1991年から92年にかけて東京の郊外で起こったこと、そしてその後の沼について(3)

からのつづきです。最初から読むならへ。

どこかの扉は開いたものの、一緒に「ありなのか!!!」ってなれる友達が身近にはいなかったので、とりあえず洋楽雑誌のメンバー募集欄の中から「パステルズが好きです。コーラス&タンバリンの女性募集」という人を見つけ出して連絡を取ってみることにした。こんな曲をやっています、といって渡されたデモテープはあまりグッとくる内容ではなかったし(すみません)、そのバンドのリーダーだった男性とも今ひとつ会話が噛み合わない感じはあったし、それ以前にタンバリンもコーラスもまったくやったことはなかったけれど、とにかくメンバーとして入れてもらえることになった。

ほんの出来心でバンドのメンバーっていうのになってみると、「外国のインディーバンドに影響されて曲をつくったり人前で演奏したりするようになった人たち」と知り合う機会が次々と訪れる。大学のサークルあがりの人たちとはぜんぜん馴染めなかったけれど、年齢や経歴がよくわからないヘンな人っていうのも一定数いた。その中のひとりにカワセくんという、ものすごくキラキラしたギターを弾く人がいて、彼の録音物にコーラスを入れてほしいと頼まれたか何かして家に遊びに行くようになった。カワセくんとは好きな音楽の傾向もぜんぜん違ったし、人の輪の中には居るものの心はそんなに開いていない感じの人(私と同じ)だったので、どうしてそんな彼と私が一瞬でも共同作業をするに至ったのか、考えてみてもよくわからない。ファミレスで頼んだカレーを一口だけ食べてあとは手をつけずにずっとタバコを吸っているような人、どちらかというと苦手なはずなのに。

カワセくんちで録音をするようになってすぐ、彼は「どんどん曲を作ってデモを録ればいいんじゃない?」と言って4トラックのカセットMTR(マルチトラックレコーダー)をくれた。そんな機械があることを知らなかったそれまでの私は、内蔵マイク付きのラジカセでギターやマンドリンを録って、それを流しながらキーボードのドラムパッドを一本指で叩いてリズムを足して、今度はその弦楽器+リズムのテープを流しながら歌って…という超・原始的なピンポン録音をしていたので、このMTRというやつはまさに魔法の機械だった。カワセくんはもう使わないからあげるよって言ってたけど、私にとっては画期的。もう、何かに取り憑かれたように曲の素を録音しまくった。よくわからないまま自分がやっている動きに「サニチャー」という名前をつけたのも、たぶんこの頃だったと思う。

ここから先は

1,701字
この記事のみ ¥ 100

この文を読んで、これ書いた人に資金提供したいなーと思った方は、「サポートをする」を押すと送金できるそうなのでよろしくお願いします。手数料を引いた85.5%の額(100円送っていただくと約85円)がこちらに届きます。あと振込手数料も多少取られますが。