【読書】死刑絶対肯定論(美達大和著:新潮新書)を読んで 

この記事は、本書と少年院経験とを照らして考えた事を整理して残すもの、と捉えていただければ幸いに思います。

死刑絶対肯定論: 無期懲役囚の主張 (新潮新書)


反省とは何か

著者は本書の第一章冒頭にて、「ほとんどの殺人犯は反省しない」と述べます。

まず生命犯について考える前に、反省とは何かについて考えてみたい。

広辞苑では自分の行いを省みることとありますが、罪を犯した者にとっては広辞苑通りの事柄でいい筈がなく、犯した罪によって終着点は違うように思えてきますし、終着点なんて無いのかも知れません。過去にした事が被害者にとって癒えていないなら、それは終わりが来ないと思いますし、仮に赦されたとすればどうなのかと考えても、それで過去が消えるかというと違うと思えてなりません。

すると生命犯に限らず、すべての加害者にとって反省とは何かという出口の見つからない難問にぶつかってしまう思いです。頭で考えるような事ではないのかも知れませんし、心で見つめるものなのでしょうか。答えが見つかりません。

罪を犯した者が自分のした事について考える場面は沢山見てきましたが、今思うとそれは反省していたと言えるのか疑問に思えてきました

本書で著者は刑務所内にいる凶悪犯の面々が全く反省しておらず、酷いものでは囚人同士が過去の罪を面白おかしく話して盛り上がっていると言います。

この点に関して私は特別少年院でも似たような状況を見ます。

私が特別少年院の集団寮について、法務教官に「真面目に更生しようとする少年には集団寮は適していない。他の特別少年院みたく全て個室にするべきではないですか」と再三言っていた理由がここに集約されており、罪を犯して少年院に来ておきながら、自己を省みないならどこでやり直すんだよという感情が強く芽生えたのは確かでした。

それでも集団寮に移ると協調が求められる点は非常に良い面であると思え、社会も他者との共存である以上は一人で好き勝手に生きていくのは難しいため、そこは集団寮で人間関係を学ぶ上で適した場所だった筈です。

著者は本書53頁と54頁に単独室と共同室(集団室)について、こう述べます。

共同室では、雑談・映画のヴィデオと騒々しいですが、単独室ならテレビのスイッチを切ることもできます。
社会のように勉強に恵まれることはないとしても、本人のやる気で可能なことはいくらでもあります。
共同室にいた頃も、私は自分の目的に集中してきましたが、机に向かい、読書又は勉強している分には、社会の生活と変わらないと、ある時ふと気付きました。私が徹すれば、周囲もそれを認め邪魔しませんし、逆に何かを勉強しようという者も出てきます。もちろん、メンバーに恵まれた時には、殺人について、反省や償いとは、今後正しく生きるとはどういうことか、皆で唸りつつ、考える日々もありました。

 ここは大いに同感で、殺人未遂罪で一発特少の少年と同じ部屋だった時、彼は仮退院後に取得するための大検(現・高認)の勉強をしており、私語内容も大学進学など前向きなものが多かったです。他にも、多額窃盗罪の少年と同じ部屋になった際も資格取得について熱心に話し、出院後の生活設計が具体的で非常に勉強になりました。

 自己に集中出来る者と同室になれば逆にプラスに働く要素は確かにあります。ただ刑務所の話でよく耳にしていたのは、中で犯罪計画を謀議し、社会に出ると互いに共犯関係となってしまう事があるため、ある刑務所経験者は「刑務所はワルの学校」と揶揄していました。

 特別少年院では犯罪内容について話す事はありましたが、中にいる頃から次にどんな悪さをして金稼ぎしようなんてさすがに私は耳にしませんでした。強いて言うなら後に登場する他の少年院へ移送されてしまった少年が「出たらヤクザをする」と堂々と宣言していた例ぐらいなものです。

やがて私は熱望して単独室に移り、今日に至りましたが、他者に流されずに決めたことに集中するには良い環境です。
精神を内観し、己に欠けているものについて考察し、肉体を鍛えるという暮らしは、ある意味で豊かと言えるかもしれません。

 ここは著者と私が若干被る部分で、集団寮に移ってから暫くして単独寮で昼夜間単独生となります。集団寮にいたのは2年4ヶ月の在院期間のうち4ヶ月と4日のみでした。
比較すると集団室は話しかけられる度に集中が途切れますし、話しかけられて返事をしないとなると、それはそれで他生との軋轢を生みます。孤立するだけならまだしも、強盗致死のA君を取り巻く状況を見ている限り、面倒な事だらけだったでしょう。

 著者のLB刑務所も私の特別少年院も成人と少年の差こそあれ、共通していると感じるのは「累犯が多い(LB)」=「犯罪傾向の進んだ者(特少)」ですので、著者がLBで感じた「人非人」と私が特少で感じた「破綻者」という感覚は、それだけ難しい者が集まっているのだと思います。

 単独室はそれらを遮断できる環境でしたし、嫌でも自分自身と向き合わざるを得なくなります。

 ちなみに社会にいる時、集団室(雑居房)と単独室(独居房)のどちらが良いかという話題を経験者らとした時、集団と口にする人は「独居なんて気が狂う」「話し相手がいる分、雑居の方がいい」「独居だとネガティブな事ばかり考えない?」との事でしたが、私含む独居派は「話し相手は法務教官(刑務官)で十分」「読書に集中したり哲学に耽ったり悠々自適」「ネガティブな感情に支配されるのは慣れていない時期で、長く独居にいると超越して達観したような錯覚に入る、それが慣れに入る境目」等と意見が別れました。
ただ雑居派のいう「気が狂う」というのは、ある意味言えているところもあって、私が医療少年院に移送して欲しいと懇願していた頃は、内省する中で自己の思想(右翼的価値観)を否定しなければなりませんでしたし、それはイコールそれまで信じて来たものを一度壊して、誤った部分を正さねばならないので、自己否定から存在否定へと直結する事でもありました。
 すると「自分自身とは何者か」という禅問答のような状態となり、出口の見えない迷路を彷徨い歩く日々が始まります。
 そこからやっとの思いで別記事に書いた医療刑務所への精神鑑定に漕ぎつけた訳です。精神科医の観点から私を判断してもらえるのですから、「特別少年院まで来た者はどこかしらおかしいに違いない」という疑いについて、一つの見解が得られます。

 結論から私は3つの鑑定結果を示されました。

①思春期危機 3つの中でどれか1つに絞ってほしいと頼んだところ精神科医が「強いて言うなら」と出した鑑定結果です。

②行為障害 反社会的かつ反抗的で攻撃的といったもので、私はその名称から「私はやはり異常だったのでしょうか」と問うと、少年院に来る少年、それも特別少年院まで来ている少年なんて全員と言っても過言ではない程当てはまるものだと言われ、特別少年院の「犯罪傾向の進んだ」に集約されたような特徴です。

③パロール(拘禁反応)つまりここに「気が狂う」のヒントのような鑑定結果があります。拘束収容されている者に割かし見られるもので、特に「長期間の独居拘禁者」にはまあまあ生じるようです。独居房を使用した様々な監獄実験を幾つか読んだことがありましたが、ある条件下で独居に長く置いておくと発狂するという話があったように思います。

 興味深い記事にこういうものもありました。

 精神むしばむ独居房に科学者ら警鐘、「人間は隔離に耐えられない」

この記事で興味深いと感じるのは、黒人解放運動の政治組織ブラックパンサーのロバート・キング氏が『政治的信念の強さでどうにか正気を保つことができた』と語っているところです。

私は逆に思想を壊す作業に入っていた訳ですから、自分の中でどんな状況下においても「揺るがない芯」が有るのと無い状態では、身の保ち方も幾分かは違ったのかも知れません。

その「揺るがない芯」が人によって家族や愛する者といった他者を想う気持ちだったり、宗教的な教えや思想的な信念なのでしょう。

 刑務所では、この内的生活をするかどうかで大きく変わります。このことに気付いた時に、私は何か目の前が開けるような思いに包まれました。外面だけを鑑みれば、用便も見られ、プライバシーもなく、人としての尊厳は奪われていますが、内的生活さえできれば悪い環境ではありません。
 ただ、受刑者は、内的生活の観念がない者ばかりであり、周囲に流されているうちに歳月が流れます。

