多謝



10代の頃からずっと心の支えにしていた存在がいた。

私が彼に抱く気持ちと関係性を世間が知れば、そんなものはとんだ逃避癖でありナルシズムであり盛大な勘違いだと、「それは支えでなくただの依存だよ」と、みんな揃って失笑するだろう。
「2人が一緒になったら心中しそうだから今の彼氏と結婚してよかったね」と共通の友だちに冗談混じりに言われたときは2人して「そうかもね」と笑ったほどだ。周りから見たらずいぶん退廃的な仲に見えていたのかもしれない。

それでも私にとって、常にどこか憂鬱や後悔や未練が伴っていたものだったとしても、10年以上私の心を死ぬ方向でなく生きる方向へ向かわせてくれた、指標になってくれていた大切な存在だった。
死ぬことばかり考えていた18の夏の私の心にはいつも彼がいてくれた。月1の集まりが生きがいだった。
あの思い出たちがあるから生きて来れたといっても過言ではない人生だった。

もはや彼への思いは恋やら愛やら名前がつけられる感情でもなかったように思う。
愛情?友情?執念?

どんな言葉もしっくりこない。

「10年以上の歳月、忘れた日などない」とベタな恋愛ドラマのような言葉を口にしたら周りは「大袈裟だ」「誇張してるね」と笑うだろうか。
恥ずかしい話、本当に思い出さなかった日がほんとうに1日たりとも無いのだ。
彼への気持ちを重ねたくなる曲を聴いたとき、彼に話したいことがあったとき、彼となんとなく似た男の子が出てくる漫画を読んだとき、彼に面白かったよと伝えたい映画を見たとき、
何をしても私の日常は嫌でも彼に繋がってしまう。

会うことはなく連絡ツールだけで繋がっていた数年間の間、彼の知らない私がいるように、私の知らない彼がいる。他の誰にも操縦権を譲らない彼だけが守れる考えと生き方がある。

失った今、タラレバばかり考えて、過去にしがみついて1日1日を上手に生き渡れずにいる。
踏ん切りのつけられない自分に情けなさばかりが募る。どこまでも利己的だった自分自身に嫌気がさす。

けれども、彼とのやりとりの記憶がこの先だんだん薄れて、脚色されて、そのうち「本当にこんなことあったっけな」とさえ考えるほどの朧げなものになったとしても、
しぬまで大切にしたいと思えるものを残してくれた人と出会えたことはとても嬉しいことなはずだ。

本当は忘れていない今のうちに、彼がどんな遊びに誘ってくれて、どんな言葉をくれて、どんな話をしてくれたのか、全世界中に「最高な人間だったんよ!」と自慢したいところだけれど
10代の頃「葬式は嫌だな 俺のいない場所で俺の話されるなんてやだよ」と言っていたので、これ以上は胸のうちに留めておきます。

これを以てすべて昇華と致します
と言える日まではもう少しかかりそうですが
きちんと健やかに生きていきます

ずっとずっとありがとう

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