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【参考】仮釈放中の無期懲役囚の生活状況

一 更生保護施設

皆さんは「更生保護施設」をご存知だろうか。刑務所や少年院から社会に戻るにあたり、帰る場所が無かったり諸事情から帰れない場合に、一時的に帰住する施設で「保護会」とも呼ばれている。

私が特別少年院から社会に戻った頃は、日本各地に102ヶ所の保護施設があった。

法務省HPを覗くと令和3年1月1日時点では1ヶ所が増え、103ヶ所あるようだ。

さて、この保護施設には幾つか特徴があり、正直なところ数が足りていない実情もある。

まず保護施設を大きく5つに分けると次のようになる。

A 成人男性専用
B 成人男性と少年専用
C 成人女性と少女専用
D 成人男女と少年少女混合
E 少年専用

更生保護施設の類別

私は特別少年院に在院中、この中から「ダメ元」でE施設への帰住を調整されていた。

「ダメ元」である理由は、当時の法務教官曰く「どこの保護施設も特少からの引取りを嫌がる」というのが実情らしく、「特別少年院の特徴」の記事には令和2年の引受け状況のデータがあるが、同じ少年院の中等生は保護会の引受けが見られるが、特少生は一人もいなかった。

保護施設は少年院や刑務所などから社会へ復帰する際のクッションとしての役割を持ち、不安と緊張の中で社会に戻った人達の環境を健全な状態に保つ意味は大きい。
しかし、実情として保護会の人間模様などを振り返るとリスクと隣合せというのが本音である。

その為、特別少年院への送致目安として『心身に著しい故障はないが、犯罪傾向の進んだ者』と認定を受けた私たちを引取るには、相応の覚悟が必要であったことは十分に理解できる。

またこれまで特別少年院から運良く少年専用のE施設へ引受けを許可されたケースは勿論あったが、中で徒党を組んで反抗の首謀者となってみたり、他の少年を脅した例や施設を飛び出した後に再犯に至った報告もあったようで、法務教官としてはE施設への調整を一応かけてはみるというものの、半ば諦めの境地だった。

そしてE施設の数自体が少ないため、E施設が引受け拒否となると次は前述した5分類のうち、Bの成人男性と少年の混合施設への調整が始まった。

B施設も同じく拒否の連続であり、その範囲は西は九州地方、東は関東と東北の一帯まで拡げられた。

私の設定期間は相当長期処遇という勧告が付いており、施設によっては超長期処遇という呼び方がされているもので、設定期間が長い分、帰住地調整が滞っても仮退院日までには帰る場所が決まるだろうと高を括っていた。

これが大きな見誤りだったと後に気づかされる事になる。

法務教官は最悪の場合、北海道にも調整をかけるので安心して生活に取り組みなさいと言う。
まさかと思いながらも不安になるため「このまま決まらない場合、北海道どころか沖縄まで調整がかかるのですか?」と問うと、法務教官は笑いながら「さすがにそうならないように頑張るから」とおっしゃっていた。

ところがどうしたものか、拒否通知や電話が入ると庶務課の先生や統括専門官が逐一私の単独室を訪ねて下さるが、気鬱な表情からすぐに無理だったと察する事が出来た。

私と法務教官はある不安が強まりだす。
それは「仮退院」ではなく「満期退院」という恐怖だった。

満期退院とは特別少年院に収容できるのは、犯行時に未成年である事を前提に、23歳に達するまで。23歳に達すれば嫌でも出るしかなくなる。
すると何が危険かというと「保護観察」が付かなくなるのだ。

少年の中にはこの保護観察を嫌がる者が相当数いたが、社会に復帰した際に相談者という存在がいるのといないでは大きな違いがある。現に私は保護司や保護観察所主任官に何度も救われ、心から感謝しかない。

