『自殺会議』にいた天使(向谷地さんの章)のおかげで書けるようになったこと(2)

(1)からの続きです/元はこの記事からはじまってます>

マルコムXという人は(私が要約して書けることではないし、実際はもっともっと複雑な経緯をたどっていることとは思うけれど)マリファナの密売や窃盗や強盗で生活していた頃は宗教を罵倒するような無神論者だったのが、逮捕され獄中にいたときに、ビンビイという同じ黒人の刑務所仲間から読み書きや文法を学び直して図書館の本を読むように勧められたことや、手紙や面会での実の兄弟たちとの対話をきっかけに内側から変えられイスラム教徒となった人だ。そんなマルコムが自分の身に起こったことについて振り返ってみたときのことが自伝に綴られている。

その後、しばらくして、ノーフォーク犯罪者コロニーの図書館で聖書を読んだときのことを、私は忘れない。ダマスカスに向かう途上にあったパウロがキリストの声を耳にして、強く心を打たれたあまり失神状態になって落馬したというくだりだ。私はその一節を、何度も何度も繰り返し読んだのだ。そのときも、もちろんいまも、私は自分をパウロになぞらえるつもりはない。しかし、わたしにはパウロの経験が理解できるのだ。(中略)私はそれ以来、真理というものは、自分が罪深い身であることを自覚し、それを認める罪人だけがすぐに理解しうるか、少なくとも理解できるということを知った。
(「完訳 マルコムX自伝(上)」マルコムX 著/濱本武雄 訳/中公文庫)

パウロは、ユダヤ人の中でもファリサイ派という、旧約聖書に書かれている律法(創造主がモーセを通して民に与えた掟)をガチガチに守ることに重きを置いていて、しまいには細かい規則・お作法を守ることやそれを誇示することが目的になっちゃったようなグループに属していた人。イエスは「そこが目的じゃないでしょ」という感じで形式主義やお作法をことごとく跳び超えていったので、ファリサイ派の人たちから疎まれ、敵視され、危険人物としてマークされたあげく死刑にされてしまった。

で、パウロはキリストのことを伝え歩いている弟子たちやキリスト者たちを片っ端から迫害していた筋金入りの暴れん坊だったんだけど、ある日「会堂に乗り込んでキリスト者たちを全員ひっ捕らえてやる!」と鼻息も荒くシリアの首都ダマスコ(ダマスカス)へ向かっていたときに突然天からの光に照らされて地に倒れ、イエスの声を聞く体験をして、それからなんだかんだあって「目からうろこのようなものが落ち」てキリスト者として生きる道にワープした、という、割と豪快な方向転換をした人物として聖書に記録されている。なんだかんだの詳細が気になったら「使徒言行録(使徒行伝)」の9章あたりを参照してもらうとして、とにかくマルコムXはこのパウロの身に起こったことの記録を通して神と対話し、自らも新しく造りかえられ目を開かれる体験をしていたのだった。

その体験によってキリスト教徒として熱心に教会へ通うようになりました〜という展開がキリスト教会としては嬉しいのかもしれないというか、そうならないことにはキリストに出会ったとは認められない! っていう感じなのかもしれないけれど、私はむしろマルコムが「そうならなかった」ことにこそリアリティを感じるし、切実な体験だったんだなと感じる。

あなたがいい子だから、ルールを守ったから、お作法通りできているから救いますよ、とかじゃない。あなたがナニ人だから、何教徒だから助けますよ、とかじゃない。どんな人でもいつかは等しく死ぬ。「あんなに優しい良い人が、どうしてこんな目に合わなきゃならないんですか!」でもないし、「あんな極悪人には厳罰を!」でもなくて、どんな人でもひどい目に合っていたらつらいし、人が人をひどい目に合わせることの中に真の喜びはないし、ひどい目に合っている人を見たら力になりたいという思う力が人間のどこかには必ずある。

困っている人がいたらその「困り」を少しでも緩和したいとただただ願う力が人間には備わっていて、でもその力に通ずる回路の妨げになるデータがこの世にはウジャウジャあるということをそのまま描き出したような記録が聖書の中にある。それはルカによる福音書の10章にだけ出てくる「善いサマリア人」のたとえで、少し長いけど引用すると、

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
(『聖書 新共同訳』日本聖書協会発行)

というもの。これはただ「あなたも困っている人に心から善いことをして、その人の隣人となるべし」っていう話じゃなくて、前回も書いたようにサマリア人っていうのはユダヤ人と民族的な折り合いの悪さがあったから、お互いが「エンガチョ」の対象というような間柄だった。でも、追いはぎにあってボロボロになった行き倒れの人を見たときに、同じユダヤの宗教的リーダーや知識階級の人たちは穢れるのを嫌がって(とは書いてないけど、多分)避けて通ったけれど、サマリア人のその人だけは目の前の人を憐れに思って自分にできるだけのことをしようと動いた。この話の迫力はそこにあると思う。そういう社会的判断のボーダーをひょいっと超えていく人だけが誰かの隣人たり得る。イエス様の教えだから善いことをしなきゃいけない、んじゃない。人間にも、イエスがしたようにボーダーを軽やかに飛び超えていく力がもともとある。その回路がつながるかどうかの局面では、宗教や人種がどうとかなんて関係ない。

『自殺会議』の中の、自殺する場所として選ばれることが多い北陸のとある観光地で自殺防止活動をしている茂さんという方の章にこんなことが書かれていた。その土地では、いわゆる「自殺の名所」となっているおかげでわが町は経済的に潤っているんだという共通認識を持った人たちが一定数いて、自殺防止なんて口に出そうものならその人たち(地元の有力者)の意に反するからえらいことになる。だから「黙っておくのが得策だよ」と言われたりするらしい。

こういうことは、世の中に少なくない。「もちろん酷いことだし、あってはならないことですよ! でもね、とは言ってもね、私たちだって食って行かなきゃいけないわけで…」なんていうことを人間は割とたやすく言えてしまう。「テメェら人間じゃぁねぇや! 叩っ斬ってやる!!」と破れ傘刀舟先生の決め台詞を叫びたくもなるけど、それが人間だ、とも言える。言いたくはないけど。でも。

自分は死にたくない。食べ物を確保したい。お金が足りなくなるのが怖い。そんなデータを拾っただけで、その人の中にもともとある邪悪で最低最悪な部分の小さな小さな種が簡単に芽を出してしまうなんて、人間はどれだけ弱く罪深いんだろう。その、見たくもないような罪深さが一般的な人間である私にも間違いなく備わっていることがとても恐ろしく、悔しく、苦しさがいつも拭い去れなかった。そのずっとつきまとう苦しさという重い荷物を肩代わりしてくれたのが、私にとっては他ならぬイエスという存在だった。

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