 特別少年院に送られてから約40人の特別生と生活を共にした事になりますが、集団寮にいる頃に生活状況を覗い知れたのは約30人ほどになります。他の約10人は私が単独寮に移ってからやってきた少年らや入れ違いで仮退院した少年、医療少年院で覚醒剤の後遺症治癒を経て移送されてきたらしい少年、余罪が発覚後に再逮捕のため出ていった少年など僅かな日数を共にしたので参考にならない少年達です。
 その約30人のうち著者のいう内的生活の観念がない者に含まれるであろう少年を数えてみると7人でしょうか。その基準としたものは『他生に対し暴力・脅迫・威圧を用い必要以上に構う少年』を指しています。
 私語による他生の集中阻害を省いた理由については、著者自身も本書の中で、他の無期囚と会話を交えて得た感想を多く述べている事から、平等性を保っています。同じ空間にいて会話するという現象は、私語が禁じられた中に在って、ほぼ全員に見られたものでしたし、仮に他の少年院で入院から仮退院まで一貫して私語が無かった少年少女は素晴らしい快挙と感じます。

 著者と私は単独室の生活を偶々行えたようなもので、必ずしも単独室で生活したいと思っても思うようにいかない場所が少年院や刑務所です。問題は社会では環境を自ら変える事が可能ですが、少年院や刑務所という場所は閉鎖社会である上に、行動制限がつきまとうので、同時期に悪影響を及ぼす発生源に直面すると反省どころではなくなってしまう難しさが生じます。

そういった特殊環境の中で日々生活を送る訳ですが、少年院に送られてから強く感じたのは、どんな劣悪な環境や過酷な中でも人間は気づくと適応していくものだと思い知らされます。厳しい体育や人間関係、自由の制限など慣れた頃には当たり前の環境となっているのを感じた時、なぜ社会では無理だったのかと考えていました。環境は自ら変えられると自覚していながら。一つに少年院の法務教官のように軌道修正役の存在は大きすぎると感じられてならないです。

だからこそ広島少年院の法務教官の事件はショックが大きかった。不幸にもあの時期に直面していたらと思うと辛いものがあります。正直、特別少年院の法務教官と接してから、大人にこういう人が一人や二人じゃなく沢山いると知れただけでも少年院に送られた意味は大きかったです。惜しいのは社会で会えていれば、場所を選ばず堂々とそういう大人がいたと話せていた事でしょうか。広島少年院の件で逮捕された法務教官の中に、初等少年院の矯正プログラムに貢献された方がおられたはずです。本当に残念でなりません。

再犯状況

著者曰く127頁、

私は、いつも考えてしまうのですが、30年間という長い期間にも拘らず、自分を省みることなく、変えることすらなかった人生とは何なのでしょうか。もしかしますと、それが罰ということなのかもしれません。


 この言葉を考えていると、特別少年院で共に生活した者の中に無期となってしまう少年は出ないだろうかと考えさせられます。
正直、特別少年院で一緒だった約40名のうち刑務所に行ってしまった少年が10人ほどいます。中等の顔見知りを含めると約20人、そのうち指名手配者1名、長期(8年以上、現在長期は10年に引き上げ)の服役となった者が2名で内1人は仮退院時も未成年でしたが逆送され5年以上10年以下の不定期刑となってしまいました。

ある時期、どこぞの少年刑務所が特別少年院の同窓会状態となっていたと耳に入り、特別少年院はやはり一筋縄でいかないのかなと思ったものですが、いよいよ指名手配が出始めた時にはいてもたってもおれず、PCにデータ化した上で何が原因であるのかと考えていました。

一つに再犯者の多くが累犯である点と居住環境周辺に変化が見られず悪い交友関係が継続していた点が挙げられます。さらに少年刑務所を出所後に刑務所に現在服役中の者が把握している限りで2名で、うち1名は逮捕後に知り合った悪仲間と再犯に至ります。

 更生率が9割と評判だった中等短期少年院では、同じ寮の再犯者は私(特別少年院送致)、A(特別少年院送致)の2人で、ただでさえ再犯率の低い少年院から特別少年院送致が2人も出てしまい、先生方に合わせる顔が無かったです。

 そこで振り返ると、中等短期に送致されていた頃は自分自身と向き合うという意識が薄かった事は強く感じさせられ、同時期に入院していた他の少年2名と馴れ合いとなっていました。
 今、少年院にいるというよりも高校の合宿のような環境に身を置いているという中途半端な意識があった。よくこの少年院を「高校の合宿」と例えていて、PL学園の寮の話を聞いていると世話役制度があったり、そういう感じなのかなと勝手に想像していた事がありました。
 また比較的改善更生が容易と判断されていた訳なので、危機感がまったく無く、その後に改善更生が難しい少年の多い特別少年院に送られて初めて危機感を募らせたのは確かです。

 本書を読むと著者の弁は非常に的を射た指摘も多く散見され、刑務所と少年院の違いや娯楽の必要性に対する捉え方の違い、著者は終身刑否定で私は終身刑肯定など違いも勿論ありますが、終身刑制度については非常に勉強させられました。
 
著者も私も終身刑の導入によって刑務官の負担は計り知れないだろうという理解と、一部に反省と無縁な者が残念ながら確実にいるとした上で、著者はそのような者に終身刑を科せても「反省」しないので無意味と述べ、私は終身刑の最大の意義とは「反省」ではなく「隔離」にあると食い違います。

冒頭で結論が見つからなかった「反省」について、私の終身刑肯定の根底には、その期待性を放棄しているとも言えます。

つまり終身刑を言い渡された人たちは、「あなたらに反省なんて期待していないから、死ぬまで社会に出てこないでくれ」と宣言された事になってしまいます。

私は本書を読んで感じたのは、著者が刑務所の中で「反省」なんてどうでもいいと考えている者ばかりで、というだけあって「刑務所」とはここまでの有り様なのかと愕然とさせられました。
 これまで刑務所の受刑者については経験者から話を聞ける環境だった頃とドキュメンタリー番組、BBS会員だった頃に研修会で現職から少し触れた程度でした。

そして著者の161頁の弁に言葉を失います

もっと具体的に言いますと、反省している者は一、二パーセントというのが、せいぜいです(二は多すぎるかも知れません)

ここまで読み進めるまでに、私はこの本を2回読んだ事になりますが、この人物が本書で記載している内容のところどころには少年院と刑務所の差こそあれ、私が少年院で実際に感じた事が幾つもありましたので、著者が仮釈狙いやら見栄から事実をそこまで歪めて書いているようには思い難くなっていました。
 当初、私はこの人物は自分を差し置いて他人が反省していないと捲し立てる事で、仮釈放の一縷の望みがあるのではないかとも疑いました。確かに嘘をつく人の中には鮮やかなまでに並べ立てる人がいるものですが、著者が書いている内容については強ち的外れな事を述べていないと感じたのです。

そうすると、この反省していると感じられた一パーセントという数字がどこまで信用できるのかと思いました。

私が刑務所に入って見てくる訳にもいきません。
そこで実際に入った少年院に置き換えて、私が著者の「反省していない」に当てはめた数字が、前述した「内的生活の観念が無い者約30人中7人」だったのです。

また、著者が各章で多く述べていたことの一つに「教化の重要性」が挙げられます。ここは少年院とはやはり大きな違いに思え、教育主体の少年院の強みだと感じました。

そこで刑務所内の矯正プログラムの充実について考えると、少年院の中には沢山の有効手段のヒントがあると思えてなりませんでした。

いくつか紹介します。

ロールレタリング(往復書簡)
私が少年院の矯正プログラムのうち、自分自身とても効果を感じたと思う上位に来る取組みがこれで、簡単に述べると手紙のやり取りを一人で予想しながら行うものです。
中等短期と特別少年院の両方でこのロールレタリングを行いましたが、手紙を送る相手として被害者や家族を想定します。
ここで重要なのは一人の検閲者を置く事で、私の場合はもちろん法務教官でした。
喧嘩で相手を傷つけた傷害犯なら傷つけた相手へ、窃盗犯なら大事な物を盗まれた相手へ、暴走族の少年なら地域住民を想定、薬物犯なら薬物で逮捕された事で悲しませた相手、生命犯なら遺族、ぐ犯なら親兄弟といったように迷惑をかけた相手に対して送らない手紙を書きます。次にその手紙を読んだ相手の心情に想いをよせながら返事を書きます。
途中、検閲者である法務教官に助言されながら、一方的な押しつけ感情であるとか、相手にその言葉を投げかけるとどう思うのか、と考える訓練になります。
私は正直このロールレタリングは、矯正現場のみならず、色んな各方面で実践されると、一定の効果が見込めるのではないかと期待してしまうほどよく出来ていると感じました。