結局、B施設は目ぼしいところが全て断られ、いよいよ北海道や東北の上の方だろうかと思っていると、D施設への申請がかけられた。

この頃になると1ヶ所毎の申請ではなく、数ヶ所の施設をまとめて申請をかけていた。
法務教官曰く、本来、2つの施設から許可が被ると逆に断るのが申し訳ない上に非礼だとのことだったが、特別少年院に送致されてから1年半が過ぎた頃あたりに見通しが立たないので、数ヶ所の施設へ同時申請を駆け出したのだ。

すると拾う神があった。その日、先生と統括らがいつもとは違う明るい表情で私の居室にやってきて解錠した。

私は正直、涙が出そうになった。引受けを許可して下さった更生保護施設がついに見つかったのだと気ばかり焦った。

開口一番、「落ち着いて聞けよ」と言うので神妙になると、次に出た言葉が「面接して下さる保護施設が一件見つかった」

それは「引受け許可」ではなく、判断するための「面接許可」が下りた知らせだった。
私は一瞬、表情が曇ると法務教官は「一歩前進した、気を落とすことはない」と言って下さり、遠路遥々車の空きが無かった都合上、護送バスに一人という違和感の中、面接先の保護施設を目指した。

ここまで来るのにどれほど難しかったかを物語る追記としては、通常、施設側の職員が面接に来てくださる事が多いらしく、こちら側から向かうのは逃走などを懸念する上に人員が必要となるので、中距離程度ぐらいだった。

それだけ法務教官としても絶対に許可を頂かねばならないという大きな意気込みを感じさせられ、私自身も緊張感で一杯だったのを思い出す。

そしていざ到着すると、施設長が中の見学をさせて下さった。元法務教官の年配の女性施設長で、のちに私にとってお母さんのような存在となる。

見学を終えると面接が始まり、仕事はどんな事をしようと思っていますや、小説を書くのが好きなので、休みの日には図書館に行って読書をしながら趣味レベルの小説を書きますと話すと、「出来上がったら見せてください、どんな小説を書くの?」という言葉が返ってきた。

私は(これはもう引受けて下さるつもりだろうか)と嬉しくなる気持ちを諌めながら、面接を続けた。

すると面接が終盤に差し掛かる頃に、施設長が何か聞いておきたい事はないかと聞いてくださったので、私は正直な心情を吐露してみた。

「正直、私は不安で一杯です」と口にすると、施設長が「どうして?」と怪訝な表情で目を丸くする。

「特別少年院からの引受けは本当に難しいようで何件も断られてきました。」

そう前置きすると私がいかに保護観察が必要としているかを熱弁した。社会で再犯は法務教官への最大の裏切り行為であるという事、そうならない為にも道標の存在がいかに大きいかについて話した。

すると施設長は笑いながら「そんなこと気にしてたの?ここは大丈夫です。ここに申請がかかる人はみんな難しい人ばっかりよ?特別少年院がなんですか」と一笑に附された。

私は逆にこれまでの経験した難しい状況との温度差に面食らい、唖然としていると施設長は続ける。

「ここは君みたいに他所で断られた人なんて珍しくないねえ。詳しくは言えんけど他の施設だと対応が難しいような人も沢山いる、命を狙われて来てる人もおれば、無期の人もね」

私は結局この施設への引受けが許可される事になる。

更生保護施設を1ヶ所しか経験していないので、他所の状況がどうであるかは分からないが、上記の発言から「命を狙われて来てる人」の詳細については皆目見当が付かないにせよ、噂では元暴力団関係者だとか。また、訳ありで施設にいる間は変名を名乗っている人はいた。

ただ無期については後に確証を得る出来事があった。

私が保護施設に帰住してから最初の1ヶ月ほどは殆ど人と関わらなかった。関わりたくないというオーラも出していたと思うし、今となれば申し訳ないことだが、刑務所から出た人達について警戒していた。

この数年先には私自身がBBS活動に参加し、更生支援活動をさせてもらう側に回った事で、刑務所あがりの人達についても理解を深めた。
ただ警戒はある意味で大事な自己防衛でもあるだろう。

