予め開放されたイヴ

※あくまで自分の考えの纏め用に書いたものであり、大変読みにくいです。タイトルは、竹下節子著、からくり人形の夢、「予め失われたイヴ」からもじりました。
未來のイヴ、(ヴィリエ・ド・リラダン著)
作中、「理想のアリシア・クラリー」となったハダリーは、エワルド卿に対して、貴方が私に「生命」を与えてくれれば、私は本当に「生命」を得ることが出来るのだ、と言う。(こんな率直すぎる言い方ではない)
結局のところ、他人が生きている、というのは自分が、そう認識しているだけの話に過ぎない。
他者(とこれまた、自分がそう認識している存在をくり抜く)が、それらしい振る舞い(これらの基準点も結局は認識)をしていれば、その虚像の上に、自分が持っている「他者は自分とは別個だが同種の一人の人間というものとして存在し、活動している」という認識を、確実かつ強固なものとして、被せることが出来る。
突き詰めて言えば、ハダリーは、エワルド卿に対して、自分(ハダリー)を生きていると認識して(思い込んで)欲しい、と言う訳だ。
しかし私は、自分(a)の持ち得る世界ではいざ知らず、他者の世界では、そこの主たる他者からの認識無しに自分(a)の存在を確立されず、自分は生きていると、疑いようもなく日々無意識に暮らしているただの人間よりも、どうするれば、自分は魂を得ることが出来るのか、その術を知り、実行しようとするハダリーの方が、より純粋な魂の基盤というものを持っているのじゃないか、と思うのだ。
「生命」を願うものにそれが与えられず、「生命」とは結局のところ認識のあり方に過ぎないというのに、その繊細すぎる直線状の上にいるというのも忘れ、「生命」のありがたさを理解せず、胡座をかく連中に「生命」が与えられているなんて!ああ!世界とはなんて、理不尽で未完成でなものなのだろう!

我々もまた、我々自身の認識によって「自分が生きている」としている。
個別に観測出来るということは、我々自身と「生命」は元から別のものでは無いのか?
(うん?そうすると、我々と我々自身も、「我々自身」と認識できる時点で別個の存在か?
エゴと本来の純粋な意識として在るというエックハルト・トールのような解釈に帰結するな。ニューアースしか読んだことないけど。)
我々が生きているのではなく、我々自身が生命の上に成り立っているのではないか?
ならば、死ぬのは「私」の「生命」が終わるときではなく、「私」が「生命」から離れるのが、「死ぬ」時なのではないか?
確かに文字通りにとらえれば、自殺などはそういう事になるが、私が言いたいのは「行為」によって、「自分」から生命を手放す事ではなくて、(これも、我々自身が生命の上に成り立っているという事なら、おかしいことになる。「生命」は元から、私たちの手中になどないなら、「生命」を得たり、失ったりというのは出来ないからだ。)
「私」が、(理由は様々だろうが、病気や怪我、老衰、延命治療の停止などによって)「生命」から離れる、「私」からはどうしようもない状態以降の事だ。
「私」の終わりは「生命」の終わりと同義ではなくなる
「私」が無くなっても、「生命」に終わりはないのではないか?「死」は「私」の終わりだととらえれば、それに愛着のある人物からすれば、悲しい出来事かもしれない。
むしろ「私」というものを嫌悪し、解放を願うものからすれば、救いを意味するのかもしれない。
けれどもそれを乗せていた「生命」が終わっていないのだとすれば・・・?
一体どういう事になるのだろう。
「私」という乗せるもののいなくなった生命は、一体どこにいくのだろう?
そもそも生命自体を、一人が一つずつもつ、ひとつの生命体がひとつずつ持つ、別個のもの、(中にはそれに対してかけがえのない尊いもの、とか外からの暴力(酷く殴られたり、ナイフを心臓に突き立てられるなどして)によって、呆気なく終わるものとかつけている場合もある)としか観測できないものからすれば、「私」が終わったことしか認識できない存在刈らすれば、残されたというか元からあった「生命」がどうなったのかなど、知ることは不可能なのではないか?
そもそも、「生命」自体にどこかへいくというものはあるのか?
我々は、なにか大きな力、例えば水などでもいい。
水は、説明するまでもなく海から蒸発して雨になり、人の生活を潤し、(時には物凄い災害となって人の生活を脅かしもするが、それは大きな力の循環を人間が生活に益、不利益としか捉えていないためで)また海へ還り雨となって・・・と世の中を循環しているが、そのような世に数多あるエネルギーが発散または還元されるように、どこからどこかへいくという人間が発見した法則が通用するものなのだろうか?
それに、「私」が「生命」の舞台から飛び降りなければ、もしかしたら「永遠の命」を得ることも可能なのではないだろうか?
そもそも、「人が死ぬ」(ここは現実世界で言われている、ごく一般的な意味のその人自身の生命が終わる意味とする)のだって、上記にあげたような、怪我、病気、老衰、自殺などによって、「人がいなくなる」という無意識な認識の結果によって、その人自身にも、他者の世界にももたらされているのではないだろうか?
それならば、「今」、「私」は「生命」から離れてはいない。
「今」を生きることは「永遠を生きる」事と同義なのではないだろうか?
もちろん、これらの事は「私」が物理的に限りある脳内の中で、知り得る知識と思考によってのみ出した問の枝を伸ばした道筋であり、元々探求のできる道ですらなく、幼児が砂場に遊びかつ無意識に描いた蚯蚓がのたくった跡のようなものでしかなくて、この先には答えなど元々無いのかもしれない。
「私」自身から発された考えよりも、それを支え乗せているこの世界、「生命」の方が、全てを認識できないほど、途方もなく大きいのだから。

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