『自殺』にも『自殺会議』にも天使がいた話(4)

(3)からの続きです>

『自殺』の千石さんの章を読んでから起きたことを書いてみようとしても書けなかったのは多分書く前から読む人のことを考えていたからで、その見知らぬ読む人を説得しようとする気持ちが自分の中にあったんだと思う。

「宗教」とか「聖書」という言葉に人間がひっつけた余計なデータが膨大すぎて、しかもそのデータは矛盾だらけで、「エビデンス(※)を示してくださいよ」的なことを言う読者があらわれたらその説得というか言い訳に追われてキリがなくなって、しかもこれという証拠など示せるはずもなく、書けば書くほど書こうとした芯の部分からはどんどん遠ざかることが目に見えているから書けない。要するに面倒くさい。「私は、<神>とか、なくても大丈夫です!」って言って、そのドロドログチャグチャした、ちっとも魅力的ではないデータの山とは距離を置いていた方がどう考えても安全だし、なにもそんなところにわざわざ突っ込んで行く必要がないという判断は極めて常識的だと思う。私にも、その極めて常識的な位置から離れたくないという思いがまだまだ根強く残っていたんだろう。

自分の傲慢さや、知らずに持っていた上から目線や差別的な目線なんかがあらわになるのも怖かった。「ちゃんと書けてる人」でいたかった。簡単に言うと、ええかっこしいだから、びびっていた。こんなふうにびびって自分が勝手につくりだした想像上の読者を相手にし始めたら、私の書く手は出口がないまま同じところをぐるぐるぐるぐる回り続けるしかなくなってしまう。想像上の読者は自分自身の反映だから、完全なる独り相撲で決着がつかない。

ところが2018年の暮れ、独りでマワシ姿でぐるぐる回っていた私のもとに、末井さんの新刊がリリースされるというニュースが舞い込んできた。しかも『自殺』の続編(?)で『自殺会議』! こんなに本の発売を心待ちにしたことはないというくらい楽しみに待った。離島に住んでいるので近所に本屋さんがなく、ネットで注文した。届いた。読んだ。こんなに様々な人たちが自殺の話を弾ませている。死にたさや自殺のことを、当たり前にあることとしてどんどん話している。他人事ではないけど深刻に捉え過ぎることもなく、起こったいろいろな事象をおもしろがりはしても自殺することや人間を茶化すことは決してしていない。いい人がいい人のいい話をしているわけでもない。めちゃくちゃだったり、困った人だったり、ちょっと疲れたり、いろんな人がいて、その真ん中で自殺の話が弾んでいる。

どの章の体験も嬉しかったけど、「べてるの家」の向谷地生良さんの章は特に、いろいろな思い込みがほどけていくような感じがして、膨大な量の実践と失敗の積み重ねと継続することのでっかさの上にある「それで順調!」という言葉が胸に迫ってきて、初めてべてるの本(『べてるの家の「非」援助論 そのままでいいと思えるための25章』)を読んだときもそう感じたんだけど、読むことがもう「対話」そのもので、本当におもしろいなあ〜と、自分の全身が喜んでいる感じがした。『自殺会議』の307ページで向谷地さんが末井さんの質問に答えて、

 あのイエスという人も、やることなすことみな裏目に出てるんですけど、おもしろいんですよね。ユダヤ人の救世主として期待されながらも、まわりの期待とは違ったところにいて、白馬にまたがった王子のような登場を期待されたら、ロバに乗って現れてみたり、まわりの期待をことごとく挫いて、やることなすことにまわりが嫌がって、最後は弟子に裏切られますからね。

って言っていて、それを読んだらなんだか、ええかっこしようとして首〜肩〜背中にかけてガチガチになってたのが一瞬で抜けて、そうだ、イエスの何にぐっと来たかって、周りの人たちが書いた人間ウケする台本をことごとく無視して、というかその台本に沿った芝居だけがどう逆立ちしてもできなくて、創造主の書く台本ただ一冊にその身をゆだねきっていたもんだからまわりから注目されつつもひたすら浮いて浮いて遠慮なくいろいろぶち壊して社会的には完全にスベり倒していた存在、そのことが実はまわりの人にとっての救いだった、っていうそこだった。まずはそれをそのまま書けばいいんだな! って、気が楽になって、マワシを脱いで書き始めることができたのだった。

気は楽になったけど、書き始めることができたら一つひとつ書くことになるわけで、それはちっとも楽じゃない。だけど今こうして書いていることが嬉しい。体験は説明できないけど、書くことはできるし、書くことは無限の採掘で、掘り出したものは誰かと分かち合える。

日本のクリスチャンは人口の1%にも満たないから多数派になりようがない。他の国のクリスチャンのように圧倒的な勢力になる心配がない。それはすごくいいなと私は思っている(あまり「国」の区切りを気にして生きてはいないけど)。でも、いわゆるクリスチャンとしてカウントされない(=洗礼を受けたり、熱心な「教会活動」などはしていない)人の中にキリストの気配を感じることの方が多かったりして、そういう人たちの存在が、データの山を掻き分けて芯に近づこうとする私の手助けとなっている。そういう人たちは、「そういう人たち」という言葉でくくるのもどうかというくらいにそれぞれ違っていて集団化しようがないから、やっぱり多数派にはならない。人数が多すぎると対話は難しい。

私がつっかえつっかえ掘り出しているこのnoteが誰かとの対話であることを祈りつつ書いている。

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※4コマまんが「エビデンス」


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