ある日、私は仕事を終えて帰ると、施設職員との定期的な面接に臨んだ。保護施設の職員は保護司の役割も兼ねており、私の保護司を担当していたのは施設長だった。

面接室に入ると別の職員が座っておられ、その日はやけに外が慌ただしかった。

私は職員に「今日、施設長の面接なんですが、ちょっと忙しそうですね」と尋ねると、職員は「あ、そうか。ちょっと今取り込んでいるので見てくる」と言いながら、面接室のあちらこちらに目をやり何やら探している感じだった。

「あれ〜おかしいなあ」と言うので、「何探しているんです?」と問うと「いや、大したもんじゃないんよ。ちょっと待ってて施設長呼んでくるから」と慌てて出ていった。

その際、机に更生保護施設のパンフレットが散乱しているのでパラッと捲って見ていると、何やらメモ用紙がヒラリと落ちた。

メモ用紙には文字や記号が羅列していた。

甲本乙郎 × ○ 殺人・死体遺棄 △△年
甲山乙一 × × 強盗殺人・強盗 △△年
甲田乙助 × ○ 殺人・死体遺棄・損壊 △△年

私が目にしたメモ用紙

このような記載が10人ほど走り書きされており、私はそれを見た瞬間、施設に入所している人間だろうと思った。

だが名前を見ても誰一人として思い当たる節はなく、いくら私が他の利用者大多数と距離を置いているとはいえ、苗字ぐらいはピンと来る人が一人ぐらいはいてもいい。

次に目に飛び込むのは罪状の部分だったが、然程驚きが無かった。
何故ならうちはそういう重罪もいる施設だと事前に聞いている上に、特別少年院には重罪が見飽きるほどにいた。
今さら何を驚く事があるのかというものだ。 

それでもさすがに、相変わらず罪状の重い人が沢山いるなという程度に施設長の「無期もいる」という言葉を思い出していた。

そして分からないのが×と○のマークである。

私はクロスワードパズルでも眺めるかのように謎解きに没頭し始めており、突然後ろから大声で「それ!ダメ!」という職員の声で肩がビクンとなった。

私は職員に「先生大丈夫ですよ。私知ってますし、面接の時に無期もいるぐらいには聞いていましたから」と言うと、

ばつの悪そうに表情を翳らせ「これはいけんのよ。どこにあった?」と話を逸してきた。

私はそこのパンフレットに挟まっていた事を告げると単刀直入に聞いてみた。

「先生も大変ですね。ここは難しい人が多いから」

職員「そりゃ…うん。それでも社会に戻ってきた以上はやり直さないといけんしの。頑張るんで?」

あまり触れてほしくないんだなと分かるものの、どうしても聞いておきたかった。

「1つだけ教えてください、その×と○はどういう意味なんです?」

職員「うん?ああ…やっぱり刑期が長いとの…身体も悪なるんよ」

何とも歯切れの悪い言い方をするので更に問う。

「ああなるほど。健康状態ですか?○が健康で×が何かの病気にかかってるとか?」

さすがに職員も誤魔化していられなくなったのか「違う。これは薬が処方されてるかの有無。やっぱり引受けるとなったら健康状態は気を配らないといけんでしょう?」

私「え?引受けるって、そこに書かれている人はまだ中ですか?」

すると無言で頷いた。

無期懲役囚の仮釈放の目安については、ネット上でも度々議論されているのを目にするし、今は有期刑の上限が30年という観点から、最低でも30年が経過するまでは審査がかからないとか、25年以上がどうのといった厳罰の影響からほぼ出られないなどといった話を見かける。

私がこのメモ用紙を見た時代は少なくとも15年以上前の話となり、書きながら気になったので、改めて法務省のHPから拾ってきた。

[旧版]平成21年〜平成30年まで
あいにく私の経験は統計より数年遡らねばならない。数年先の統計ですら『無期懲役による仮釈放』は年々10人を満たない数で出ている事が分かる。
[更新版]平成23年〜令和2年まで

