『自殺会議』にいた天使(向谷地さんの章)のおかげで書けるようになったこと(1)

<なんとなく、この記事からの続きです>  

福音書に記録されているイエスは、税金取り立て人や罪人など、当時のユダヤの人々から避けられていたような人の家で一緒に食事をしたりする。触ったら穢れるとされていた重い皮膚病の人や出血が止まらない人などとも触れたり触れられたりしながら対話するし、サマリア人やカナン人など、民族的に対立していたりこれまでの経緯から折り合いが悪いとされていて皆が避けて通るような地域に暮らしている人ともばんばん話をしている。超ウルトラ常識はずれ。まわりの人々が当たり前のように「エンガチョ」していても、その当たり前にイエスは乗らない。というか完全スルーなのだった。

この人は弱い者で虐げられているから対等な目線で話を「してあげねば」なんていう、正義の皮をかぶった差別的思想みたいなものはそこには微塵もなくて、そもそもイエスには他の人々が持っているエンガチョ感覚に相当するものが備わってなかったから、エンガチョしようがなかったという感じ。世の中に「他人事」がひとつもないという感じ。「人間が作った常識」は知っているけどそれをイエスが身につけることはできないというか、もう何から何まで100%非・常識という感じで完全にズレているから、人間がくっつけたいろいろなデータに一切反応することなく、目の前の人に対してただ目の前にいるその人として接する触れる対話する。そのことに善いも悪いもない。

それまで誰からも「そこにいる人」として扱われていなかった人、いないものとされていたような人たちが、イエスとの対話でそこにいるものとされる。それだけで人は息を吹き返す。しかもイエスは「あなたの望みはズバリ、コレである!」なんてことは言わない。どうしたいのかを語るのはその人自身で、イエスはそれをただ聴いて、「そうなんだね。いいと思う。創造主はあなたの望むことをすでにその通りに創られてると思うよ。」という感じで答える。それで目の前の人は目が覚めたようになる。で、イエスは「私の神通力であなたを救ってあげました!」なんてことは言わなくて、「あなたの信仰があなたを救った。」って言う。

あーもうグッとくる。何回味わってもグッとくる。

ところが、こんなにグッとくる体験が聖書を読むことの中にはあるというのに、そのままただただグッときている人ばかりではないらしいから人間、一筋縄ではいかない。聖書に書いてあることを人間が適当にあちこち切り取って「これがキリストの教えです!」とか言って上からバッサバッサと振りかざせば結構どうとでも利用できることに気づいた人たちによって、実際に利用されてきた歴史がある。世の中には例えば「マタイによる福音書の5章39節を読んでみなさい。『悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。』と書いてあるではないか!」と説教しながら誰かの頬をバシバシ殴りつけるような人間というのがいて、それが決して少数派ってわけでもないから恐ろしい。

かつて、黒人が書いた黒人に関する本だけを売るナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストアという本屋をニューヨークのハーレムで開いたルイス・ミショー氏という人がいて、私はその人の生涯を本で読んだだけだけど、強く心を動かされた。そのミショーさんの目を通して1930年代のアメリカ社会の一面を記録した文章を『ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯』という本から抜粋して引用する。

教会の説教では、どんな境遇にあっても満足せよ、と神が言っていると吹きこまれる。でも、わたしには、神が、だれに対してであれ、空腹に満足せよ、などと言うとはとても思えない。(大幅に中略)白人は黒人たちに、天国での来世のことを教えたがった。黒人たちの目をこの世の問題からそむけさせようとしたのだ。そうすれば、だれに頭を蹴られているのか気づかないと考えたのだろう。(中略)だれが宗教を必要としていて、どう利用しているのか、よく見きわめなければならない。
『ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯』(ヴォーンダ・ミショー・ネルソン 著/原田 勝 訳/あすなろ書房)31〜32ページ

この本はミショーさんのインタビュー記事などの資料をもとに書かれたフィクションなので、ご本人がまるまるこの通りの発言をしたわけではないかもしれないけど、当時のアメリカ(だけじゃないけど)で起きていたことはほぼこの通りなんだろうと思う。ナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストアの常連だったマルコムX氏も、自伝の中でこんな風に書いている。

キリスト紀元一九六五年の今年、毎日曜の朝、信者になるかもしれない黒人たちまでしめ出して「この神の家にお前たちは入ることまかりならぬ」といいわたす助祭たちに守られている会衆の〝キリスト教的良心〟なるものを想像してみるがよい!
(「完訳 マルコムX自伝(下)」マルコムX 著/濱本武雄 訳/中公文庫)

ここでマルコムが糾弾しているような一部のキリスト教徒のふるまいは、どう考えても聖書に書かれていることに反している。例えばイエスが弟子たちに言った「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という言葉を読んでそれに従っている人のふるまいとしては0点じゃないか。ちょっとやっちゃったねレベルじゃなくて完全にアウト。仮にも「イエス様のお名前を通してお祈りします、アーメン!」の人たちがなんでそんなことになっちゃうのか。そこまで矛盾してるのに平気でいられるって、どんな神経?

愛しなさいというのは、相手を好きになれとか仲良くしろとかそんなことじゃなくて、自分も目の前の人も創造主によって創られた同じ被造物として尊重して大切にしなさいっていうそれだけのことなはずなのに。なぜそんなことすらわからなくなっちゃうの? …と、書いているうちにプスプスと憤りが噴き出してきて、とりあえず目の前で芋けんぴをボリボリしている連れ合いにここまでの話をわーっと喋って、「もう、人間って、なんなんだろうね!」って言ったら連れ合いは、

「でも、僕らは2019年の日本におるから、こないして落ち着いて客観的に見れてる風やけど、もしこの当時とか、1700年代の奴隷制度真っ只中で同じ立場やったら、やっぱり同じことやってるんやろなー」

と言った。そうだった。またやっちゃった。完全に他人事にしてたけど、今日この文章を書きながら私がジャッジしまくってたどの事例も、私がその当事者だったかもしれなくて、そしてもし私が当事者だったらやっぱり同じようにふるまっていたかもしれないんだった。いや、「かもしれない」どころか、絶対やってしまうはずだということをまた忘れてしまっていた。ああはふるまいたくない、ふるまわないぞ、と思うことはできても、他者として見えている人のふるまいは、常に私のふるまいでもあり得る。そのことを忘れたとき、人間は簡単に傲慢になる。

誰かに話すっていうのは、やっぱりでかいな。ふっと『自殺』に書いてあった千石剛賢さんの言葉(を、著者の末井さんが文にまとめたもの)を思い出して、またページをめくってみた。

自分と他人を(区別ではなく)差別していると、愛というものは生まれない。自分が自分のままで相手を愛そうとしても、すべて偽善になってしまう。だから、他者の中に表れた希薄な自分をもっとはっきりさせるために、生まれつきの自分を二義にしていく、つまり自分を捨てて、他者のことを真剣に考える。
『自殺』(末井 昭 著/朝日出版社)316ページ

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