問題群別指導
これは簡単にいうと「学校の授業」です。
ただ科目が異なり、社会にある小中高などでは「国語」「数学(算数)」「英語」ですが、私がいた中等短期少年院だと「対人」「交通」「薬物」「性」でした。
学校の全校集会のように、全寮が各科目に別れて並びます。
これらはそれぞれの非行事実に基づいて、法務教官から「お前は覚醒剤取締法違反だから薬物」「お前は暴走族で迷惑をかけてきたのだから交通」という風に入ってすぐの考査生から集団寮へ移るまでに知らせてくれました。

各科目の特徴を述べると、

①対人 主に傷害罪、傷害致死罪、恐喝罪、放火罪、詐欺罪、強盗罪、強盗致傷罪などの少年で全院生の半数以上がここにいました。人付き合いする上で想定される様々なトラブル回避や悪友から誘われたときの断り方、カチンときたときの感情コントロールなどを学びました。いわゆるソーシャル・スキル・トレーニング(SST)もここで実践されていて、院生が教室前の黒板の前で寸劇のように悪友役と断る役を演じさせ、その対応について法務教官の指導を交えながら参加した者同士で議論しあいます。私はこの対人に振り分けられていました。

②交通 主に道路交通法違反、業務上過失致傷がほとんどで、当時は危険運転致死傷罪が設置されておらず、交通事犯で送られてくる少年の殆どに「業務上過失致傷罪」という罪名を見ました。私の中等短期の特色として「導入集会」というものがあり、罪名が全てここで寮生に明かされます。中等短期に送られてくる生命犯は少数いましたが、その中で「業務上過失致死傷罪」の少年が他の寮にいて、意見発表会で非行について述べていましたが、乗車定員オーバーの車を走行中に追突事故を起こし、運転していた少年を除く4名が死亡した事件でこの少年も「交通」に振り分けられていました。他には暴走族の少年が多いです。暴走族であっても対人に問題が多い少年は対人に振り分けられていました。

③薬物 主に覚醒剤取締法違反、毒劇物取締法違反が多く、少数に向精神薬取締法違反まで付いている少年がいました。毒劇物取締法違反はシンナー少年で、殆どは覚醒剤でした。私がのちに入る保護施設では「断酒式」というお酒の失敗談を話し、酒を断ち切る行事がありましたが、それに近いのではないでしょうか。薬物の害悪について説明されたりだと思います。

④性 主に強姦罪(現行の強制性交)、強制わいせつ罪でしたが、児童福祉法違反(援助交際の仲介役)もいた筈で4つのうち最も少なく5、6人が並んでいました。

特別少年院ではこの問題群別指導を科目ごとに分けず、全特別生を教室ほどの広さのホールに集め、前のホワイトボードを使い授業が始まります。ほとんど対人の内容でしたが、薬物と交通がまれにありました。特別生に性犯が一人もいなかったためか性に関する授業については知りません。
特別少年院は科目ごとに分類しないんだなと感じたものですが、考えてみれば特少に至るまでには多くの要素が絡む少年も多いでしょうから、そうなるのかも知れません。

生命犯の生活状況

生命犯の少年は命日の度に「命日内省」という内省の時間を申し出る事があり、それだけ考えなければなりませんし、真剣に考える上で乱れた生活をしていられなくなります。
普段、適当な生活を送っている中で反省の念をいくら述べようと嘘偽りですし、例え法務教官を欺けても本人自身には嘘がつけなくなります。

すると必然的にも院生活に取り組む姿は真面目となる中で、それを「良い子ぶっている」と勘違いする少年が出てきてしまうもので、

本書42頁にて著者は収容中の刑務所で似たような事を述べています。

刑務所では、同囚が真面目になろう、反省しよう、更生するんだ、という意志を持つことに対して、自分達の世界から抜けるのかという見方をするのが一般的です。
今から真面目になってどうするんだ、いやなれっこないさ、という言葉と共に非難と嘲笑の入り混じった視線を向けます。
同囚がまともな生活を志向することについて、内心では嫉妬の心理も働きます。そのような空気に支配されていますから、刑務所では、どうしても倫理観等を考えるようにはなりません。

私はこの部分を読んで共感を覚える部分があります。
私が最初にいた中等短期少年院は「比較的改善更生が容易」と判断された少年が多く、次に送られた特別少年院は「心身に著しい故障のない犯罪傾向の進んだ」と判断された少年が多い訳で、温度差が全然違います

私が特別少年院にいた際、短期経験者が少ないと感じたもので、特別少年院にいた全期間を通じて特別生約40人中、短期経験者は私を含めて3人のみでした。(中等生で短期生を認知したのは1人だけですが、もっといる筈です)
少年院2回目、3回目、4回目の少年のほとんどが長期経験者で、4回目の少年3人に限っては相当長期処遇の勧告が付いていました。

すると中等短期少年院では比較的、暴走族や暴力団の準構成員の少年らにしても真面目にしようという姿勢は顕著に見られましたが、特別少年院というのはやはり雰囲気が短期とは異質で、姿勢がはっきりと別れていた気がします。ですのでLBにいる著者がいう「真面目に向き合う者に対する抵抗感」は確かにあったと共感させられます。

特別生に一人、端から「更生しません」と法務教官に堂々と宣言していた少年がいて、本人は強がっているというより本気でどうでも良いと考えている様子で、特別少年院には難しい少年が多い中でもここまでの少年は珍しい部類でした。堪らないのは、「ここを最後にやり直そう」「こんな事ではダメだ」「真面目に生き直す」と考えている少年たちと法務教官です。本人的に「少年院にいる時間が無駄」と考えているため、規律違反に対する抵抗力が皆無でした。違反名を挙げても、
・拒食(食事をわざと食べない事は健康管理に関わりますので、少年院側は困ると知っている)
・不正交談(私語は禁止)
・不正連絡(院生同士で連絡先を伝えあう事は禁止)
・抗弁(法務教官に反抗する事ですが、いき過ぎた反論レベルでもなる場合があります)
・騒音発生(ドアや机を蹴ったりして静音を阻害する行為)
彼は結局、別の特別少年院に不良移送されて行きました。

そして現に、真面目に向き合おうとした少年でイジメの標的となってしまったのが、強盗致死罪の少年Aのケースがあります。

彼は私が特別少年院に送られた時には既に1年以上経過していた少年で、言葉遣いがとても丁寧かつ謙虚で、不正の輪に入らないように距離を保っている様子が顕著でした。
 私が集団室に移った当初、寮内のボス格である上級生が2人いましたが、そのうち1人の少年と同じ部屋となり色々と教わる事になります。

内容として、どの先生が当直の時は巡回が多いので気をつけた方がいいや、どの先生は成績の付け方が厳しいなど先生に対する注意事項の他、どの少年はすぐにチクるので同じ部屋となった際には要注意といった寮内事情を吹き込まれる訳です。その最重要注意とされていた少年が強盗致死のA君でした。他に私が中等短期少年院で一緒だった少年も中で他生と距離を取っており、強盗致死のA君と行事等で一緒にされる事が多かったため、法務教官はよく把握していたと感じます。