続いて、無期刑受刑者の在所期間について

[旧版]平成30年末
[更新版]令和2年末

無期刑受刑者の年齢

[旧版]平成30年末
[更新版]令和2年末①
[更新版]令和2年末②

メモ用紙に記載の年齢で覚えている事は、殆どが高齢であり、私は一番若い人を探したら30代が1人か2人いたように思う。ただそれでも30代半ばを過ぎており、1人は40に近い30代だったように記憶している。

(注:30代の無期懲役囚に保護会側が面接を行ったとて、すぐに仮釈放される訳ではなく、あくまで帰住地の調整で面接していると考えられます。

帰住地調整というのは社会復帰後の居住先の確定や引き受けられそうな近親者の心情や生活状況などが確認される。

帰住地調整は早い段階で行われるが、無期囚となると「出れる見込みのない者」が多いと思われる。
ここからは推測であるが「情緒の安定を図る」目的の面接もあるのではないか。
ただし本人が社会に出れると思っていない場合に、変に期待を持たせてしまう場合もあるのではないだろうか。
故に官側が観察記録などで個別判断しながら地方更生保護委員会と調整していそうです)

[旧版]平成21年〜平成30年
[更新版]平成23年〜令和2年

もっとも興味深かった項目。
各年度の地方委員会別の無期懲役囚に対する仮釈放審査の処理状況である。 

私がいた保護施設を有する都道府県は引受け状況が多いと知り、旧版も更新版も四国は相変わらずゼロだった。
ここから各保護施設の対応状況が感じ取れる。

中には被害者数が複数人で仮釈放が許可されている事例もまあまあ見られた。

参考までに法務省:無期刑受刑者の仮釈放運用状況等について

ここまで無期懲役囚の仮釈放に焦点を当てる上で、少しでも仮釈放されるまでが難しい点や「保護会」について説明しておきたった。

ここからは保護施設で目にした長期刑や無期刑の仮釈放されてすぐの様子について記していきたい。

ニ 保護施設にいる人たち

私が一時帰住した更生保護施設は、成人男女と少年少女が混在している比較的珍しいタイプで、当時に日本各地102ヶ所のうち全体数の10%に満たない類型だった。

画像は令和元年6月時点のもので日本各地に103ヶ所

図に示す通り、私がいた更生保護施設も成人男性が圧倒的に多く約30名ほど、続いて成人女子で5〜6名、次に私たち少年や元少年(少年院仮退院時に成人を迎えている者)で多い時には3名だったが、常に1名か2名だった。さらに珍しいのが少女の存在であり、私がいた時に1名入ってきた。
つまり4分類の全てが揃う貴重な時期だった。

更生保護施設への入所条件に関しては、更生保護事業法の第ニ条2項に規定されているが、ざっくり噛み砕くと以下の通りである。

①保護観察対象者(1号から5号まで)
②懲役や禁錮を満期で終えた者
③刑の一部または全ての執行を猶予された者
④罰金刑を言い渡され支払いを終えて社会復帰した者
⑤労役留置場からの労役を終えた者
⑥起訴猶予の決定を受けた者
⑦少年院から本退院者
⑧婦人補導院から本退院者
⑨日本へ引き渡され共助刑を受けた国際受刑者
⑩日本へ引き渡され共助刑を受けなかった国際受刑者

この内、ほとんどが①の刑務所から仮釈放者(3号観察)と②の刑務所満期釈放者であり、次に私たち①の少年院仮退院者(2号観察)、珍しい部類では拘置所から緊急保護とのみ語った⑥か③がいた。
なお、ここでの「刑務所」とは刑務所、少年刑務所、女子刑務所を総称するものとする。
⑧⑨⑩あたりは実数として少ないので滅多に見れないと思われる。
この他に児童福祉法の絡みによる緊急保護がある筈で、小学生女児が一人やって来た。
その女児は家庭環境がめちゃくちゃだったが、保護会は結構難しいものがある。
何故なら刑務所あがりの一人がその子に目をつけて連れ回した。男女混合の保護会では恋愛関係含めてよくある実情です。

