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今週のふりかえり_200712

この前、帰りに会社の先輩Tさんと立ち飲み屋に寄った。コロナ後にこうしてふらっと人と居酒屋に行くのは随分と久しぶりなことだった。「やっぱりお店で呑むのはいいな」って思つつ、少しばかり懐かしいような、そんな心持ちで過ごした素敵な時間だった。

そのときにTさんが話していたことについてすごく共感したり、考えたりしたことがあった。

Tさんは、会社に勤めながら、副業ではWebメディアの編集長という顔も持っていて、数十人の有志のメンバーと活動されている。


そこでの苦労だったり、まとめ役としての大変さについて話していたときだった。"団体の中には自分のことを嫌いな人もいるかもなぁ"とか、"メンバーと分かり合うことが難しいと思うときがあって"とか、そんな感じの話があった。

僕も、今の会社で働くまで、100人くらいの学生とお寺で有志の活動をしていたから、彼の言葉に対して共感する節があった。(自分にもそんなときがあったというのは、今振り返るとちょっとばかり信じがたい気もしている)当時の僕も全く同じ言葉を口にしていたし、Tさんの表現までまるで自分と同じだと思いながら聞いていた。

その先にある思考は何かというと、「メンバーと自分には見えている世界が違う」というある種の結論のようなもので、1つ何かを悟ったような、そんな感覚に着地する。

この感覚は、実際確かなものではあると思う。集団の中心にいる人が、周りの人より優れているか否かに関わらず、立場上その集団に関する最も多くの情報量を持つことになるし、広く見渡すことになる。持っている情報量が違えば、1つの物事に対する判断や評価、解釈などは異なってくる。

"メンバーと自分には見えている世界が違う"と感じる原因は、持ってる情報量の違い以外にも、経験値の違いや、役割の違い、知識の違いなど、色々ある。

そしてこの次に思い至るのは、「中心にいる人が、集団に対してにできることは、環境を整えること」というもので、ここまでの流れは、Tさんも僕も似通った思考の流れだと思いながら聞いていた。


ただ、ここまでの話の中で、個人的に反省することが2つあった。

1つは、「メンバーと自分には見えている世界が違う」と感じたときに、「どれだけちゃんと話し合ったところで理解し合えないのではないか」という諦めが僕にはあったこと。このときに、人と向き合うことを投げ出している事実に気づけなかった。(あるいは気づいていながら目を背けたのかもしれない)そして、そんな姿勢そのものが、相手を軽蔑するようなメッセージを発してしまうという自覚もしていなかった。


もう1つの反省は、「環境」という言葉を物理的な環境としてしか捉えていなかったこと。

「集団の中心にいる人が、集団に対してにできることは、環境を整えること」と書いたけれど、ここでの「環境」には、自分の振る舞いも含まれる。僕は、この点を踏まえて行動していなかった。

場所だったり、インセンティブだったり、システムだったりを整えることばかりを考えるようになっていたと思う。

1人1人が何気なく発する「おはよう」「ありがとう」「ごめんなさい」、これだって1つの環境だろう。心のどこかでは分かっていながら、意識的に行動に変える勇気がなかった。これも人から目を背けて逃げてばかりいたからなのかもしれない。

頭で「こうしたい、こうありたい」と願うことと、現実に自分がとる行動にはとても大きな差分がある。体さえちゃんと動けば、すぐにできることばかりなのに、何を怖れているのだろう。頭で考えたことを行動にする、その間にはとてつもなく遠い距離を感じる。


Tさんは、そんな僕が「あのときこうできればよかった」と思う色々をさらっと自然とされているように見えることがしばしばある。いつも優しいなぁと感じるし、さらっとしているから良いのだろうと思う。尊敬しているし、僕もそうできるようになりたいな。

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