私が集団寮に来て4回目の部屋替えだったでしょうか、私と多額窃盗の少年と強盗致死A君が同じ部屋となりました。

 事前情報から強盗致死A君を警戒し、A君がトイレに入った時やホールに出ていった時以外は私語を交えずに様子見していましたが、テレビ視聴の時間となり3人でテレビ前にパイプ椅子を置き視ていたところ、A君がぼそりと一言「可哀想・・」と発しました。テレビの内容までは覚えていませんが、言葉の通り何かしら可哀想な話で奇跡体験アンビリーバボーの感動物だったかも知れません。その際、私は率直に(A君でもさすがに喋るのだな)と感じました。
 以前いた中等短期ではこの時点で「不正交談」という規律違反となりすぐに調査や反省となりますが、特別少年院でも私語は禁じられていたものの、「不正交談のみ」で調査となる事が殆ど無かったように思え、「生活態度不良」という違反名で調査となった少年が数名存在しますが、その中に私語も含まれている感じでした。それでも「誰々が喋っていました」と報告されれば「成績」を付けられる際に「生活態度」の項目が標準の「c」から「d」やよっぽどの時には「e」を付けられますので、強盗致死A君としては不利な言葉を発した事になります。

 その翌日だったと思いますが、私と多額の少年はA君がいない時に「A君って聞くほど悪い人では無いね」と言い合った筈で、寮内で言われているほどA君が悪い少年とは思えませんでした。(今振り返っても足を引っ張っている方こそ悪い訳で、A君は落ち着いた院生活をしたかっただけだと感じられてならないです)

 ただ一つだけA君のやり方が不器用と感じたのは、「個人名を挙げての報告」が多かった事でしょうか。

私は自分の中に明確なルールがあって、原則として他者を名指して指摘しません。
例外があるのは「自分自身に被害を受けた時」です。なので集団寮の規律を正してほしいと感じた時でも、誰々が裏でこんな事をしているという言い方をせず、「集団寮の空気が悪いので、監視を厳しくして下さい」や前述したように「特少はもっと厳しくしてほしい」という言い方に留めます。

というのも、少年院で嫌われる事の1つが「チクリ」でしたが、中等短期少年院にいた頃、少年に一人なんでもかんでも集会で他人を指摘し倒す少年がいました。

私はその様子を見て率直に感じたのは模範生を通り越して「点数稼ぎ」として映り、「他人の事よりも自分自身の事をもっと考えるべきだ」と感じたものです。

何でもかんでも報告する本人にとっては「良い事」をしていると信じてやっているのでしょうが、法務教官の立場から考えてみると「他人の事にはよく気がつくが、自分自身については全く見えていない」と取られかねません。

そこで強盗致死のA君に話を戻すと、悪循環に陥っている様子が窺えました。

①他生がA君へ舌打ちや口撃を行う。
②自分が被害を受けた事で他生を名指しする。
③名指しされた少年らはA君への舌打ちや口撃を停止する。
④少年らはA君を相手にしなくなる。
⑤A君が他生の不正を発見して先生に名指しで報告する。
⑥また①に戻る。

この繰り返しでした。④の時点でA君は必要以上に他人を指摘するべきでは無かったと感じてなりません。
寮内に不正が蔓延って空気が悪くなることで、自分自身の反省まで阻害されるのであれば「内省を深めたいので単独寮に移して下さい」みたいな言い方が出来たと思います。

それでもA君の立場として、事件について内省を深める必要があるのに、適当に生活している連中のせいで集中できない。いい加減にしろ!と憤る気持ちがあったなら理解してあげたくもなります。

少年院と刑務所

さて、現在も無期懲役囚として服役している著者の刑務所と私が生活していた少年院の違いは何でしょうか。

私が特別少年院に送致された当日、新入時教育寮のレクリエーション室にてM法務教官からこう問われたました。

「今日からあんたは少年院で生活する事になったけども、そもそも少年院と刑務所の違いはなんだ?」

私は刑務所は刑に服する場所で、少年院は教育を受ける場所と答えたところ、法務教官にそれだとサンカクだと言われ、他にも存在意義があるだろうと詰問されました。

結論として模範解答とされたのは、「刑務所は刑罰を主体に加害者を隔離し懲らしめて反省を促す場所」で、「少年院は矯正教育を主体に加害者を隔離し情操を養いながら反省を促す場所」と説明されます。

その際、私は疑問に駆られ「刑務所では矯正教育を受けさせずに社会に放り出すのでしょうか?」と質問しました。
改善しないまま無碍に時間だけを過ごし、社会に出せば再犯率が高くなるのではないかと素朴に感じたからです。

法務教官曰く、刑務所でも矯正教育は実施されているが教育主体の少年院とは雲泥の差だと言います。

私が社会復帰後にいた保護施設では少年刑務所から来た人が何人かいましたが、中での様子を聞いている限りでは、体育が厳しいとか若い受刑者が多い分秩序の面で大変だったという話ばかりで、矯正処遇という申し分程度の矯正指導はされている様子でしたがピンと来ていませんでした。

また一人の少刑出所者は私と年齢が1歳しか変わらなかったので、私が「たった1歳違いで少年刑務所と少年院に別れるんですもんね、少年院の方が教育が整っている分良かったでしょう?」と問うと、「いやあ少年刑務所で良かったです、今更教育されたところでどうしようもない状況まで自分は来ていたので、少年院みたくごちゃごちゃ言われない分は少年刑務所の方がマシでした」との事だった。
私と考え方が真逆でしたが、割かしそういう人もいて、前科が付いてもいいから少年院より逆送してほしいという人は何人か目にしました。
判例も一つ出すと、昭和58年12月16日に高松高裁で審理された「昭58(く)31号」では2回目の特別少年院送致になった少年が、成人並に処遇してほしいので逆送してくれと抗告しましたが、高松高裁は棄却しました。
大方、逆送後の執行猶予見込みを狙ったというのが本心だと思いますが...特別少年院を不良移送無しで2回というのは珍しいと感じます。

 2000年の少年法改正に伴い『原則逆送』が設けられ、私が特別少年院送致の決定を受けた時には少年事件に対する厳罰化真っ只中にあり、有名無名を問わず送られた先の少年院には『刑事処分相当』の意見書が付いて免れた少年が多かったです。

相当長期の処遇勧告が付けられた者のうち、刑事処分相当の意見書が付いたのは認知しているだけでも特別生に強盗致死の少年、ゴスロリ事件の少年、民家包丁強盗の少年、連続タクシー強盗の少年、一回目で特別少年院送致となった殺人未遂の少年や強盗致傷の私らのほか、中等寮には傷害致死罪で相当長期による少年が刑事処分相当であり、実際に逆送されたものの少年法55条により移送され中等少年院送致となった少年がいます。
 この他に刑事処分相当の意見書の有無が分からないものの、生命犯である事は分かる少年に

・中等生甲
 →面長でメガネをかけた4年半設定。私よりかなり以前から中等寮にいた少年。真面目の部類ではないが不良少年タイプではない。たまに信じられないミスをして反省となる。私と接点なし。
・中等生乙
 →体格がふくよかでメガネをかけた3年以上。私より数ヶ月ほど早く少年院にいた。大型特殊免許の受講生の1人に選ばれ、他の少年院に一時移送されてから帰ってきた。真面目な部類で少々暗い印象があった。規律違反は特にない。私と接点なし。
・中等生丙
 →体格普通で歯が悪く、G3課程。私より約1年以上後に入院し、私の2回目の新入時教育で一緒だった。不正は無かったものの新入時期に整理整頓が出来ておらず反省となった。
・中等生丁
 →体格普通で幼い顔をした少年、G3課程。私より約1年以上後に入院し、私の2回目の新入時教育で一緒だった。この少年ともう一人の少年と私の三人はとても仲が良かった。ちなみにもう一人の少年は後に殺人罪となり逆送されてしまうが、被害者から加害者へと発展してしまったケースだった。

逆送されるからには次の要件を満たす必要があります。

①少年法第20条第1項および第2項による逆送
 →罪質や情状から刑事処分が相当と認められる少年
(故意による被害者死亡事件については原則逆送)
②少年法第19条第2項、同法第23条第3項による逆送
 →少年審判までに20歳を超えた年齢超過少年

ここで本題の生命犯が反省していなかったかについては、私は見る限り一概にそうとは思えません。
少年院に収容されている少年が、自身を省みるという意味の「内省」についてはあったと感じます。それは自発的に命日内省に入る者や、法務教官から課題として半強制される日課の1つとして、また私自身が中で自己と向き合う事は確実にありました。しかし、それが本書の指す「反省」であると断言する事は難しいと考えます。
冒頭で述べた通り、反省について考えれば考えるほど、あれは反省だったのだろうかと深みにはまる思いとなり、「継続された内省」を持続させる状況を「反省している」と言うのだろうかなどと堂々巡りする思いです。