人物評を列記すると、

・退所間際に寂しくなったのか、突然ラブホに誘い出してきた窃盗常習のオバさん
・最初は大人しかったが元暴力団の使いパシリとなってから虚勢を張り出し、総スカンを食らった中年小太り男性
・地方出身で遠方の少年刑務所に送られ、愛嬌ある田舎っぺで愛されていた青年
・私同様ほとんど周りと関わろうとせず、私と年齢が1歳しか変わらないのに少年刑務所へ行ってしまったV系男性
・過剰収容により刑務所の空き状況に恵まれず少年刑務所へ移送された後に若い奴に虐められたと溢していた初老男性
・元レディース風で同じ空間にいると場の空気が明るくなるヤンキー姉ちゃん
・福田和子の話を熱弁する肝っ玉母さん風の小太りおばさん
・歳下にも礼儀正しくいつもニコニコと朗らかな青年男性
・大の世話好きで新しい人がやってくると根掘り葉掘り聞く代わりに、手取り足取り教えてくれる片足の悪い初老男性
・四六時中部屋から出ずに、挨拶すると笑顔で返すが基本的に無口で男前の茶髪青年
・SOPHIA松岡に似ているが年齢がかなり上で驚かされた中年男性
・虚言癖があり、敢えて騙されてみると壮大なストーリーを流暢に語り、いつしか大手グループ社長の御曹司にして世界を動かしていたらしい中年男性
・西鉄バスジャック事件に興味津々であり、蛇の入墨が特徴的で面倒見の良かった初老男性
・狭い田舎では通用する程の強さだが、都会で上には上がいると思い知ってから陰で粋がるようになった喧嘩自慢の中年男性
・事情があって施設では偽名を与えられていた女子少年院あがりの女性
・家庭では姉妹のおさがりの衣服を充てがわれていたらしく、同性愛の問題が芽生たために特殊教育課程のある少年院から仮退院してきたメガネ少年
・保護施設をいつも出たがっていた、どんちゃん騒ぎが大好きな中等少年院仮退院者
・声をかけたそうにしていたが、私があまり関わりたがらないために、そのうち遠くからこちらを見てくるだけとなった中等少年院仮退院者
・一にもニにも女性好きで、ある日部屋でいいもの見せてやると歯ブラシの柄を入れた性器を見せつけてきた初老男性
・気弱だったがとても温かみがあり、いつも他人を気遣ってくれていた元板前の初老男性
・寡黙で一切喋らない人だったのに、退所間際に急に連絡先の紙を渡され北九州に来いと言ってきた初老男性
・陰口を叩く悪い癖があるが、直に接すると良いところが沢山あった初老男性
・上品でいつもおしとやかだが、裏の顔が怖すぎる中年女性
・施設内で人夫だしの中抜きシノギを始め、施設側はそのトリックを見抜けず「施設利用者に仕事を斡旋してくれる功労者」として映り、挙げ句に保護観察所から感謝状まで貰っていた元暴力団組員
・すぐに保険金をかけさせようとし、身の危険を感じた施設職員がどこかのビジネスホテルに隠れる事態にまで陥らせた元暴力団員

他にも挙げればきりがないが、色んな人が入れ替わり立ち代りやってくる。

施設に来ると平均で3〜5ヶ月で地盤を固めて退所していくが、早い人だと1ヶ月でいなくなる。
私は見たことないが長い人で2年もいた人がいた。これはレアケースで、よっぽど保護観察所も認めるだけの事情があったケースだと推測できる。


三 奇妙な行動を取る人

そんな更生保護施設の面々だが、ある日、不思議な人がやってきた。

私が施設の数人と関わるようになった頃なので、施設にやってきてから2ヶ月半ほど過ぎたあたりではなかろうか。

当時、私は施設の三階に住んでおり、四階と三階が成人男性と少年のフロアだった。二階には成人女性と少女と食堂および職員の宿直室がある。

この頃、私はよく屋上のベンチに寝転んでボーッと空を見上げながら少年院を思い耽るか、本を読むことが多かった。
屋上には人があまり来ないので、お気に入りの場所でもある。
たまに四階の本棚に本を借りに行くこともあった。

