『自殺』にも『自殺会議』にも天使がいた話(3)

(2)からの続きです>

これまで、私はずっとごちゃごちゃごちゃごちゃ言葉を重ねては迷っていた。いつも言葉のデータに振り回されて疲れていた。「憑かれていた」のかもしれない(いや、これはただうまいこと言いたいだけかもしれない)。まわりの人を納得させなくちゃいけないと思い込んで、なんとか自分の言動に筋を通そう通そうとばかりしていた。ような気がする。んだけど、聖書を読んでたら、筋とかぶっ飛んだ。筋とかお構いなしのナザレのイエスという存在にぐっときた。そこにいたイエスという人の、

その
あなたのごちゃごちゃごちゃごちゃ
というのをいったんこっちに
置 い と い て、

という存在に触れた瞬間、「私わたし私わたし…」でギッシリ満杯だった私の内部に、ぐっときた「ぐっ」の分だけ真空がぽかっと生まれて、そこに光が差し込んで来て、確かに「それは在る」としか表現しようのない創造主と私との間に道が通った。「私にとって良いことをしてくれたから、あなたに感謝します」っていうのとは全く違う種類の感謝が湧いてくるのを生まれて初めて体感した。創造って愛なんだな。人間が使いこなしているつもりの言語だと「愛」っていう言葉にはいろんな余計なデータがくっついているけど、それじゃ全然あらわせていない「愛」っていうのがあるんだな! っていうのを頭で理解したんじゃなくて「なんかわかった」瞬間がもたらされて、いつの間にかワープが完了していた。起こったことはそれだけなんだけど、とてもじゃないけどぜんぶは書ききれない。ごちゃごちゃごちゃごちゃ言葉を重ねるクセはそのままだけど、荷物は断然軽くなった。

聖書を読んでみようと思ってからワープ完了まで、すんなり事が運んだわけではなくて最初は抵抗感がものすごかった。当時の私はある揉め事の長期化で心身が弱り果てていたので、そのせいで何かに依存する方向の行動を選んでいるんじゃないか? という警戒心がなかなか拭えず、何度も何度も自問したけど答えは出なかった。

なぜならそれまでの私は宗教アレルギーと言ってもいいくらいで、宗教と聞いて真っ先に浮かんでくるイメージといったら「人の弱みにつけこんで金を巻き上げ、離脱したら罰があたるぞ〜地獄に堕ちるぞ〜救ってもらえなくなるぞ〜、という脅しで人を縛り付けるシステム」というような、要するに教祖の言うことが絶対だと思いこませる巧みな仕組みに、何でも他人任せにしたい弱い人がすがりつくものでしょ、ぐらいに思っていたからだ。宗教団体に役職や位があって、偉いとされている人に権力とお金が集中して、その偉いさんを盲目的にありがたがる平信徒たちがいて…っていう構図が大嫌いだった。神様の言葉や恩寵の取り次ぎができるという特権的な資格か何かを持っているとされている人間のジャッジに基づいて人やお金が動くシステムにしか見えなくて、とても苦手なジャンルと言ってよかった。

キリスト教徒に対する認識も散々で、自分たちは清く正しくあるつもりみたいだけど、自分たちと考えの違う人たちに対しては攻撃的だったり非人道的なことを平気でしてきた歴史には目をつぶってる。もともと住んでいた人達の神を否定し文化を破壊し尽くして無理やり改宗させてその土地を乗っ取ってきた歴史。そんな人たちが「隣人を愛せよ」とか、なに言ってんの? としか思えなかった。だいたい聖書なんてイエスという人が実際に言ったことですらなくて、後の時代に教会組織を自分たちの思うように運営したい人たちにとって都合がいいように書かれたものなんでしょ?

