逆卷しとね 『ガイアの子どもたち』 #02 不純なれ、異種混淆の怪物よ──大小島真木は《あいだ》をドローする を読んで

学術運動家・逆卷しとねさんと画家/アーティスト・大小島真木さんの対談を読み、そこから生じたことを記録しておこうと思い、これを書き始めています。

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私が、《「家族」と呼ばれがちな、実際にはヒトだけではないありとあらゆる構成員からなる流動体》の一員として日々生きている中で得たこまごまとした感触と、この対談で語られていることの間で何らかの反応が生じた箇所がいくつもあって、そのつどメモ帳に書き出しながら読み進めました(※1)。その中でもとりわけ面白かったのがこの大小島さんの発言です。

これも練馬で展示予定の作品で《Humucracy(フムクラシー)》と名付けました。元になっているのはDemocracy(デモクラシー)という言葉ですけど、Democracyという言葉は民衆を意味するDemos=デモスと、力を持つことを意味するKratos=クラトスという言葉を合成したものですよね。もちろん、Democracyそのものも大切な言葉だと思うんですけど、その時のデモスという言葉が包摂しているものがヒューマンに限定されてしまうのだとしたら、やっぱり違うなと思うんです。だから、有象無象の生と死の絡まり合いであるHumus=腐植土をクラトスに掛け合わせてフムクラシーという言葉を作ってみたんです。

この箇所を読んですぐに連想したのは、Democracyを《土民生活》と訳した石川三四郎のことでした。旧友であるイングランドの詩人エドワード・カーペンターから「Demosとはギリシャ語で《土地につける民衆》という意味である」との説明を受けた石川はそれを「土民」と訳し、Kratosの方を「生活」と訳して論文(※2)の表題としました。また、その中で『即ち土民生活とは、真の意味のデモクラシイといふことである』と述べています。

この土民生活という言葉や石川三四郎の思想を農本主義と同一視する人は当時からいたようで、論文『土民生活』から12年後の1932年に書かれた『農本主義と土民思想』という論考の中で石川はその2つの相違点を列挙しているのですが、特に「土民」という語については、支配者・権力者が叛逆者を差別するために用いた蔑称であり、それを敢えて使っているのだということを詳しく説明しています。例えば次のようなくだりです。

歴史上に於ける「土民」の名称は叛逆者に与へられたものだ。殊にそれは外来権力者、または不在支配者に対する土着の被治被搾取民衆を指示する名称だ。土民とは野蛮、蒙昧、不従順な賤民をさへ意味する。温情主義によつて愛撫されない民衆だ。その上、土着の人間、土の主人公たる民衆だ。懐柔的教化に服さず、征服者に最後迄で反抗する民だ。日本の歴史に「土民起る」といふ文句が屡々見出されるが、その「土民」こそ土民思想の最も重要な気分を言ひ現はしてゐる。
「土民」は土の子だ。併しそれは必ずしも農民ではない。鍛冶屋も土民なら、 大工も左官も土民だ。地球を耕しーー単に農に非ずーー天地の大芸術に参加する労働者はみな土民だ。
『農本主義と土民思想』石川三四郎
https://www.aozora.gr.jp/cards/001170/card46455.html

ここで示されている《天地の大芸術に参加する、土の子、である、土民》という連動する言葉たちが私に働きかけてくる、その働きかけをさらにひらいて/ひろげていくような働き。私が《Humucracy(フムクラシー)》という言葉に触れたときに感じた《何か》をどうにかして言葉であらわそうとすると、こんなややこしいことになってしまうのですが、例えば《土着の人間》とか《労働者》のような、ヒト、という固定したところからもう一歩踏み出して/踏み入って、ぶわっと視界が拡がったような感じがありました。

大小島さんの言葉を借りれば、それはヒューマンに限定しない、ということで、《ヒトを含むあらゆるものども、の、生きたり死んだりが複雑に絡み合い、死骸が分解され織り合わさっていく動き/働きそのもの、である、土(腐植土)》による《政治》=Humucracyという言葉には、石川三四郎が《土民生活》という訳語であらわそうとしたことが丸ごとすっぽり含まれているのではないか、という気がしたのです。

