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五木寛之著書「親鸞」

  彷徨える若き親鸞と取り巻く人々の専修念仏を巡る物語                       五木寛之氏の「親鸞」は、ともかく分かりやすい。いろんな仏教用語が散りばめられてはいるが、なぜ親鸞が比叡山へ入ろうと思ったか、又、そこを出て法然の下を訪ねようとしたか、動機がよく分かる。
 どのような悪人でも救われるのか、人はなぜ苦しんで生きるのか、その答えを求めて入った比叡山はそこで二十年を経た親鸞には根源的な問いを満たしてくれる場所では無かった。そして彼は念仏を唱えれば誰でも救われるという専修念仏を説く法然の下へと旅だってゆく。一介の聖として自由に生きることは彼の性分に合っていた。
 世間の枠の外で生きる河原坊や法螺房や弥七は、世の中の裏も知り、人間の悲しみも知る、巷における人生の師である。
「今の世の中は生きても地獄、死んでも地獄。もし、あの女(死んでしまった當麻御前)がかわいそうと思うのやったら、わしらを救う道でも考えてみい」と弥七は親鸞の心に火をつける。
 そしてそれをきっかけに彼は比叡山には戻らない決心をしたのだった。その後、法然のいる吉水に導かれるようにやって来た親鸞が目にするのは誰も彼もが子守歌のように念仏を口にする姿だった。その日しのぎの人々が念仏と共に生きている様を正に肌で知ったのである。
 そして親鸞の妻となる紫野やその妹、鹿野の出現で小説はますますおもしろくなる。後に処刑される遵西の子を鹿野が宿すという設定で、それぞれの人物が絡み合い、小説に起伏を持たせている。
 河原坊たち三人は親鸞という若きヒーローを守る参謀のような印象もあり、黒面法師という十悪五逆の悪人が親鸞の命を狙うときも手に汗握る攻防が繰り広げられる。そういったエンターテインメント的要素もある。
 厳しい生活と身分制度の下、たとえ禁じられても地の底から湧き上がるように念仏の声は途切れることがない。正にそれは踏まれても立ち上がる民と信仰の強さを物語っている。仏教に関心がなくても、身近な親鸞の人間像とその青春の彷徨い、彼を取り巻く人々との関わりがおもしろくて、一気に読めてしまう作品。

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