東千茅『人類堆肥化計画』のニオイを文字起こしする試み 第一章(前編)

人類堆肥化計画』を、拙流動体の機関誌3冊との交換によって入手し、さっそくむさぼり読んだ。そこで嗅いだニオイをなんとかして文字に起こそうという試みである(たぶんうまくいかないと思う)。

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この本の著者・東千茅は自らの人体を里山送りにしたわけだけど、もうセルフ里山送りしかない、というかなり切実なものがあったことがこの第一章を読むだけでよくわかる。おそらくこのタイプの人体を都市に置いておくのは根本的に危険なので、都市を棲み家にするものどもは「出てってくれて安心・安全」と無意識レベルで胸を撫でおろしているところだろう。都市からすれば東千茅的なものをはじき出し里山送りにしたつもり(無自覚に)かもしれないこの事象、よくよく見れば本人は舌なめずりしながら嬉々として里山に身を投げていて、そこが何よりもやばい。やばいニオイがするのである。

生物の殺害や土地への介入はいつも私を昂奮させてくれる。しかも里山に適応した生物は、私の狼藉にもかかわらずくりかえし旺盛に湧いてくるので、わたしはくりかえし暴行を加えることができる。

東千茅『人類堆肥化計画』P.16

この「くりかえせること」の魅力(魔力?)を私もいくらか知っている。最もシンプルな例でいえば、そこらにはびこる雑草を刈払機で無慈悲に切り刻んだところであっという間にまた生えてくる、というアレ。さらに、我々の畑ではアブラナ科の葉物野菜(主に白菜やキャベツの系統)を株ごと収穫せず外側から葉を1枚一枚かき取って食べているんだけど、これもやはり取っても取っても中心から湧くように新たな葉っぱが生えてくる。「私に食べられるために葉っぱを次々こさえて、まったくご苦労なこった。へっへっへ」ぐらいのつもりで葉っぱをむしり、奪い、利用し続けている…はずが、気がつけばその株はトウ立ちして花を咲かせ、種をつけ、あたりにその種をドバッとばらまいて、まんまと目的を達成しているのである。なんと!利用していたはずが利用されていた!

多種/他種がいるからくりかえし味わえる愉悦。自らの内に潜む残虐性をわりとガバッとオープンにして接しても、しれっとまた生えてくるものどものしたたかさにしびれる。相手を滅ぼしてしまってはせっかくの「くりかえし」がそこで終わってしまうから、根絶やしにはできない。というかしたいと思わない。むしろ相手がしれっと生えてきやすい環境をつくろうと、あれこれ骨を折ってしまいさえする。

ところが、対・ヒトだとこれができない。葉っぱを切り刻んだ時点で、相手は根っこまでざっくり傷ついて壊れてしまう。例外的なヒトももちろんいるとは思うけど、ほとんどの場合は壊れてオシマイだろう。ヒトはもろい。くりかえせない。くりかえせないものにくりかえしを強要しても、面白くも気持ちよくもなんともない。どっちを向いてもヒト・ヒト・ヒト、の都市で味わえる背徳の悦びなんて「たかが知れてる」のだ。貪欲な東千茅はそんなチンケなものでは満足できない。我慢できない。だから里山という堆肥盛りに自ら突っ込んで行った。すがすがしいまでにわかりやすく、狂おしいまでに切実な動機じゃありませんか。「あるものをないことにしながら生きていく」ことに耐えられない。このニオイが私は好きだ。いや、好き嫌いの話じゃないんだけど、とにかくこのニオイを私は知っている。

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今年、私は生まれて初めて水稲栽培に手を染めた。苗床に籾を播き、育った苗を田んぼに一本一本手で植える。ボーボーに生やしっぱなしだった草を刈り倒し、畦塗りのため溝に引き込んだ水がほんの少しだけしみこんだ状態の土にノコギリ鎌の先を軽く差し込み、小さな口をこじ開け、苗をつまんだ指をぬぷりとつっこむ。湿り気の足りないカラカラの部分には無理やりつっこもうとしてもうまく入って行かないから、こじ開けた口の辺りを拇指の腹で軽く押したり捏ねたりして水分を呼び込む。カラカラの口が徐々にグチョグチョと柔らかく濡れてくる感触がとっても気持ちいい。この気持ちよさを私の身体は知っている。水が多すぎたり捏ね回しすぎたりすると今度はゆるすぎてうまく入らない。ほどよい抵抗がないと苗はピンと立たない。でも立たずに倒れた苗ですら、いつの間にか根をおろし、なんなく育っていく。実に図太いんである。この図太さがまったくもって嬉しい。

で。たとえば田んぼの土に開けた穴(口)をヒトの女性器に、水稲の苗(あるいはそれをつまんでいる指)を男性器に見立てて表現することはたやすいけど、この快感をヒト同士の行為にたとえたり当てはめてみたりするのは矮小化と言い切ってしまっていいだろう。ヒト限定の社会にはびこる、単なる同種の再生産(子づくり)や対・ヒトの社会生活で溜め込んだうっぷんばらし、はたまた他者の心身を自らにつなぎとめるための策略、みたいなところに押し込められがちな、同種による、固定した、レンジの狭い交わりによる快感など「たかが知れてる」のである。

私が「つっこむ側の目線や感覚」か「つっこまれる側の目線や感覚」のどちらかしか持ってないなどということはあり得なくて、苗をつまんだ指を土の上に開いた口の中につっこんでいくときの私は「つっこむ側としての快楽」を味わっているわけではない。片側からの快ではなく、ほどよい湿り気の中でつっこみ/つっこまれることによって生じる感覚を丸ごと味わっている。だからといって《自分》と《相手》は一つではない。「溶け合って」はいないゴリゴリの別モノである。ただ、《自分》がつっこんでるから気持ちいいだけでも《自分》がつっこまれてるから気持ちいいだけでもなく、 つっこみつつつっこまれたり、つっこまれつつつっこんでいるタイプのヒト、というのがごくたまにいて(生息数はあまり多くない)、『人類堆肥化計画』にはその種のニオイがぷんぷん漂っている(気のせいかもしれないが)。

対・ヒト限定の道徳的腐敗などしょぼいものだ。 しょせんヒトが作ったルールだのコードだのの中でそれに背き破いてみせるだけで、まあ発酵のスターターとしてはありかもしれないがそれだけじゃ全くつまらない。おそらく東千茅はそのしょぼさに耐えきれなかったヒトである。知らんけど。

私の意思などお構いなしにいつの間にか投げ込まれてしまったこの世の「生」が、こんなしょぼいものでいいわけがないだろう!冗談じゃない!こんな冗談おもんない!!!という著者の咆哮が聞こえた時点で、読者はおそらく既に堆肥盛りに放り込まれている。放り込まれたというフィクションを採用するかしないかは読者の勝手である。

(後編にたぶんつづく)

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