ここでは、見た限りを幾つか事例として示します。この記事を書き始めた当初は、特別少年院にいた当時を焦点に絞ろうと考えていましたが、中等短期少年院や社会にいる頃に感じた「生命犯」についても、考える上で重要となると感じたため追記します。


事例① 傷害致死の少年Aの場合


少年Aとは入院日が近く新入時教育から一緒でしたが、他生と慣れ合う事は一切なく、他生がちょっとふざけているのを目にしてもそれを報告すらせずにひたすら自分の生活を黙々と続けている少年でした。

A君としばらく生活していると、「ああ、この子は少年院が初めてだな」と感じる瞬間が幾つかありました。

新入時寮で、少年院が初めてに多く感じたのは、
①初めての不安から猫を被って様子見するタイプ
 →見抜いた先生が揺さぶりをかけてボロが出る
②少年院に来た以上は徹底的に頑張って早く出ようという意欲に溢れ、返事の声や動作がハキハキしているタイプ
 →新入時寮と中間期寮との温度差に苦しむ

新入時寮で、少年院経験者に多く感じたのは、
③前の施設を基準にしてなるべく叱られないようにうまく立ち回ろうとするタイプ
 →余裕が変な慣れとなった時にボロが出やすい
④前施設より1ランク上に来ているので、最初に舐められたら終わりだと肩に力が入るタイプ
 →中間期寮に移ってから上級生に目をつけられやすい

そしてこれらの特徴が強ければ強いほど、集団寮に移ると一気に化けの皮が剥がれて反省や調査で戻って来るケースが多かったです。もちろん、これらのタイプに属さずに程よい加減を心得ている人も沢山いました。

A君は事実、少年院が初めてでしたが、彼を見ていると変に猫を被るとは違って、ひたすら自分の殻に閉じ籠っている感じがする独特な雰囲気のある少年でした。なにか心を閉ざしている感じでしょうか。
 それでも彼の印象が深くなった理由の1つには、号令時の声や先生に呼ばれた際の返事が人一倍大きくハキハキしており、気持ちの良い少年だと好感を持ったからです。この辺りは②に少し近い部分があったかも知れません。

 私としては非常に親しむべき存在で、少年院とはこうあるべきだという「少年院像」のようなものにピッタリと当てはまる少年でした。少年院に来てまで虚勢をはらず、真摯に自己と向き合い、メリハリある生活を送るという理想像です。

 A君は初めてながら生活に戸惑いつつも淡々とこなしていき、新入生の中では良い意味で目立っていました。
ただ少年院が初めてだからこそ有りがちな不安要素は健在で、「適度な力の抜き方」が無かったため 少年院はそんなに順調に事が進まない場所なので最初からその調子で飛ばしていても、集団寮に移った途端にボロが出たり、他の院生に足をすくわれるのではないかと感じ、そのうち先生が揺さぶりをかけてくる筈で、うまくやっていけるだろうかと思ったりもしました。

 そんなA君が少年院に来てまだ2ヶ月頃のことです、NPO法人犯罪被害者の会アピュイの飯島京子さんが講演に来てくださいました。その日、テレビ局が入っていました。

飯島さんは最愛の息子さんを少年らに殺されてしまったお母さんで、胸に息子さんのバッジを付けておられました。

講演では息子さんとの思い出に始まり、亡くなられてから心に大きな穴があいてしまったような虚無感、事件後から今日に至る加害者の様子とその失望、そして私たち少年院に収容されている者への切なる願いなど、時間にしてどれほどだったでしょうか、大変重く辛い時間に感じました。

講演の終盤に差し掛かった時です、私の座っている新入寮の中から鼻をすするような音が聞こえると、時間を追うごとにその音が大きくなり、新入寮の誰かが泣いていると分かり始めました。

講演中には他の集団寮の少年ら数名も泣いていたように思いますが、少年院という場所柄なのか喜怒哀楽の表現を圧し殺す少年も多くいたように思え、私が集団寮に移ってから他の院生の中に「あの時は泣きそうになった」という少年が数名いましたので、心に響きながらも堪えていた少年はいたはずです。

そんな中、新入寮の少年は少年院に来て月日が浅い分、これからの緊張から来る不安や入りたての遠慮であるとか、はたまた片意地を張ってしまうところ等が顕著な時期でもあり、自由な感情表現が難しい状況の子が多いように感じていました。

講演が終わり、院生側からの質問に飯島さんが答えて下さる事になり、集団寮の方からポツリポツリとまばらに手が上がり始めます。この時も講演内容の重さに絶句しているのか中々手が上がらず、法務教官が見かねて私たち院生に促したほどでした。

一人、二人、三人、四人と新入寮以外の全ての集団寮から質問が寄せられると、飯島さんが一人一人に精一杯の気力を振り絞って答えておられました。

そして法務教官が質問を締めようとした頃、私の前から一人の少年が意を決したかのように挙手しました。A君です。

A君は立ち上がると暫く言葉が出せずに嗚咽し、飯島さんが少し驚かれているかのように私には映りました。A君は泣きながら「すみません」と言いつつハンカチで涙を拭い息を整え、「もし、息子さんを殺した加害者の少年が謝りに来たら、何と声をかけますか」と質問しました。

この時わずかの間が訪れ、飯島さんは一言「頑張ったねって」と返答されたように思います。この言葉が出るまでにどれほど飯島さんの中で葛藤されたかを想像します。飯島さんは事件後に加害者の少年たちと直面した際の失望についても述べておられましたし、金スマだったかは曖昧ですが直面当時の音声も耳にした覚えがあります。少年事件の加害者側である私ですら飯島さんの無念は感じ取れるものでした。
それらを踏まえると、飯島さんの講演でA君が質問した『加害者が謝罪に「自発的」に訪れる』という姿勢は、加害者にとっても勇気がいることであると共に、被害者側のご遺族の中には『大きな第一歩』として受け取って下さる方がおられると知りました。「頑張ったね」の言葉の中には、相当なまでの解消されないままの思いが込められている事も感じます。

A君はその言葉を耳にすると嗚咽の声が感極まったかのように、一言「ありがとうございました」と述べ、席に座りました。

 講演があった日からしばらくしてA君は新入寮から中間期の集団寮へと移りました。新入寮での彼を見ている限り全力投球なところもありましたが、集団寮で戸惑う事はあっても大きな事故は起こさないだろうと感じていました。
A君が新入寮を去ってから1ヶ月ほどして、私も集団寮へと移ります。A君は中等生で私は特別生なので寮は別ですが、朝の朝礼や実科に向かう際にはお互いに姿を見せるので様子がわかります。A君は相変わらず順調そうに見えました。

私が集団寮に移ってから4ヶ月後、私のいた集団室が丸ごと調査となり、集団室にいた全員が単独寮へ移されます。
 
 この単独寮は中等生と特別生が混在している寮で、以下の身分が共存しています。

①新入生(少年院に入りたての者で新入寮が定員オーバー時)
②内省生(被害者の命日が近い者や自己の問題に向き合う者)
③反省生(規律違反までに至らない生活怠惰など)
④調査生(規律違反の容疑があり調査中の者)
⑤謹慎生(規律違反の結果、謹慎処分を受けた者)
⑥休養生(風邪などで一日中療養し寝ている者)
⑦夜間単独生(集団寮が定員オーバーで就寝にやってくる者)
⑧昼夜間単独生(個別処遇が必要な者)
⑨待機生(委員面接、篤志面接、収容継続審判、大型特殊取得のため移送待ちなど)
⑩出前準備教育生(社会復帰2日前の者)
この他に、1人も存在していませんが「少年院収容受刑者」もこの寮を使用します。(=第4種少年院の収容先の1つ)

私はこの時④の調査生の身分でいました。(後に⑤→⑧)
調査生は朝の起床後に朝食を終えると夜の就寝準備まで一日中、正座か安座(ヨガでいうスカーサナ)で壁を向いて座り続けます。
 
