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平成22年9月11日

女子大の理学部の実験室、静かなエアコンの稼働音、ガラス越しにも響く蝉の声。女子大生との出会いを期待してやってきたぼくは、それが幻想だと知り、今はただ涼むため、科学展の会場に居た。

高専と、女子大、教育大。この県には3つの国立高等教育機関がある───おっと、山奥にある先端ナントカ大学院大学を忘れていた。まぁ忘れていてもいいや。
毎年この県では子供向けの科学展をやっていて、それが先の3校で毎年の持ち回りとなっている。ナントカ大学院は山奥過ぎて会場にできないのかも知れない。

「物理のH先生がボランティア探してるよ」
きっかけは寮生Tからのメールだった。ネットと音楽に没頭しロクに授業も出ていなかったぼくは、毎年いずれかの単位でお情けをいただき何とか退学を避けてきた。物理のH先生はそんな担当教官の一人。受けてきた恩義を返すため、ぼくはボランティアの参加へと重い腰を上げた─────嘘である。その年の開催は女子大だったからだ。食い気味で行くと即答した。

しかして、小中学生向けの、それも理系の行事に女子大生がそんなにいるわけでもなく。浅ましい目論見むなしく、小中学生の相手にも疲れ果て、今はただ、窓をも貫く蝉時雨を聞いている。

蝉が震え、外気が震え───ガラスが震えて、室内の空気を揺らすのだろうか。それとも、防波堤の切れ目から港の中に波が広がるように、音は隙間から入るのだろうか。真面目に授業を聞いていればわかったのだろうか。世界の解像度を高めるのは勉学か。感性か。

学問からも現実からも目を背け、形而上学に逃れて、賢そうな自分に酔うことに堕している。いつものことだ。蝉時雨に混じって"そういうところだ、治らないな"と聞こえた気がした。未来の自分の声だろうか。

そんなことを考えながら窓の外を見ていると小一時間ほど経っている。一緒に来たTは楽しんでやっているようで、全く交代しようとは言ってこない。物思いにも飽きてきたぼくは、隣の部屋を見に行くことにした。

「女子大附属中等教育学校 科学部 生物班」
隣の実験室の扉にはそんな紙が貼ってあった。電気の点いた室内には───子供も、説明員もいない。とりあえず入ってみる。生物班とあるが、動物のような姿はなくて、顕微鏡が並んでいる。

展示ボードを見ると、池のプランクトンを観察できるらしい。お寺が作った人工池、澄まず濁らずなんとやら…と七不思議があるとか何とか。勝手に顕微鏡を覗き込むが不鮮明なので、スライドを確認すると半分乾いている。隣にあったスポイトで水を差していると、説明員の名札を提げている女の子が2人帰ってきた。ちょうど子供たちが隣の顕微鏡を見に来て、眼鏡をかけた方の子が対応しに行った。

扉が開いた時に聞こえて来た蝉の声だけで喉が渇く。持って来たペットボトルの水を飲ん───
「えっ、飲むんですか?!」
え、と言って振り返ると、もう1人の女の子が後ろにいた。驚いているようだが、それはこちらも同じ。
「あ…、貴方のなんですね!すみませんでした」
なるほど。プレパラートに差す水を飲んでいると思ったみたいだ。
「生物班でね、プランクトンを研究してるんです。何故かボルヴィックでしか培養に成功しないから、ほら」
彼女は部屋の端を指差した。そこには24本入りケースのそれが積んであった。自宅にも欲しい。そう、ぼくはボルヴィックが好きなのだ。それを彼女に伝えると
「植物プランクトンなのかも、ですね」と言って笑った。恒温槽に入った試料、おそらくは池の水を見ている。その横顔を見て、誰かに似ているなと思いながら、そうかもしれないと言った。
「かわいいですよ」
「えっ!?あぁ…そうなの…?」
植物プランクトンのことね。………かわいいか?少し遅れて理解したぼくが反応した。彼女はさらに遅れてリアクションした。
「あああプランクトンが!!」

夕刻、撤収もあらかた終わった頃、ちょうど彼女も隣の部屋を出入りしていたので、明日も来るの?と聞いたら、明日は後輩たちがやるんですとの事だった。せっかく仲良くなったのに残念だ。
帰るか…外は西陽が煌々と射して暑そうだ。

「来週、ウチ学祭なんですけど」
窓の外を見ていたぼくがまた、さっきみたいに「え」と言って振り向く。
「よかったら来ます?」
突然のことに、いいの?とだけ聞き返す。
「招待券余ってて。兄弟も彼氏もいないから」

その時、屋内のはずの女子大の廊下に、風が吹いたような気がした。

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