがないということに気付く。世界には実はなんの枠線もないことに気付く。我々は丸いのだ。我々は三次元を二次元的にしか見ることができない。だから輪郭という錯視が生まれる。しかし真に世界を眼差すと、実は我々というのは丸であること。従ってミクロの世界というのがまるまる我々の世界でも行われていることに気付く(微視的世界においては原子や電子は点というより確率の波だという声が聴こえるが、心配せずとも我々もまた波なのだ。あなたとは三次元空間における波の山の部分だ)。したがって我々は私やあなたであるというより、むしろもっと大いなるもののうちに現れている現象なのだ。そうして全てが全てでしかなく、世界とは世界でしかないことに気付く。赤子の世界、名付け以前の世界。必然的な法というものがどこにあるだろうか? 必然的な言語というものがどこにあるだろうか? それは何でもよかった。水が虎的なものを意味していてもよかった。いやシーニュどころの話ではない。我々は言語のゲーム、規則のゲームを行っていて、それはなんだってよかった。自然法も結局は我々のうちにあるまやかしとしての想念にすぎず、機械的な見方をすればそれは遺伝子の見せる幻覚だ。そして悲しいことに実際のところそれは幻覚ですらない。それはある種の低次の理性的判断であって、さしあたり体裁を取り繕っているにすぎない。これが意味するところは、我々は寧ろもっと別の声に操られているということ、我々は今のところ戦争をする唯一無二の生物だということだ。だから寧ろ我々は「殺せ」というこの声にこそ、苦しまされている。分かるだろう? 私はもう自分がなにを書いているのかよく分かっていない。いつもこうなる。あまり気にするな。



小さな光が、錆びた鉄の檻の中で不安げに揺れる様を私は傍聴席から見ている。その光は少し目につくものではあるが、もしその光が森の中のあの開けた場所で青空の下溌剌に飛び回るのを見れたのなら、私はその日を無限の幸福の中で過ごしているだろうと思った。裁判長が何事かを発した。光はなおも揺らめいている。外に出ようとするのだが、檻には警官たちの唾が吐きかけられており、光はそれに近付くたび黒く淀んで痛みに飛び跳ね、また絶望の軌道を描くしかなかった。実のところ私はずっと涙をこらえてこれを見ていたのだが、光の軌道をよく見ているうちにあることに気付き、私は裁判長が何事かを言っているのにもかかわらず、号泣してしまった。周りから何事かが聞こえてくるのだが、私はただずっと光を見て泣いていた。光は絶望の底でもはやその温かさも鋭い感覚も直感的思考能力も、その全てを奪われながら、しかしながら、光が描いていたのは紛れもなくハートの軌道だった。



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