コロナ禍に思うこと①-”ONE TEAM”は正義なのか

TTBです。

ナンバリングをしてしまうと、続けていかないといけないことに気づいてしまいました。②以降があるかどうかは断言しません。初回打ち切り、これが最終回、なんてこともあるかもしれません。が、昨今の社会情勢についていろいろと思うところがありましたので、その一部という意味で今回が①です。

新型コロナウイルスと"ONE TEAM"

新型コロナウイルス感染症が蔓延しています。自粛を余儀なくされ、経済活動は停滞し、先行きの見えない不安に苛まれる毎日です。

政府は新型インフルエンザ特措法に基づく緊急事態宣言を出し、各都道府県の知事は対応に追われています。医療資源は逼迫し、医療関係者はギリギリの闘いを強いられているということも耳にします。学校は再開されず、特に受験生(特に高3生はセンター試験が廃止され共通テストに移行する学年なのに!)は不安な毎日だと思います。中小事業者は経営が悪化し、倒産を余儀なくされるということまで起きています。

そんな中にあって、外出自粛要請。「不要不急の外出」はもはや今年の流行語大賞になるだろうな、という勢いです。日本では現行法上、「不要不急の外出」を強制力を伴う形で規制するという仕組みにはなっていません。そのため、あくまで自粛を「要請」するということしかできない。法律の根拠なく私人の自由(移動の自由)を侵害・制限することはできないからです。

法的根拠が必要なら今すぐに法改正して規制しろ、という意見もあるようです。これに対して思うところがないわけではないですが、また後日(があるかどうかわからないけれど)ということで。

法的規制ができないということは、あくまで一般人の良識に委ねられるということになります。国や都道府県、市町村が私人に協力を求めるという形。みんなで一致団結してこの国難を乗り切っていきましょう、ということになります。

この点を捉え、そして昨年のラグビーW杯日本代表の活躍にもなぞらえて、「ONE TEAM」という言葉を再びテレビで目にすることが増えました。日本国民がONE TEAMとなって危機的状況に立ち向かっていきましょう、という文脈です。そして、一部地域で問題がなかったわけではないものの、GW期間中にはかつてないほど街から観光地から人出が減りました。ONE TEAMという言葉の強さを実感しています。

ONE TEAMは正義なのか

団体競技にあって、自ら犠牲になりながらチームに貢献するということは美しいことだと、私自身も思います。

ただ、ONE TEAMというスローガンに危うさを感じることもあります。

言い替えるならば、個人よりも全体(チーム)の利益を重視すべきということにならないでしょうか。そして、この発想自体、日本国憲法の基本思想と相容れないものがあります。

日本国憲法13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法は個人主義を基礎に置き、個人として尊重されることを宣明しています。これが出発点になるべきです。もちろん、個人の自由・権利は「公共の福祉」によって制限されることはあり得ます。ただ、あくまで「公共の福祉」による制限は例外的ということです。

ONE TEAMを声高に強調することが、この国のカタチの原則と例外を逆転させることになりはしないかと、そういうことを考えたりします。なお、個人よりも全体の利益を優先させる思想・政治体制のことを全体主義といいます。その例として、第二次世界大戦下におけるドイツのナチスやイタリアのファシスト、日本の軍国主義が挙げられることになります。

欲しがりません 勝つまでは

第二次世界大戦下における国民の戦意高揚を目的としたスローガンの1つです。歴史の教科書等で目にした方も多いと思います。まさしく大日本帝国(全体、チーム)の勝利のために、個人の自由が制限されるのはやむを得ないという論理です。

ONE TEAMという言葉には、このスローガンとの共通性がどうしてもちらついてしまうのです。いわば、「外出しません 収束するまでは」という言葉に聞こえてくる。

もちろん、ここで想定されているのは敵国ではなくウイルスです。しかし、第二次世界大戦下で贅沢が激しく非難されたように、現在、不要不急の外出をしている人を激しく糾弾するという流れが生まれてきています。全体の共通目標から逸脱した者をのけ者のように扱います。それ自体、日本国憲法が基礎に据えたはずの個人主義に反する動きのように映って見えます。

公共の福祉と新型コロナウイルス

いやいや、このまま不要不急の外出を放置しておけば感染症の拡大が止められないではないか、それこそまさに「公共の福祉」ではないかという反論がありそうです。いくら、原則が個人主義だと言っても、例外的に公共の福祉によって制限されることを認めているではないか。そして、まさに今こそが例外的状況ではないのか。その通りだと思います。

ただ、感染拡大を止める必要があるから個人の利益が制限されるのはやむを得ないと結論付けてしまうのは、議論の設定方法として適切ではないように思います。

というのも、あくまで例外的に国民の権利が公共の福祉によって制限を受けるとしても、「最大の尊重」がされなけれがならないのであって、国民の権利の制限は最小限に抑えられるべきだからです。もっとかみ砕いて言えば、公共の福祉だからといって何をしてもいいわけではない、そこには程度がある、ということです。

例えば、他人の物を盗んだ人を死刑にする、というのは、おそらく一般的な感覚では受け入れがたいと思います。それは「他人の物を盗む」ということに対する制裁(サンクション)として「死刑」が不釣り合い(行き過ぎ)であるからだということです(なお、窃盗罪(刑法235条)の法定刑は10年以下の懲役または50万円以下の罰金です)。

結局のところ、「不要不急の外出」に対する制裁として、個人の人格を攻撃したり、ましてその人のプライバシーを詳(つまび)らかにして社会的に抹殺したりすることが妥当といえるのか、という視点が必要なのではないかと思うのです。

ONE TEAMという言葉は、時にそれを守らない者を激しく非難することを正当化するための「切り札」になりはしないでしょうか。そして、正しいことをしていれば何をやっても許されるという考え方に結び付き、自らの行いが度を越えていないかという極めて重要な視点を覆い隠すことになりはしないでしょうか。

感情論として、自分がこれだけ自粛している中、大して考えもせずに不用意に外出することに対して苛立つ気持ちは分かります。でも、あくまで個人主義が原則であることを思い直してみたとき、他人の行動に口をはさむ(介入する)のではなく、自分のできる対策を粛々とこなしていくことこそが、最も重要なことではないかと思います。

ONE TEAM 最高!

だからと言って、ONE TEAMがダメだとは思いません。むしろ、ここまでつらつらと書いてきておきながら、私自身は誰かのために自己犠牲をすることは美徳だと思っています。

また、日本人の美意識とも関わるのかもしれませんが、不要不急の外出に対して強制力を伴う規制が存在しないにもかかわらず、自分だけでなく周りの人の命を守るために、これだけたくさんの人が我慢をしたということは特筆すべきことだと思います。

ただ、どんなに聞こえのいい言葉にも影の部分が存在すると思っています。表裏一体という言葉もありように、得てして光の部分と影の部分は背中合わせになっています。

だからこそ、影の部分を認識することで、認識しようとすることで、良くない方向に向かっていってしまうことに歯止めを利かせなければ、とも思います。

自分にできることを確実にこなしていくことで、この難局を乗り越えていきたいですね。それが、私なりのONE TEAMの解釈です。

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