『自殺会議』にいた天使(向谷地さんの章)のおかげで書けるようになったこと(終)

(2)からの続きです/元はこの記事からはじまってます>

「肩代わりする」ということについてはじめて知ったのは、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の最終章を読んだときだった。

主人公の少年バスチアンは、自分が今さっきまで読んでいた本の中の国「ファンタージエン」に飛び込んだのち、何でも望むものを創造する権限を与えられて新しいものを次々と創り出していく。旅をしていて出会った生き物たちの要望や期待に応えて…または気の毒な境遇の者たちを救ってやろうという正義感から…彼はすべてが自分の望みだと思い込んで、本当はさほど望んでないものをどんどん創造するのだけれど、実はそのつど人間界における自分の記憶を一つひとつなくしている。自分はファンタージエンを救った英雄なんだ!という自己設定がじわじわと強化され、全能感に酔いしれ、かたくなになっていく。

もともとの自分よりも、設定した自分の方が大きくなるにしたがって、それまでなんでもかんでもうまく回っていた感じが薄れ、起こること一つひとつから輝きと色が失われ、物語の雰囲気がギスギスしてくる。創ったものたちが暴走したり、矛盾したり、内部から崩壊していく。気づいた時にはもう遅い。そのことにハッとする力もほとんど残っていない。自分が我を忘れていることに何とか気づいて欲しいと願う友の忠告も、かたくななバスチアンの心には届かない。そこからのラスト4章の迫力は、何回読んでもただごとじゃないなと感じる。

最後に残った自分の名前の記憶と引き換えに見つけた、元いた世界に帰るためのたった一つの手がかりすら、自分がかつてしたことの報いで粉々に壊れてしまう。ファンタージエンと人間界の境目の、どちらでもない「源の場所」である生命の泉にはどうにかたどり着いたものの、自分がファンタージエンで生み出したものを片付け終わらない限り、蒔いた種から生えたものをすべて刈り取らない限り、帰すわけにはいかないと言われてしまう。

最後の章では、このバスチアンの重荷をぜんぶ担おうとする、肩代わりすることを自ら望む友の言葉を聴くことができる。それを読んだときに受け取ったものは、何十年も経った今でもずーっと私の中に在る。「ものすごく大変だけど君のためにやってあげるよ…」みたいな悲壮感はなくて、「そうした方がいいなら僕やるよ!」っていうこの感じ。「幸運の力でできますよ!」って、竜がウインクするこの感じ。この軽やかさが人を救うんだな、きっと。

「汝の 欲することを なせ」

創造主は、いい望みも悪い望みも区別しない。そりゃ全知全能の神が全部判断して決めて、悪いことは未然に防いでくれたら人間としてはラクだけど、それはしてくれない。起こることは起こる。それからどうするかも自由意志。でも人間の「ひとりよがり」から出たことはいずれ滅びる。人間は完全ではないからだ。滅びることが悪いことか? はてしないことがよいことか? 滅びから生じる道だってある。

自分の望みがなんなのか。「これ」は自分がほんとうに望んでいるものなのか。トラップがいっぱいありすぎて、自分のほんとうの望みを見出すのはとても難しいけど、望みを掘り出すには人と人が力を合わせ、複眼にする必要があるらしいことに私は気づきはじめているようだ。これからも、困ったときには、べてるの家から生まれた言葉「自分自身で、共に。」を口ずさもう。『自殺』と『自殺会議』という2冊の本を読んだ体験からはじまった、「毎日書く」というこの新しい運動を慈しんでいこう。書くことは終わりがないけど、いま掘っているこの鉱脈、この水脈についてはここまででいったん止まるときが来た気がする。掘り尽くしてしまったら枯れちゃうから、休ませなくちゃ。

いったん掘る手を止めて、外に出て、身体を動かそう。ゆっくり歩いて、お風呂に浸かって、 そして明日はまた別の鉱脈を掘りはじめて書き出そう。

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