東千茅『人類堆肥化計画』のニオイを文字起こしする試み 第二章

 読了から1か月くらい経ったので、東千茅『人類堆肥化計画』の第二章について書いてみる。この章にも面白い記述がたくさんある。

結局のところ、社会的に孤立無援の状況下でも、異種たちと共にいさえすれば生きうるわけだ。反対に異種たちの数の限られた無人島に人間が複数人で漂着したところで、生きられる見込みはない。

[東千茅『人類堆肥化計画』 p.60]

 この箇所などは、まったくその通りだとわたしも思う。例えば『ロビンソン・クルーソー』でも、乗っていた船が難破して一人だけ生き残り無人島に漂着したロビンソンは、数日経って島の近くへ流れて戻ってきた船の残骸の中からわずかな道具と酒・干し肉など当座の食糧をどうにか持ち出し、それを元手に喰って生きのびていくための取り組みを始めるんだけど、このケースでも、野鳩がいて、海がめがいて、山羊がいて、雨期と乾期があり、洞窟があり、袋からこぼれ落ちた穀物の種を芽吹かせる土壌があったから(実際にそんな島が存在し得るかどうかはさておき)その取り組みは成功するのであって、フライデーと呼ばれるヒトが登場するのはそれよりもずっとあと、という段取りになっている。

 ロビンソンが、座礁した船の中で見つけた金貨に向かって「おまえはいったい何の役に立つのだ?」と悪態をつく場面があるけれど、それと同じで、もしも彼が漂着した島に東さんのいうところの「食糧となる異種たちと、それらを育む十全な生態系」がなかったなら、一緒に流れ着いたヒトが何人いたところで生きのびるための役には立たなかっただろう。

 「作用するもの/働き手/プレイヤー、の顔ぶれが多種多様であればあるほど、生きられる見込みは増す」というのは、わたしが日々体感していることとかなり近い。この種の「近さ」を感じる箇所はこの章の中に他にもいろいろあって、例えば

・私は川口由一の提唱した「自然農」を雑に採用している
・最初に作った畝を半永久的に使い、その上に刈り草を幾重にも積んで全域を堆肥化する
・化学肥料や乗用大型機械は使わないが、堆肥や獣よけの鉄柵や刈払機やチェーンソーは使う
(すべて『人類堆肥化計画』からの引用)

あたりの感覚は我が家の農耕のニュアンスとかなり近く、肌感覚としてとってもよくわかる(もちろん「同じ」ではないのだけれど)。いろんなことを採用する/しないの線引きが「横着と金のなさと手づから他種協働したい欲望が綯い交ぜになったわたしなりのバランスだ」という表現も、ピンとくる。

 わたしは、この本とほぼ同時期に発売された『スペクテイターVol.47 土のがっこう』という雑誌に『《わたし》は土に還れるか?ーー離れ小島でメンドリと暮らす』と題した読み物を寄稿しており、それに対して真っ先に具体的な反応を示してくれた人物がほかでもない東さんだったのだけれど、いっさい面識もなく、それまで何のやり取りもしたことがなかったのに拙稿に言及してくださったわけは『人類堆肥化計画』を読んですぐにわかった。ゴチャゴチャ書くより、並べて引用してみようと思う。

わたしは、かつて生きていた者たちの上に立ち、そこに作物の種子を混入し、稔りを貪っている。だが、地上にいるということはそのまま、地球という広大な堆肥盛りの最上層にいるということだ。いずれ跡形もなく解体され、雑多な草たちに養分として吸い上げられるだろう。わたしがわたしでなくなること、そしてさまざまなものになることは、究極の自由といえるだろう。

東千茅『人類堆肥化計画』 p.63-64
いろんなものたちの死骸が混ざって分解されて、その残りカスが積み重なったもの、それが土。わたしがいつも《わたし》だと思い込んでいるものはそんな死骸たちのうちの一つでしかなくて、そのことを思うと生きる力がこんこんと湧いてくる。そして肩の力が抜けてラクになる。何がどうなろうと、どうあろうと、最後には分解されて土に還ることができるんだってことを知ってるから、わたしの根っこは安心して《わたし》を生きることができる。