それからもう一つ。別の語のお尻にくっついて「〜による支配」「〜による政治」という意味を持たせる -cracyという語を石川三四郎はなぜ「生活」と訳したんだろう? というのが謎だったのですが、これもHumucracyという語からの働きかけに呼応して少しずつ辿っていくうちに見えてきました。

1)生活、つまり生きて活きることとは、この人体の内・外を問わず、あらゆるものどもがあらゆるものどもと作用し合うその動きそのもので、作用し合いのパターンは一つではない。それこそ無数にあり得る。で、それらが互いに干渉し合うことも珍しくない。そこから毎瞬生じる異種間のさまざまな利害の対立を調整することの繰り返し(もしくは積み重ね)によって《生きて活きる》ことが成立している。

2)「みんなの困りごとを解決するのが政治だ」というような言説をたびたび見かけるが、私の認識では《政治》とは「利害の対立を調整すること」いうのが一番近い。

1→2と辿ったところで、そっか《生活》と《政治》の働きって同じ構造だったのか!と気がついたのです。石川三四郎が -cracy を「生活」と訳した感覚がここでやっとつかめたような気がしました(気のせいかもしれませんが)。

土民生活という言葉が「天地の大芸術に参加する、土着の人間(土の子たち) + による、政治」をあらわしているとして、そこにはまだ《ヒューマン限定》という縛りが含まれていたわけですが、大小島さんが掘り当てたHumucracyという言葉にはその《ヒューマン限定》を解除する作用があって、私はその働きを感じたのだろうと思います。

石川三四郎を育んだ土壌と、大小島さんを育んだ土壌と、逆卷さんを育んだ土壌と、私を育んだ土壌がそれぞれあり、また、それとは別にそれぞれがいま含まれている土壌があります。それらは全て、ある視点から見れば一つの同じ土壌の別の箇所とも言えますが、働きはみな違います(同じ部分もある)。それぞれの土の上に落ちた種が芽吹いたり芽吹かなかったりして、花が咲いたり咲かなかったり、実がなったりならなかったりして、また種が落ちますが、その間、互いに交雑したり、種が風に乗ったり鳥のうんこに隠れたりして運ばれて来ることもあります。そしてこれら一つひとつの営みの中には、それまでに土の中で生まれて生きて死んで朽ちて分解された無数のものどもがもれなく含まれているのです。

だから、私、というガチガチに固定した個体があって、その純な個体である私が、固有の何かを《為した》なんていうことはあり得ない。「私が種を播いたから花が咲きました〜(で、それは”良いこと”です!)」とか、そんな単純なことではないわけです。絶え間ない腐植の生成の一環として、《大小島さんと逆卷さんの対談》が生成し、《それを読む私》が生成し、《石川三四郎の土民生活を連想した私》が生成した。そのメモをいま、また別の土に含まれる腐植であるあなたが読んでいる、という構造になっている。そしてその全てが雑種なのです。

【脚注】

※1 逆卷しとね 『ガイアの子どもたち』 # 02 不純なれ、異種混淆の怪物よ──大小島真木は《あいだ》をドローする
https://hagamag.com/series/ss0066/7852?s=09
の中からメモ帳に書き出した4箇所を以下に引用します(一番上のものだけが逆卷さんによるイントロの中の一文で、他の3つは大小島さんの発言です)。

協働制作の観点から見ると、作者性は個体に閉じることを許されない。涯てしなく運動していく作者は、人間だけではなく、さまざまな生きものやモノ、技術を巻きこみながら、その運動の途上に制作物を残していく。この運動は誰にも所有できない。
しかも、そこには同時性と相互性があるんです。環境によってドローイングを描かされていくことで思考が進むということがあり、その思考がまたドローイングに影響を与えていくという連鎖がある。だから、そのせめぎ合いは螺旋的でもあって、円環しつつ上昇していくようなイメージなんです。
他の人のことは分からないけど、私はアートは「問い」だと思うんです。自分たちが当たり前だと思っていることに「それは本当?」と問いかけていくような、そういうプロセスだと思う。
私たちは地上の生物だから海の中では生きていけない。船から振るい落とされてしまったら死んでしまうんです。そうした環境の中でいかにサバイブするのかとなった時に、お互いを尊重するということを怠ることが、海ではものすごく危険なことなんだと教わりました。

※2 論文
『土民生活』石川三四郎
https://www.aozora.gr.jp/cards/001170/card45522.html

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