その日も施設内をウロウロしながら屋上に向かおうとすると、大きなダンボール箱を運んでいる職員I先生の姿が目に入った。

この男の先生は40ぐらいで、いつも施設の人間に誠心誠意で接してくれるため、入居者の大多数から慕われていた。

私は特にする事もなかったので、I先生に「なんか手伝うことはありませんか?」と声をかけた。

するとI先生は「本当?ありがとう」と言いつつも、「いま特にないなあ…なんかあったかな」と呟き、階段を一緒に降り始めた。

気になったので「そのダンボールなんですか」と尋ねると、『新聞』と言う。

I先生は一階の物置にそのまま入ると中からゴソゴソと大量の新聞を出してきたので、(ああ、廃棄かな)と早合点し、「ビニール紐でくくるの手伝いましょうか」と言った。

するとI先生は返答する。

「ううん。これね、読むの」

私はへーっと思いながらも「ああ、なるほど。刑務所にいた間に外の事が分かりにくいからでしょ」と言うと、I先生は「うーん。それにしてもすっごい量だね」と述べた。

社会に長らくおられる方はピンと来ないかも知れませんが、たかが1年や2年であっても世間とズレる事がある。

例えば私だと、社会にいる時にはカメラ付き携帯が最先端であり、持っている人も少なかったが、社会に戻ると持っていない方が不思議な目で見られるほどに当たり前となっていた。

また紙幣や硬貨が変わると不思議な気持ちとなりレジで戸惑い、正直、私は何かしら大規模なテロがどれほどの大事だったのか実感したのは数年後のことで、倖田來未がブームになった発端を知らず、社会に戻ると倖田來未なんてもう古いと言われる始末だった。
他にもギター侍がどんな人なのか気になって仕方がなくて、ブームの時の姿は一度も見ておらず、社会に戻るとテレビでは既に消えていた。数年後に再び出てきて、ああこの人かとなった。というのも私は特別少年院にいる間、テレビを視聴出来たのは集団寮にいた約4ヶ月のみで、残る2年はテレビを一切視聴できない単独室にいたことも関係していると思う。
社会に出てからYouTubeで見放題かもしれないが、リアルタイムにテレビやネットで知って他者と共有する事は自然体であっても、ブームの去った後にいくら動画で知っても、それを共有する事に違和感(ズレ)が生じてくる事はあった。

刑務所も新聞は読めるのだろうが、少年院に限っていうと外の情報源は、一に新聞、ニにラジオ、三に手紙ぐらいなもので、他だと法務教官との会話ぐらいだろう。
そのため少年院らしいと感じたのは、集団寮で散髪をする際に髪を受け止める古新聞を少年らが見入る事がよくあった。それほど情報に餓えている。

また少年院にもよるだろうが、私がいた特別少年院の単独寮は新聞が一日遅れでやってくる事があった。
集団寮では上級生から順に読んでいたが、単独寮では新入生から読ませていた。

こういった些細な違いがのちに大きなズレとなってくる。

そのためI先生が「読む新聞」と言った時、すぐ理解には至ったが少々甘かった。

私はてっきり、その本人が社会にいない間の数年分を読みたがっているのだと思っていた。とんでもなかった。

I先生「ああ…もう無いなあ。捨てちゃったかな…さすがに古いもん」

私「平成何年のやつが無いんですか?」

I先生「ううん違う、昭和」

その言葉を耳にした瞬間、あまりにも予想外だったため、今現在が平成何年であるのかを忘れかけたほど衝撃的だった。

I先生は困りながら「仕方ない…とりあえずこれだけ持っていこう」と言うと、続けて私に「それじゃあ悪いけどちょっと手伝ってもらえる?それ持って一緒に上がって」と言われ、着いていった。