 そんな調査中のある日の昼食前のことです、突然窓外から大きな怒鳴り声が聞こえてきました。私はすぐにこの寮へやってくると感じます。何か起きれば連れて来られる寮ですし、この寮にはたった一つの保護房が存在します。

案の定その声は次第に近づいて来て、複数の先生がその近くにいる事まで雰囲気で分かり始めると、私のいる寮の扉が開きました。私がいる単独室からわずか数メートルの距離の廊下でやり取りが始まります。

どこかで聞き覚えのある少年の声で、「よってたかって取り囲んでそれが大人のする事ですか!」と少年が言うと、I先生やM先生が「お前がそんな大きな声を出すから先生らもこうしなければならない」と説明し、すると少年が「そのカメラは何ですか?僕は暴れていないのに!」と言うと、先生が「これは必要だからしているんだ!」とどちらも譲りません。

 私は少年院にいて感じたのは、少年の社会での様子が掴みやすいのは入りたての新入生の頃でしたが、時期を問わずに少年側の心情が不安定となった際にも色濃く素が現れると思え、一つに感情の抑制が効いていない時でもあるため、少年が社会にいた時の様子が垣間見えると感じたものです。それは様子のみでなく、方言や些細なイントネーションからある程度の居住地域が絞れる場合があったりと、それほど少年側にとって無防備となる時でもありましたので、法務教官にとっては少年が内面に抱える本音や悩みを引き出せる瞬間であるかも知れません。

 しばらく言葉による応酬が続いたあと、何かがカランカランと床に落ちる音と共に、法務教官の「拾え!」という怒鳴り声が響き渡りました。あまりの騒ぎに新入寮の寮主任先生まで駆けつけて落ち着かせようとします。
先生方によって叱り方や落ち着かせ方が色々とあるのですが、この時、寮主任先生は一つ一つ説明を始めていきました。

 先生「カメラで撮るのはお前を守るためでもある、そして先生らを守るためでもある。どういう意味か分かるか?」

という感じに問いかけていき、少年に考えさせようとしました。激昂している相手は冷静さを失っているため、考える余裕が無いように思いますが、怒り狂う相手と面する際にこちらも同じように怒鳴るのみだと売り言葉に買い言葉で噛み合ってしまうため、状況が持続してしまう場面は見ました。
 この時、少年は若干声を落としながら法務教官に何かしら返答し、寮主任先生はカメラ撮影の意味について説明されました。先生曰く、昔ある法務教官が少年に対して「頑張れよ」と肩を叩いた事が裁判にまで発展したらしいです。
 その頑張れよ事件が起きてから法務教官と少年の双方を守るためにも、必要に応じてカメラで状況を撮影するマニュアルが組まれたとの事です。
 すると少年も納得したのかカメラについては何も言わなくなりましたが、続けて先生らは「おいA、新入時教育の頃はあれほど頑張っていたのに何があった?」「ここで終わってしまうのか?」と問いかけると、少年は堰を切ったように感情をまくしたてました。

A君『もう僕を放っておいて下さい!』

先生「放っておけんから必死で言うとるんやろが!」

A君『僕はやっぱりあのまま刑務所に行くべきやったんや!』

先生「それでもお前はここに来たんやろが!」

A君『逆送されるべきだったんです!』

先生「何を言うとるんだお前!裁判官はお前が刑務所に行かんでも十分に少年院でやれると信じたから、お前はここに来れたんだろ!今吐き捨てた言葉は先生聞き捨てならん!」

ここでA君である事を知りショックでしたが、少年院に来た以上は失敗も経験しながら気づいた方がいい場合もありますし、社会で失敗=再犯に至るぐらいなら尚更少年院でもがき苦しんで成長した方が良い事もあるとこの時に感じました。またA君と先生のやり取りを聞いていると、自分自身も刑事処分相当の意見書が付きながら特別少年院にいるのに、今私は調査中という有様に何をしているんだろうと思えてなりませんでした。

途中で昼食を運搬する台車が到着し、昼食開始が30分以上ストップしてしまった事で、A君の寮の先生が私たち一人一人に対し食器口から顔を覗かせ「食事遅れてすまんな、許してやってくれ」と頭を下げて回られ、台車到着して間もなくは(スープが冷めるだろうな...)などと浅はかにも頭にチラついた自分を恥じ、この時には「思う存分徹底的にやって下さい、気にしなくていいですから」と述べ、目と鼻の先で繰り広げられている状況を前に、調査になってここにいる事は不本意ではあるが、このタイミングで調査になったことは非常に貴重と思えてしまうほど、色々と感じさせられる出来事でした。

ひとしきり感情をぶつけ合うと、A君の泣き声と先生の穏やかに諭す声だけが寮内を往来し、先生は最後に、

「もうすぐ被害者の命日と違うんか」

「亡くなった被害者に今のお前の姿を見せれるか?」

と問いかけると、A君は声を出して泣くのみで精一杯の様子でした。

その後、A君はこの件で調査となりましたが院長訓戒か謹慎2日ほどの処分を受けた後、集団寮へと復寮していきました。調査担当のK先生曰く、命日が近づくと情緒不安定に陥る少年は少なからずいて、A君の場合は命日が近づく以外にも集団寮特有の大変さや、それまで順調に頑張る中、本当に些細な躓きから自暴自棄になるなどが重なった事が原因ではないかと言っておられました。

次にA君を目にするのは「命日内省」の時です。その頃になると私は長らく単独寮にいますが、知る限り命日内省以外にA君を単独寮で目にした事は無かったと思います。


事例② ゴスロリ事件B少年の場合


私が特別少年院に送致されてから1年半から2年あたりの頃です。

当時、私は夜間単独生で新入生の物品点検を任されている頃で、その日は珍しく一気に3人か4人の入院がありました。

これは珍しい方で平均1人から2人の入院が多く、今日は多いので大変だと思いました。新入生が入る部屋にはそれぞれ名札が付けられているのですが、名札が白色だと中等生で赤色は特別生と判別可能です。特別少年院に定められた少年院はどこでもそうだと思いますが、特別少年院送致者よりも中等少年院送致者の方が圧倒的に多いです。
 比率でいうとうちは特別生が20人に対して、中等生は80人を超えています。特別生が25人を超えた時に法務教官が「こんな事は久しぶりで滅多にない」と嘆いていた程で、一番少ない時で特別生が10人をもう少しで切るのではないかと期待したほどで、12人か13人だったでしょうか。この時はとにかく静か過ぎて違和感な程でしたが。

その日は特別生は25人に近い頃だったと思え、名札を一瞥すると「赤札」が2つかけられていました。
(うわ...2人も特別生か)と感じ、同日に複数の特別生が来るのは2回ほどしか無かったように思います。とにかく珍しい事だらけの日でした。

新入寮の一番奥の部屋で物品が揃っているかを点検していると、「入院1名」と声が聞こえました。
 その少年は私がいる一番奥の部屋から1つ手前か2つ手前の部屋に入ると、ただでさえ声が大きいM先生(私の入院日に少年院と刑務所の違いを問うた先生)が後に続き、色々と説明していた。その時に明らかに通常の入院ではないと分かる会話が聞こえてきました。つまり少年鑑別所からでは無いと分かる。

M先生「あんた、ムコウにいた時はどうしてた?」

少年「はい、ムコウとは?」

M先生「○○だ」

それは別の特別少年院がある県名で、この瞬間に(移送だな)と直感し、(へえ、今日は珍しい)と思いながらも、すぐに我に返り(まさか不良移送じゃないだろうな、不良移送なら面倒だ)と溜め息が出そうになります。

移送の種類について少し触れておきますが大まかに別けると

①不良移送 少年院で問題を起こして置いておけない場合です。(逃走や職員暴行、連日暴れるなどして改善の兆しが見られない)

②通常移送 処遇課程変更に伴う移送(帰住地調整が滞り短期から長期なども含む)