…とまあ、ざっと書き出してみてもこんな感じで何でここまで? というくらいに良いイメージがなかった。こんな風に書かれているのを読んだら悲しくなってしまうキリスト教徒の人もいるかもしれないけど、今こうして見返しても私が抱いていた疑問や違和感が全部間違ってるわけでもないなと思う。誰もかれもひとくくりにしてこういう人たち! と決めつけるのは乱暴だけど、キリスト教の歴史にはあやまちや暴走や迷走を山ほど積み重ねてきた側面が確実にあるし、多くの宗教団体のシステムとかそこに発生する権力とかに対しては今でも違和感しかない。ただ、それは一人ひとりの「信仰」とは全然関係がなかった。

2019年1月20日の今日の私は、「信仰」は神から自分への問いかけを受け取って応答しようとする営みのことで、人間として造られてここで日々生きようとしていることそれ自体が神との対話なんじゃないかなと思っている。神は人間を生きようとするものとして創造した。自殺した人も、病死した人も、事故死した人も、老衰死した人も、みんな確かに生きたからそこに死が訪れた。自殺した人は生きようとすることを自ら止めたのだから神との対話を拒絶したことになるのか? っていうとそんなことはなくて、むしろ自分が生きようとするものとして造られたこととギリギリまで向き合った人なんじゃないかと思う。生きようとするものである自分と、生きるののややこしさとか苦しさみたいなものとの間のギャップがどうにもこうにも埋めがたくなってしまったとき、それを適当に麻痺させて流すことができなかった人なんじゃないか。自ら命を絶った人の息の根っこを無理やり引っこ抜いたのは、本当にその人「自ら」なのか。そうじゃないんじゃないか。誰かの内面を「こうだ」と決めつけることはできないし代弁することもできないけど、今日はそんなふうに思っている。

『自殺』と出会う前の私も、あえて言葉にして呼ぶなら「この世のみなもと」とでもいうのか、そういう存在のことは認めていたけど、それを「神」と呼ぶ必要もないし、その神を崇めたり祈ったりするのに特別なお作法なんて必要ないし、宗教という形式や枠組みなんて使う必要ないと思っていた。一人ひとりが自分の呼び方でその<みなもとの存在>を呼び、それぞれのとらえ方で認識し、それぞれの関わり方をすればよいと思っていた。

今でも「お作法や形式や枠組みそのもの=信仰」だとはとても思えないけど、ポイントはそこじゃなくて、この「自分の」とか「それぞれの」っていうのが曲者だった。一人ひとりの人間が「自分の」だと思っているものは常にあらゆるものの影響を受け続けていて、実はぜんぜんその人のものなんかじゃなくて、しかも自分のサイズに引っぱってきた時点で相当圧縮されているから<みなもとの存在>とはぜんぜん違うものになっている。「私の<みなもとの存在>のとらえ方はこうだから!」ってわかったような気になっているのがたぶん一番あぶない。「オレ流」(落合さんとは関係ないです。念のため)は自分の中でバッチリ筋が通っているから気持ちいい。快感は簡単にクセになるから、他者が異なる見えかたを持って訪ねてきても「あなたのセンスとは、私は違いますから!」なんていって門前払いしたりして、自分の中の筋の通った状態を死守しようとしてしまったりする。客観視しているつもりでも、ついつい自分に都合のいいデータコレクションをし始めてしまう弱さを人間は備えている。気がついたら、オレ流を通り越してオレオレ教の教祖になっていたりする。そうなると<みなもとの存在>はもう見えない。

神との一対一の対話で生きた言葉を一つひとつ掘り出しながら、自分とは異なるふるまいをするものどもと場を共有して、交わって、合わなさをともに味わう。被造物どうし、違っている互いを尊重すること。合わないままで、お互いの生きた言葉をやり取りすること。

と、ここまで何もツッコミを入れずにとにかく一人でばーっと書いたけど、ちょっと何を書いているのかわからなくなってきたな…と手を止めて、何ということもなしに机の左脇に目をやったら、先週の日曜日に船に乗って街へ出かけたときに買った『べてるの家の「当事者研究」』という本が床に落ちていて、帯に書いてある言葉と目が合った。

自分自身で、共に。

自分の頭で全部把握してやろう、うまいこと書いてやろうなんて見栄を張らなくても、世の中には生きた言葉を携えた一人ひとりの人がいて、いつでもそれは分け合えるんだよな。ありがたいな。と思った。

(まだ続くと思います)


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