『「わかる」と言うことが「理解」ではない』のならば。

これは爽さんが書いたライブの感想兼アルバムの感想の記事、を読んだ私の感想文です。
いろいろ考えることが多くて、「これで記事1つ書けそうだな」と思ったので書いてみることにしました。ちなみに基本的には爽さんに対する同意ではなく「私はどう思ったか」について書くことになろうかと思いますが、別に反論したいわけではなく自分の考えを整理したいだけであり、議論しようとかそういう考えはありません。「あなたはそうだったんだね」と受け止めた上での「私はどう思ったか」です。
思い浮かんだことをつらつらツイートするような気持ちで書いていきたいところだけれども、果たして。

元記事の順番(つまりセットリスト順)に沿って、ここは書きたい、と思った部分をその都度取り上げるような感じでいきます。


まず"Enchanté"について。

自分らしさなんて 大事にしたって
何を選ぶも自分だ

私はこの曲が配信でリリースされた当時から、ここの歌詞はすごく救いになる部分だと思っていた。
自分らしさって何なのか、私にはよくわからないから。他人に流されてそっちを選んだり、逆に周りとは違うと思いたくて別の方を選んだり、結局自分の意思って何なんだろう?
とか面倒くさいことを考えてしまう私に対して、「どんな理由で何を選んだとしても、君が選んだならそれが君らしさだよ」って言ってくれているような気がした。
だから、この曲の中の「正しさは要らない」「正しくなくたっていい」などの言葉は、私にとっては"正しくあることを捨てた"と言うより、"あなたが信じる正しさを正しいと言っていい"と言うのが近い気がしている。まあこれも自分勝手になってしまうと言えばそうなのだけれど、でも世間で大多数から正しいとされていることが必ずしも正しいとは限らないとも思うから、「正解探しはしなくてもいいんだよ」という意味だと私は解釈している。


"balloon"は、ライブでベースにしか目と耳がいかなかったので、爽さんが言うように今作に繋がるワードが散りばめられているなんてちっとも気付きやしなかった。とても興味深い、と同時に、私は一体何を聴いていたんだ……とショックを受けました(笑)
自分のライブレポートで「"balloon"と"風と船"を比較して、風船表象をテーマに記事を書きたい」とか言ったけど、そのためにはこの曲と改めてちゃんと向き合わないといけないなあ。いつ書けるかわからないので、ご興味がおありならば気長にお待ちください。
ちなみにこれは超余談なんですけど、この曲の

空っぽの 風船 みたいに
街を 見下して 浮いていたんだった

という歌詞が私はとっても好きです。


私がライブレポートを上げる前に、爽さんが「ホワイトライクミー好きのみずほさんのホワイトライクミー部分が楽しみ」って言ってくれたのがすごく嬉しかった。爽さんは"ゴールド・ルーズ"だけじゃなくて"ホワイトライクミー"でも私のことを思い浮かべてくれるから好きです。
そんな爽さんの"ホワイトライクミー"部分を読んで、「なるほど」と。今は眩しくて目も当てられないこの曲を、私を通して見ようとしてくれていたのかなあと、勝手にそう受け取りました。それなら私は、大好きなこの曲の美しさをもっと伝えられるように、綴る言葉にありったけの愛を込めるよ。それを楽しみにしてくれるあなたがいるのならば。


"EYE"の「汚れて」きたという言葉選びを受け容れられない話、以前ツイートでもしていましたね。私が『FRAGILE』のディスクレビューの中で書いた「"生きれば生きるほどに汚れていく"という表現は、私にはとてもしっくりくるものだった」という一文は、爽さんの話を受けて"敢えて"書いたものでした。
ここではディスクレビューには書かなかった方の話をしたいと思います。

"EYE"の試聴動画にはフルイドアートという技法が使われていて、この視覚イメージは「色を身に纏う」状態と重なりそうだと思った。ちなみに"EYE"の仮タイトルは『Marble(マーブル)』だったらしい。
マーブル模様って、それを美しいと捉えるか、汚いと捉えるか、人によってかなり左右されると思っている。いろんな色がぐにゃぐにゃと混ざり合って、世界が歪んでいくみたいで、物によっては不安を煽られるような気さえする。私は"EYE"の試聴動画を観た時、実はそこまで綺麗だとは思わなかった。面白い映像だな〜とは思っていたけど。でもリプライで「綺麗ですね!」って言っている人もいたので、やっぱり人それぞれなんだなあと思った。
だから自分が生きてきたこれまでに対して、「汚れて」きたと思うか、「色を身に纏って」きたと思うか、それだって人それぞれなんだと、爽さんの言葉を見て思った。その人が美しいと感じたのなら、誰が何と言おうとその美しさは誰にも穢すことはできないはずだとも思う。

ただ 自分であることも
忘れてしまえたなら

ラジオやインタビュー等でこの曲について尋ねられた時、「自分のことなんて見なくていいよ」「みんなに自分のことを見つめてほしくなくて」と大さんは話す。そのうちの一つを引用する。

外出自粛とか言われるなかで、僕は、あまりにも「自分を見つめ直す機会にしましょう」っていうのが気に食わなかったんです。自分を見つめれば見つめるほど、自分が嫌になっていくものだから、“お前たちは何もわかってない”と思ったんですね。(FanplusMusicのインタビューより)

たしか、どこかのインタビューで「自分を大事にするために、自分を見つめないでほしい」みたいなことも言っていた気がする。
私は自分のことを見つめると自分の嫌なところばかりが目に付いて、自分のまま生きることがしんどくなって、「こんな思考は捨ててしまえたら楽なのになあ、自分のことなんて考えずに生きられたらなあ」と思うことがそれなりの頻度であるので、「自分であることも忘れてしまえたなら」ってそういう感覚かなと想像する。
自分を忘れることに何の意味があるのか。難しいな。爽さんの問いに寄せるなら、自分の人生の責任が自分にあるってことを考えたくないのかも。自分の嫌いな自分になってしまっているのは自分のせいだっていう事実に、向き合うのが痛いから。孤独を強いられる今、そういうのに直面したら余計に救いが無いから、「見なくてもいいよ。目を逸らして逃げたっていいよ」って彼は言うのかなあ、と。
そういえば、そうやって自分の嫌なところを見つめてしまう時、考えているのは"他人からどう見られているか"ということばかりだな。「僕らは鏡ばかり気にしている」とは、多分こういうことだ。

なんか、なにをいいたいのかわからなくなってきた!
ええと、つまり、爽さんは私からはすごく責任感の強い人に見えているんだけど、そういう"自分のせいだと思わない"ようにするのが苦手な人なんだろうなって思う。そうやって荷物を背負い込みすぎて、「それ重いでしょ、そんなに持たなくてもいいよ」って言われても、なかなか下ろさない人。
えっと、だからどうって訳じゃない、そう思っただけです(オチ無し)。私とは全然生き方が違うって、ただそれだけのこと。


そろそろ終わります。

爽さんの今回の記事の中では「正しさ」という言葉がキーワードになっていたと思うんだけど、テレンが散々「正しさ」について歌ってきていたことに、爽さんに言われて初めて気が付きました。
『LAMP IN TERRENが歌う"正しさ"とその変遷』みたいなテーマでも1本書けそうじゃないですか?(元国文学科生並感)

これから見られるであろう、ゴリゴリのロックバンドな彼らもすごく楽しみですね。その曲を引っ提げたツアーの時は、メンバーにはぜひ革ジャンを着用していただきたい。
あの曲にも早く再会したいな。