『自殺』にも『自殺会議』にも天使がいた話(2)
<(1)からの続きです>
『自殺』という350ページちょいの本の終わりの方に出てくる「イエスの方舟」の千石剛賢さんについて書かれた章は、最初から最後までどこを読んでもおもしろくて、私の中のかたくなさがポロポロと剥がれ落ちて温かいお湯に溶けていくような感じがあった。
このときの「おもしろさ」はどんな風に書けばその感じがあらわせるだろう? 書いても書いても伝わらないんじゃないかという怖さが今もまだある。例えば、当時奥さんがいるのに複数の女性とつきあっていて罪悪感を抱えていた末井さんが「男は同時に何人もの女を愛せるんですか?」って質問したら千石さんの答えが「それは、三十人が限界でっしゃろ」だったところとか、ぐっときたポイントを挙げればいろいろある。でも、千石さんの発言や行動の一つひとつがものすごく感動的だとか奇想天外だとか常人離れしているとか論理的で知的好奇心を刺激するというような「おもしろい」ではなくて、ここにはいろんなデータに埋もれて見えなくなっていたとても大事なことがそのまま記されているからそのまま読めばいいんだな、という直感があった。
読むことは体験することで、体験は生きた時間として私を流れる。この体験を無視しないでちゃんと感じて!という内なる声に導かれてこの章を何度も読んだ。たった17ページしかない章なのに密度が高い。だけど、読んでいる私が一つひとつの体験からいろんなことを感じる隙間もちゃんとある。読むたびに、読み終わるのが惜しいような気持ちになる。
聖書やキリスト教の表面的なところではなくて、イエスの存在、その芯の部分に千石さんは触れていて、そのことが発言や行動に「分け隔てのなさ」として写し出されていて、末井さんは千石さんとの対話を通してそれを受け取っていて、そのことで末井さんの心が確かに動いていて、そしてそれを末井さんがそのまま書いてくれているから、文章を読んでいる私の心にも振動として伝わってくる。アナログレコードはそこで鳴っている音の振動をプレートの溝に凹凸の形で刻み込んだもので、レコードを聴くときにはその溝の凹凸を針でなぞることで音の振動が再現されて、その振動の電気信号を再生装置で増幅して音を鳴らす。それと同じようなことが起きているような感じがした。文字を目で追っていると、見たことも聞いたこともない千石さんの声や表情が伝わってくるような気すらした。ただし千石さんは私の夫の両親と同じ兵庫県加西市の出身なので、私の脳内では無意識に夫の父のしゃべりかたで吹き替えていた可能性もある。
私は千石さんやイエスの方舟の本質的な部分をなんにも知らなかった。といっても直接関わったことがないのだから知らないのは当たり前だけど、知らないくせにたくさんの誤解と思いこみが生じているらしいことに気付かされてハッとした。まず、イエスの方舟は宗教団体じゃなくて聖書研究会だった。それから「千石イエス」という呼び名は千石さんの自称だと思っていたし、イエスの方舟っていうのは自称教祖のおっさんが若い女性を騙してハーレム的なものを形成していた狂信的集団なんだよね、と完全に思いこんでいたけれど、それは過去になされた報道によって仕立て上げられたイメージに過ぎない(私に断言はできないけど少なくともその可能性が大きい)ということを初めて知った。自分が幼い頃に起きた事件・出来事に対して、何の根拠もないのに明らかなマイナスイメージを持っている。イエスの方舟事件に興味を持ったことなど一度もないはずなのに、私の脳内には「ああ、こういう事件だよね」というデータがどこからか植え付けられている。それは、とてもとても気持ちの悪いことだと思った。
いつの間にか自分の頭の中に入り込んでいたこの事件のデータを更新したくてネットで検索したら、最初に捜索願が出されたのは昭島市の女性だった、と出てきて驚いた。そういえば本の中にもイエスの方舟は国分寺で共同生活をしていたということが書いてあった。もっと遠くの、よく知らない街で起きたことだと思っていたのに、私の生まれ育った多摩地区で起きたことだったのだ。
イエスの方舟に身を寄せた人たちは千石さんを「おっちゃん」と呼んで慕い、親との間に悩みを抱えていたけどおっちゃんは話を親身になって聞いてくれた、と言っている。でも、娘はさらわれたんだと固く信じている親の立場からすると「洗脳されているからそんなことを言うんだ」となるんだろう。世の中には、親身になって人の話を聞いてあげてから高額商品を売りつけるような人でなしだって多分いっぱいいるんだし、どっちが正しいなんて、誰にも決められない。ただ、不確かさや対話の不在が疑いを生む。その疑いの気持ちを憶測で面白おかしく煽り立てる商売の人たちがいる。世間サマがそれに飛びつく。気がついたら私もその世間サマの側にいた。
自分がよかれと思ってしたこと選んだこと決めたことだとしても、他者を傷つけてしまうことがある。他者の仕組みはどうしたって100%正確にはわかれないから、人間はそこに居るだけで誰かを傷つける可能性から逃れられない。善いとか悪いっていったいなんだろう? 人それぞれのとらえ方によって善くなったり悪くなったりするんだとしたら、何を道しるべにすればいいんだろう? 人間の頭の中で考えを捏ねていても永久に答えの出ないこと。でも、人間のジャッジを超えたところで、自分の頭や意思らしきものの及ばない領域で働いている力が確実にある。そういえば、1つ前の章で月乃光司さんもそういう力について話していたよな…
と、たった17ページの章を読んだことで、掘っても掘っても止まれなくなってしまった。「自殺」についての本だったはずなのに、えらいことになってしまった。でももう読まなかったことにはできないから、とにかく、生まれてから一度も読んだことのなかった聖書を読んでみよう。自分に今なにが起きているのかは、それから考えようと思った。
(まだ続きます)
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