四階の人で階段をあがってすぐのニ、三件先の扉が全開であり、新聞を抱えたまま覗くと、メガネをかけたお爺さんが夢中で新聞を凝視しているではないか。

私達に気づくとうつむいた顔のまま、目だけをメガネの奥から見上げるように動かして、「ああ、どうも、そこ置いといてくださぁい」とだけ口にし、黙々と新聞を食い入るように読んでいた。

私はこのお爺さんがもしかして無期懲役囚ではないかと気になり始めたものの、詮索するのもなんだし、この施設はすぐに情報が回る事も知っていた。

何となく尾を引かれたまま、I先生がおりていった階段を私もおりた。


四 老いる無期囚が生きる意味

 一階へ戻ると、I先生は再び倉庫をガサゴソとしていたので、私は思わず尋ねた。

「あのお爺さん。無期ですか」

I先生はすぐさま「いやあそれは言えないね」と返したあと、「でも長いこと刑務所にいた人ってのは気づいたでしょ?」と濁した。

この時、なんだか無性に考えさせられる心境となり「あのお爺さんを見ていると分からなくなりますね」と感じた通りに呟いた。

I先生も「なにが?」とは言わず察したように「うーん」と言って腰に手を落とした。

「はっきり言って、あのお爺さんが何をしたか知らないですけど、きっと最悪だと思うんですよね」

I先生は「そうだね」

暫く私とI先生は無言でボーッと考えていると、突然I先生が思い出したかのように新聞をガサゴソし始めた。
そして私に「あ、もうこれでいいわ。助かったありがとう」と言い、私は改めて四階に向かった。

お爺さんのドアが全開だったので、前を通った際に一瞥する。
さっきと同じ姿勢のまま微動だにしていないかのようで、貪るように新聞を読み続けていた。

私は暫く四階の本棚を漁りながら、目ぼしい本がないと探していると、時折、大きな溜息とともに「うううん」と何か思い当たる事でもあったかのように、お爺さんの唸り声が聞こえてくる。

数分後、I先生が今度は違うお爺さんと四階にあがってきて、本棚の前にいる私と鉢合わせとなった。

I先生は私に「あ、悪いけどもう一回いい?ちょっとテレビのリモコンの使い方を教えてあげて」と言うと、お爺さんの方を向き「あと何が分からなかったんだっけ?洗濯機と?ハンガー?」とお爺さんに尋ねていた。

私は(テレビのリモコンの使い方を教える?)と一人考えていた。

するとI先生が私にもう一度こう言う。

「リモコンが分からんのんだって」

私は生まれてこの方、テレビのリモコンの使い方を知らないという人を見たことがない。

何を教えればいいのだろうと戸惑いながら、お爺さんに「えっ...となんでしょうか」と言うと、お爺さんがペコリと頭を深々と下げ「すいません。よろしくお願いします」と言うので、こちらが申し訳なくなってきた。
おそらく長年の刑務所生活で身に付いた動作なのだろうと感じていた。

とりあえず、そのままテレビをつけてみようと思い、赤いボタンを押すのを見せながら「これを押すとつきますんで」と言い、そのままチャンネルのボタンを順に押していく。

本当にこれだけの事だったが、お爺さんはいちいち大袈裟に驚くように声を出し、私は不思議だったので「えっと、つかなかったんですかね?」と聞く。

お爺さんは首を傾げて「いやあ、なんぼ押しても動かんもんだから」と不思議そうにされていた。

ちなみに断じてボケているのではなかったと思う。その後に洗濯機の使い方について教えた際、私が「電源ボタンを押してから、洗剤を入れて、スタートを押すだけです」と述べると、一回で理解出来ていた。

そしてハンガーが欲しいらしいので、一緒に近所の百均に着いていってあげると、ここでも珍奇な光景を目にすることになる。
お爺さんはハンガーをそっちのけで目覚し時計の前で立ち止まり動かなくなった。

私は内心(いやいや…さすがに目覚し時計を知らないなんて無いでしょう)と思いながらも(いや常識を疑うべきだ。目覚し時計なんて私は見慣れているが、長い懲役の人は本当に知らないのかもしれない)などと慎重に様子を窺っていると、キョロキョロと私を探して言う。