よしのももこ『《わたし》は土に還れるか?ーー離れ小島でメンドリと暮らす』 p.137
なぜこの目安にするかといえば、どうなるかが一定以上は予断できない状況がわたしの性に合っているからだ。こうなるだろう、こうなってほしいという一応の予測や期待はもちろんある。しかし何事もこうすればこうなるとは言い切れないはずだし、当然相手は独立した一者でもわかりきった存在たちでもない。

東千茅『人類堆肥化計画』 p.69
「良い条件のところ」を選ぼうとしている限り、わたしたちの予想の範囲を超えることも起こらない。だったら、たまたま流れ着いたところの土に思いっ切り振り回されてみた方が面白そうだなと思った。

よしのももこ『《わたし》は土に還れるか?ーー離れ小島でメンドリと暮らす』 p.142
 土は植物を育み、動物を養い、水や空気とやりとりし、微生物の活動の舞台となって地球上のさまざまな命を持続させているわけだけれど、それは「これが/こうしたから/こうなりました!」と単純に言い切れるようなことではなくて、「いろんなものが関わりあって、だいたいこんな感じになっている」としか言いようのない絶妙のバランスが常に生じては滅び、生じては滅び、を繰り返しているだけに見える。

よしのももこ『《わたし》は土に還れるか?ーー離れ小島でメンドリと暮らす』 p.138

 東さんとわたしは「同じことを考えている」わけでも「意見が同じ」わけでも「同じ方法の実践者」なわけでもなくて、ただ、他種の働きとふるまいによって「書かされて」いる、という点で共通しているから、読めば「あ、これも他種/多種との《協働執筆》だな」というのはすぐにわかる。共通しているのに全然違う、から面白い。

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 それにしても、前の章に引き続きこの章もかなり容赦ない記述の連続(褒め言葉)である。なかでも特にグッときたのは、「汚い」ものを見えぬ化し、 屠畜・清掃・塵芥処理などのような生物学的腐敗と重なるゾーンにある「やんなきゃなんないこと」を《下流》の人々に押し付け、自らは《上流》で「衛生的」に暮らしているような人々のふるまいなんざ、腐敗の度合いが中途半端過ぎてお話になりませんよね〜というのをそのまま書いちゃってる箇所(79〜82ページ)だ。

 この本の中でもたびたび触れられているように、土壌生物の間で行われていること/生じる作用は、雑に言えば「自分さえよければ」という利己的なふるまいのぶつかり合いで、それによって浮かび上がるお互いの利害の調整(つまり政治)で、プレイヤーが利己的であることが他ならぬ堆肥化推進のエネルギーとなっている。

 《上流》の人々のやっていることも一見「自分さえよければ」枠に入っているようだけれど、彼らは生物学的腐敗を忌避しているので、そもそも堆肥化に寄与しようのない完全に切り離された存在なのだった。自らの手は汚したくないから、同じ種(ヒト)の他の個体に「やんなきゃなんないこと」を押し付け、さらにその個体を見下して自分のゾーンを守る、という単なるヘタレなのであって、そんなもん道徳的腐敗と呼べるかっ!!わしがやったるという貪欲さに欠けるんじゃ腐敗ならもっとちゃんと腐れやボケ!!!みたいな感じが、丁寧な文体の襞の奥にチラチラ見え隠れしていてすごくいい。わたしもこの姿勢は見習っていきたい。

 「半端な腐敗物ほどよく臭う」(p.84)とはまぎれもない事実なのですよね。ほんとに。

 もちろん、この《上流》と《下流》の物語はかなり単純化された図式というか、複雑な要素を抜き取った模型のようなものなので、これで何かを説明し切ったような気になっていてはいけないんだけれど、この本の中で『道徳的腐敗を、生物学的腐敗と同様にその貫徹によって堆肥化するべきである』とか、『死は生の餌なのであり、死を遠ざけては生を飢えさせるだけだ』という形で言語化されている件については、わたしも日々切実に直面し取り組んでいるので激しく同意(禿同)である。

 最後にもう一つ付け加えると、83ページの冒頭で

汚職に搾取に身内贔屓、嘘に欺瞞に権威主義、吝嗇、傲岸、我田引水ーー 社会は腐敗に事欠かない

と、ここだけいきなり都々逸っぽくなるのも第二章の読みどころの一つ。連れ合いはこの部分をラップっぽく詠みあげる練習をひたすらやっていた。つい音読したくなる本、というのはじつに魅力的な本だと思う。

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