③資格移送 特定の少年院で受講できる大型特殊免許、液化石油ガス設備士、ボイラー技士などを取得しに向かいます。

④帰住地移送 帰住地が遠方の場合に出院前教育期間(2日間)前に、帰住地近くの少年院に移送される事があると言っていましたが、例としては少ない気がします。

⑤治癒後移送 医療少年院や病院からの治療を終え、家裁から医療措置終了後に指定されている少年院(初等・中等・特別)へ移送。

すると次に聞こえて来たのが、M先生「○○では大検を取らせて貰ったんだな」であり、当時、大検を取得出来る少年院が少ない頃であり、全国の少年院で取り入れを進めている段階でした。

この時点で不良移送ではないかも知れないと思いつつも、いや資格取得時期だけ大人しくしておいて、取得後に調査になる計算高いのもいると安心出来ませんでした。

どんな少年なのかと思っていると、メガネをかけた賢そうな少年で拍子抜けし、ああ不良移送ではないと確信しました。

翌日の体育でも新入生だと体力が無いので腕立て伏せやサーキットについていけない少年が多いのですが、B少年については体力もついておりこなしていました。行動訓練では前にいた特別少年院との些細な違いを指摘されるに留まります。

B君は元々、医療少年院に送致されていますが、報道機関は「医療少年院送致」と言い切りますが、正式名称ではないんです。「医療措置終了後特別少年院送致」が正確で、他にも大分一家殺人事件の少年が医療少年院送致として報道されていた筈ですが、仮退院後に「特別少年院に移送されていた」と報道されたように、大分一家も同じくです。

 B君が医療少年院にいた頃は私の知人が同時期に同じ医療少年院で彼を見ていましたが、特に暴れたりする等の行動は無かったようでした。

彼は私と設定期間が全く同じで、相当長期処遇の標準から1年多い3年でしたが新入時教育期間を本来3ヶ月(相当長期と比較的長期は3ヶ月、長期処遇が2ヶ月)のところを2ヶ月で中間期寮に移っていった筈で、移送者でも通常通りに移行する事がありますが、新入時期間の1ヶ月を削ってでも中間期教育に充てた方が良いという判断があったのでしょう。

新入時でとても印象に残っているのは、N先生というもうすぐ定年退職される法務教官がおられ、剣道の有段者でした。
 N先生が定年退職される前に剣道を一度だけ私たちに教えていただける機会に恵まれ、竹刀の持ち方から振り方、摺り足などを丁寧に教えて頂きました、その際B君が剣道経験者でとても筋が良く、剣道未経験者の少年たちは連続素振りに戸惑う中、淡々とこなす姿も様になっており格好良かったことを思い出します。

B君なら不正行為に参加せずに中間期寮で地道にやっていくのだろうと思っていたのですが、B君が中間期編入後から暫くした頃にある事件が起こりました。

私が単独寮で就寝後すぐだっただろうか。窓の外から大声で「助けて!!」と声が聞こえてきました。

その直後に明らかに法務教官らが集団で外を駆けていく音が聞こえ、これは何かあったなと窓外を覗くと懐中電灯の照らす灯りが特別生の集団寮の方へ移動して行きました。まるで小さなサーチライトのようです。

どうせ集団寮の連中が殴り合いでも始めたのだろうと思っていると、私のいる単独寮の扉がキィ〜ガチャンと開きました。

ほらおいでなすったと笑いそうになるのを堪えていると、大勢の足音がぞろぞろと聞こえてきます。これは私のいる単独寮の日常でして、調査生はうちに運ばれて来ます。

次に気にするのは何人やってくるかです。私としては調査生に限らずあまり来てほしくはなく、人数が少ない方が快適でした。

1人単独室に入った、また1人来た、3人目、4人目

この時点で集団寮にある集団室が4人定員ですので、一部屋が丸ごと「居室単位」で調査となったと分かります。

特別生の集団寮には1から8までの部屋があり、

①室 集団室(定員4人)
②室 集団室(定員4人)
③室 集団室(定員4人)
④室 集団室(定員4人)
⑤室 単独室(定員1人)
⑥室 単独室(定員1人)
⑦室 単独室(定員1人)
⑧室 単独室(定員1人)

計20人が限界でそれ以上になると夜間単独生として、私のいる単独寮にやってきます。
中等寮は3つあり、4倍の収容量があるのでもっと多い筈ですが、私は中を少し覗いた程度なのでよく知りません。

中等寮か特別寮かいずれの調査であるかは翌日に部屋の前を通れば名札の色で分かりますし、訪問する先生で判別できます。問題は何人やってくるかで、4人で終わってくれと願いました。

すると5人目がやってきました。ここまで来るともう一部屋丸ごと来る可能性すらありますので、諦めの境地で羊の代わりに人数を数えて眠りを誘う心境に至りました。

すると私のいる寮とは別のところでガシャンと音がし、これはかなり多いと分かりました。別の寮のカメラ付単独室に今1人入ったと察しました。

結局その後も後を絶たず、翌朝に寮を出る時にズラッと並んだ部屋の名札を私の一番奥の居室から目で追うと愕然とさせられ、すべて赤札で埋まっていました。

その中でショックを覚えたのは、B君まで調査となっており、やはり集団寮は真面目にしようとしても出来ない場所なのではないかと思った程です。

そしてその日の全寮の人数確認にて、特別生の寮だけポッカリとスペースが空いており、「全体調査」となっていました。

全体調査というのは大きな問題が発生した際に寮全体を調査し、一人一人の関与の有無を調べる事を言います。

私の単独室に特別寮の先生がやってきました。私が再三、特別少年院はもっと厳しくするべきだと言っていた手前、バツが悪そうにされておられ、「ほら見てくださいよ」と言いたいのを堪えて、「○○君やB君は関わってませんよね?巻き込まれたんでしょ」と聞くと、まだ調査を始めたところなので分からないものの、先生もその少年らはおそらく関わっていないと思うと言っていて、結局2日後かそこらで嫌疑なしと判断された先発調査解除組が復寮して行きました。もちろんその中にB君も含まれており、飛んだとばっちりです。

結局ことの顛末はこうでした。オタク趣味の少年が就寝後に同じ部屋の少年から暴力を受けそうになり、慌てて窓を開けて叫んだ。やった張本人は単独寮の1室と5室あたりに分離されており、そのメンツを見てなるほどと思ったのは、私が集団寮にいた頃、別のメガネをかけた少年のみぞおちを殴っていた者だった。

その後、私はB君より約半年先に仮退院となりました。もしかするとネット上で一度会話している可能性がありますが、おそらくそれっきりだろうと思います。

正直、B君がゴスロリ事件の一人という事を知ったのは私が仮退院後の事であり、本当に不思議な巡り合わせが続き、今度は少女側と知り合う数ヶ月前に知ったのです。
私が大学進学の為に中退した高校の卒業資格を取ろうとしていた折、少女とmixiで知り合い、ピンキーストリートという人形や逆転裁判の話をしました。私が仕事と学業の両立が出来たのは彼女のお陰でもあり、その頃はとても落ち着いた生活を送っておられたため、模範となりました。

B君は基本的に他生を構うようなタイプではなかったので、特別少年院は難しかったかも知れません。中等判定の方が向いていたような気がしないでもないですが、中等の口煩く指導されるタイプでもないので、私みたく特別判定からの昼夜間単独生が適していた気がします。


事例③ 傷害致死で特修短期C少年の場合


 C少年と最初に遭遇したのは、私が中等少年院送致の一般短期処遇となる際に収容されていた2回目の少年鑑別所でした。
 このとき私は右翼団体を既に離脱していると虚偽申告し、集団寮へ転室しています。
 転室先の集団部屋にいた一人がC君で、年齢は15歳か16歳だった筈です。ツイストパーマをあてた茶髪の少年で、集団部屋の入口から見て最後尾のトイレの前に座っており、隣にいたホストの少年と非常に仲の良い間柄でした。
 C君はどちらかというと寡黙で自分からは率先して話すタイプではありませんでしたが、他の少年同士が私語をするとC君もニ、三の言葉を発するという程度です。
 集団部屋に入ると「何したの?」「地元どこ?」「誰々知ってる?」という会話は初対面の挨拶のようなもので、留置場、少年鑑別所、少年院でもよく見る光景となります。
 このときC君は「傷害致死」とのみ発すると黙りました。聞き倒すのもあれですので、(ああ、被害者が亡くなったのだな)と察し、黙々と日課の貼り絵を再開しました。

