『自殺』にも『自殺会議』にも天使がいた話(1)

3年前に末井昭さんの『自殺』という本を読んで、ふと気がついたらイエス・キリストと出会った方の道にワープしていた。「ワープ」がおかしかったら「ポンと置き換わった」とかでも感じは近い。読んでいるときはまさかそんなことになるとは思わなかったんだけれど、いつの間にかそんなことになった。「キリスト教」を信じるようになったのでもないし、「教会に行くようになった」のでもないし(毎週行ってはいる)、「聖書に書かれている掟を忠実に守る清く正しい人」になったわけでもない。というか聖書ってそういう本じゃなかった。とにかく今は、すでにイエスに出会ったほうの生を歩んでいる。

もしも『自殺』に書いてあったのが、聖書はありがたいから今すぐ読めとかイエス様を信じた方がいいよとか私は神様の力によってこんな奇跡体験をしたんです〜とかそういうことだったらたぶん今の私はこうなっていないと思う。この本にはそんなことは一切書いていなかった(当たり前だ)。身近な人に死なれた人、死にたい死にたいと何度も思ったけど死ねなかった人、死にたいという思いを抱えた人の話を聞こうとする人、仕事として死因を調べているうちにその地域の自殺率の高さが気になり出した人、お金やギャンブルやお酒などに取り憑かれたような人、死をちらつかせて他人を脅す人などが次々と出てきて、末井さんはそんな一人ひとりをジャッジするんじゃなくてただただ対話していて(そして誰かのことをジャッジしてしまっていたかつての自分自身とも対話していて)、その人が掘り出していく言葉を静かに聞くことで一人ひとりの生の証人になっている。俺が証人になってやるぞ!って意気込んでなってるんじゃなくて、知らないうちになっている感じ。うわべだけのベタベタした優しさではなく、「誰かのことを大切に思うこと」が根っこのようになって、この本のあちこちに顔を出している。

生きることの苦しさにも本当に人それぞれいろいろあって、それは「こうだから、こう!」ってはっきり決めて説明できるようなものではないはずだけど、どこかの誰かのところに死にたさを発生させる要因がこの世にいろいろあるとして、例えばお酒や薬物の力とか、お金にまつわる恐怖とか、人間関係のしんどさとか、そういうのを一つ一つたどっていったら最終的には全部「世間の目」に行き着くんじゃないかと思った。「おおっぴらにそんな話するなんて、ちょっと、ねぇ…」なんていって自殺の話をタブー視して、触ったら穢れるものかなんかのように扱って、「自殺なんて意思の弱い人が選ぶことで、私には関係ない!」といって離れた場所から後ろ指さしているような、正体のハッキリしない視線。末井さんもこの本の中で一章まるまる使ってその「世間サマ」について触れている。世間サマは、人のようだけど、人じゃない。だから本当は一切気にしなくてもいい。いや、もっと言うと、世間サマのことなんて絶対に気にしちゃいけない。いけないんだけど、やっぱり気にせずにいられない人がいて、そういう人たちはどんどんどんどん苦しくなってしまう。

世間サマがどんどん増長し、優しい人たちばかりが苦しくなってもう死にたいって思えてしまう、そんな世の中はへんだ。世間サマの増長をくい止めるにはどうしたらいいんだろう? 「人のようでいて人ではない世間サマには絶対にできないこと」ってなんだろう? この本を読んでいるうちに、一番効くのは「人と人が対話すること」なのかもしれないとボンヤリ思えてきて、それが徐々にはっきりくっきりしていくのがわかった。

それから、どれだけ壮絶な体験の中にもおもしろエピソードが一つ二つは混じってくるもんなんだっていうことと、それは当たり前のことだからタブー視せずどんどん話していいんだっていうこともこの本に教えてもらった。しんどさ死にたさのどん底であえいでいても、それを誰かに話してみると思わずふふっと笑いが漏れてしまうような瞬間があったりして、その漏れ出た穴から、ずっと封じ込められていた生きる力が小さく芽吹くことだってある。人間っていろいろめんどくさいけど、なんて素敵なしくみに造られているんだろうかとやっぱり思う。もちろん世間サマはそんなこと許さない。「死にたいくらいつらい奴が笑うとは何だ! しんどいならちゃんとしんどそうな顔してろ!」「不謹慎だ!」「他人にそんな話をして不快にさせるな! 自分のことは自分でなんとかしろ!」なんていって、困っている人や混乱している人をより狭いところへ追い込もうとする。でも、そんな世間サマの引力に巻き込まれて思考の堂々巡りにはまってしまった人も、人との対話でほんの少しずつ向きを変えることの積み重ねできっと抜け出せる。しかも生きている人だけじゃなくて、死んだ(死んでしまった)人とだって対話はできる。この世の人の言葉ばかりに心を向けていると病気になるのかもしれないよ、ほんとに。

『自殺』は、どの章から読んでも「対話」のはたらきを味わえるようになっているけど、特に強く私に語りかけてきたのは「聖書との出会い」という章に出てくる末井さんと千石剛賢さん(「イエスの方舟」という集まりの代表だった人)のやりとりだった。まさかこの章で天使が待ちかまえていて、文字通り私の「聖書との出会い」への入り口になるとは思わなかった。

(まだまだ続きます)

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