「これほんとうに百円?」

(なるほど、そうきたか)とこちらが唸らされそうになった。

今の百均なら低価格の時計が売っていて当たり前といったところだが、お爺さんが長期の服役をする前だとあり得ない商品だったのだと察する。

お爺さんに「その小さいのは百円ですよ。上のは三百円のやつなんです、百均も変わったでしょう」と言ったものの、そもそもこのお爺さんは何年、いや何十年、社会から離れていたのだろうと考えながら、もしかして百均自体が初めてじゃないのかと一人で考えに耽っていた。

そしてレジで共感する現象として、新500円玉に若干戸惑うという見慣れた光景に安心を覚えながら施設へと戻った。

帰路、刑務所は色々大変でしたでしょうと尋ねると、お爺さんは「ああ、もう(そりゃあもう)」と何か思い出したかのように顔を歪め、続けて私に「お兄さんも○刑?」と近所の刑務所から出たのかと聞いてきた。

「いえ。私は奈良少年院です」と返すと、「ああ、な、少年院?ほう」となぜか薄っすら寂しげな横顔だった。

この数日後だったと思う。

百均に着いていったお爺さんは施設内で禁止されている缶チューハイを入居者と共に呑みながら顔を紅くさせ、私を見るととりあえず缶チューハイを見えないように隠し、(あ、職員じゃなかった)と言わんばかりにまた呑み出す。

そして、新聞を読み込んでいたお爺さんだが、来る日も来る日も新聞に没頭しており、数日後には四階で無期だと広まっていた。

これも保護施設ではよくある話で、同じ刑務所にいた人が必ずいるので、どこの工場に配役されていたやら、罪状から懲罰回数まで丸分かりとなる。保護施設では頻繁に耳にする初対面の挨拶が「どこから?」であり、最初は聞こえてくると意味が分からなかった言葉に「前刑ぜんけいは?」というものもあった。訳すと「前はどこの刑務所に務めた?」という意味になる。

社会に出て間もない頃なので話題が然程ないというのも大きいと感じる。
私は少年院だから「どこから?」といくら聞かれても「少年院です」の一言で話が終わるが、刑務所同士だとそうもいかないのだろうと感じた。


五 刑罰のさらなる細分化

最後に、私は条件的死刑肯定派かつ理想的死刑廃止派であり、いわばその運用は慎重であるべきだが、現状の死刑はやむなしと思う側の一人であると共に、死刑存置か廃止かよりも刑の細分化こそ優先だと長年言っている。

「無期懲役」という刑罰があまりにも漠然とし過ぎており、「無期」の意味が独り歩きし、「いつか出れるであろう」と感じさせる無期と「今はそんな簡単に出れませんよ」の無期が混在してしまっている世の中だと思う。

それは「従来の無期刑」とは別に「マル特無期刑」の認知が世に浸透していない事が一つの大きな理由だと感じていた。

そんな中、オウム事件の中村昇確定受刑者に対する高裁判決で司法は『終身刑』に言及した事で波紋となったが、尚更「現状の無期刑」の不信頼性を浮き彫りにしたに過ぎないと思うのだ。

そこへきて死刑廃止議連が「終身刑の導入」について躍起となる理由に「死刑代案」があり、その先に理想とする死刑廃止を目指している事は伝わってくる。

終身刑が死刑とは別に必要だと考える手前、終身刑の導入そのものが暗礁に乗り上げられるのも進展の機会を失いかねない。

詰まるところ死刑、絶対的終身刑(基本的に恩赦以外の救済措置は無く、恩赦を規定しておく理由の一つに施設管理の円滑維持があり、管理される側の希望的要素までは奪うべきでないと考える)、重無期刑(マル特無期の明文化、仮釈放審査は要慎重)、軽無期刑(仮釈放の審査有)、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料、没収と柔軟な刑罰の適用を進める事が不可欠ではないだろうか。

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