それから数日後の事です、部屋の中でこれまた鑑別所ではよくある話が始まりました。

「少年院に行くかな」「試験観察にならないかな」「保護観察は無理だろうな」「どうせ少年院なら短期がいいな」

このときC君は「試験観察」を期待しており、部屋にいた他の少年らに「人が亡くなっている事件で試験観察なんてまず無理だろう」という雰囲気が漂いました。

 するとC君は言います。「慰謝料の示談も終わった」「遺族に手紙も書いた」

 厳密にはこのときC君はその額を口にしたのですが、その額の大きさは勿論としても、逮捕からヨンパチを経て留置場を満期勾留された後、観護措置で少年鑑別所にいる今現在までの僅か1ヶ月たらずで慰謝料全額(遺失利益含む)を支払い終えたケースというのは初めて聞くものでしたので正直驚きました。

 それでも試験観察はさすがに難しいのではないかと感じていると、C君は事件内容について説明します。概要として、ある日C君は地元の先輩に公園へと呼び出され、一方的な言いがかりによって暴行を受けます。時間にしてはっきりと覚えていませんが長い時間でした。殴る蹴るの暴行を受けている内にC君の我慢が限界に達し、理不尽な暴力に対し抵抗を始めました。反撃に至るまでにはC君が無抵抗で相当なまでにやられている訳で、反撃に転じた際には半ば無我夢中でやり返しており意識が途中飛んでいるように話していました。
 その事件概要がC君の言う通りであった場合、少年審判までに示談が成立しており、また情状の面でもC君には分があると感じられ、もしかすると死亡事件で試験観察処分は可能性がある事例かも知れないと思えてきた程です。

そしてその後、私は中等少年院送致の一般短期処遇を言い渡されます。

少年院に着くとまず7日間は考査生となり、内観テープを聞いたり、「少年院に入院して」「生まれてから中学生になるまで」「本件非行に至るまで」「内観テープを聴いて」等など、一日の日課に沿って生活するのですが、この時に直近に送られて来る少年の中には鑑別所で一緒だった見慣れた顔と再会します。

私が中等短期に送致されてから2、3日した頃、なんとC君と遭遇します。私と目が合うとC君は舌をペロッと出し、無理だったという表情を見せます。

(ああ、さすがに試験観察は無理だったか)と感じながらも、一般短期なら僅か半年ですので、罪名の重さからしても家庭裁判所は温情の決定を出したと感じていました。

すると考査期間のあるとき、先生が入りたての私達に大声で「日課中にちょっとすまんけど教えてくれ!今から名前を呼んでいくから、審判で言い渡された処分を教えてくれ」と言い、なにやら寮の振分けがあるようで、この短期少年院には一般短期寮(原則6ヶ月以内)が3つ、特修短期寮(原則4ヶ月以内)が1つありました。

 共犯関係は別の少年院に分離する事は通例ですが、例えば暴走族やカラギャンの少年らが一斉検挙された後に少年院送致者が多数出てしまうと、少年院を分離させたくても限界が生じる訳です。なのでそういう場合は同じ少年院でも寮を分離し、中等短期の各寮にそれぞれ共犯関係がいる少年もいましたし、特別少年院にも特別生の共犯関係が中等寮にいるケースを見ました。
 なので考査期間の段階でその先生は共犯関係の分離や地元の交友関係などを考えながら一般短期生を確認しておきたかったのかも知れません。ちょうど私と一緒に送致されてきた中の2人は共犯関係でした。

順番に名前を呼ばれて、「一般短期処遇です!」「一般短期です!」「一般短期です!」「一般短期処遇です!」と一般短期が続き、私も「一般短期処遇です!」と続きます。すると2人だけ「特修短期処遇です!」が連続しました。

その時、(いまC君だったよな)と思いながらもはっきりとせずモヤモヤしていると、そのうち各集団寮から新入生用の体操着や帽子やらのサイズが合うかを確かめに上級生がやってきます。

一般短期生は白い帽子、特修短期生は黒い帽子で、このとき、C君が黒い帽子を被って廊下に出たため、L字の角にいる私から姿が丸見えとなり(特修短期だったのか)と確定しました。

考査期間が終了しお互いに集団寮へと去ると、それから暫くは合同体育で一緒になる程度でした。

この合同体育でよく感じたのは、特修短期の体育は一般短期より厳しく見えたというもので、そう感じた理由の一つに特修短期寮の寮主任W先生が事あるごとに一般短期寮を意識しながら大声でこう説諭するんです。

特修短期寮主任「ほら一般短期を見てごらん?お前ら特修短期はそれでいいのか?たかだか3ヶ月や4ヶ月そこらで社会に帰れると思っていたら大間違いだからな」

そして一般短期生が筋トレやサーキットの合間に数分ほど休憩を挟む際、特修短期生もつられて一緒にへたり込む事があり、特修短期寮の主任は今がチャンスとばかりにこう言い聞かせます。

特修短期寮主任「おい、お前ら何を休んどるんだ?おい、笑わせんなよお前ら、何を休んどるんだ、お前らは一般短期と一緒と考えていたら大間違いだぞ」

 そう言いながら竹刀でコツコツとつつき、筋トレ中なら筋トレを続けさせますし、ランニング中に歩きだせば走らせますしと、見ていて厳しそうに見える反面、事情がどうであれ人一人亡くなった事件のC君もいる訳でこれぐらいが普通なのかも知れないと感じながら見ていました。

ちなみに特修短期生はかなり少なく、当時で一般短期生各寮合わせて90人以上の中、特修短期生は5人程でした。少ない時で3人、多い時でも8人ほどで10人に達した事は私がいた中では一度も見ていません。
後に私が送致された特別少年院の特別生より割合として少なかった事になり、厳しい上に人数が少ないというのは正に私の理想となりますから、特修短期処遇を一般短期と同じ期間でいいので送られたかったです。むしろ特別少年院の代わりに特修短期に同じ期間入りたかった。特修短期処遇で特徴的なのが「開放処遇」ですが、確かに寮の前を通ると窓枠に鉄格子が無く、ただでさえその中等短期少年院は塀が存在しなかった(当時)のに、その上特修短期寮は鉄格子も無いのですから(凄い環境だな)と不思議な感覚が芽生えました。

そんなC君でしたが、入院から数週間して調査になってしまいます。合同体育の時にC君と同時期に特修短期生として送られてきた少年の2人が欠けており、確か部屋の中で不正交談と不正連絡(住所)だった筈です。

それからもC君とその少年は度々調査となり、特修短期処遇の4ヶ月を過ぎてもいる古株となっていました。

そして中等短期の中では心に残る大事件の一つが起きるのです。

ある日、少年院で行事がありました。どちらかの時だったのですが、

①試験観察の補導委託先の一つである「はぐるまの家」の皆さんが訪問され、和太鼓の演奏を披露して下さった時
②その少年院特有の行事の一つで、高校の文化祭みたく各寮が食べ物をテキ屋みたいに出し合い、地域の皆さんに食べて貰う時

手紙の内容などから推測するに、①の時だった可能性が高いです。何故ならこの事件の本質は「ご飯」であり、ご飯を入れている「ライスコンテナ」に関係する話ですので、②の記憶だと私達は出店した水餃子を普段仲の悪かった少年ともこの日だけは珍しく和気藹々と食べていた光景が頭に残っていて、ご飯を食べている光景が全く残っていません。
①では「はぐるまの家」の皆さんが各テーブルに分散し一緒に焼き肉を食べたのですが、この日だけご飯おかわり自由で皆が喜んでいた印象が深いので、ご飯に関係するなら①だと推定して話します。また①の時は演奏の照明を調節された関係から薄っすら暗いので、不正がしやすい条件が整っていたように思うのです。

 和太鼓の演奏が終わり焼き肉が始まると、私達寮生のテーブルには一人の少年が座りました。もちろん彼ははぐるまの家に試験観察処分としていますので、「少年院にいる私達」に少し遠慮気味であり、私や寮生のN君らが少年に「遠慮せずどんどん食べて下さい」と肉を進めます。少年は緊張がちに「は、はい」と言いながら箸を進めていましたが、そうこうしている内にご飯のおかわりに向かう少年が出始め、普段は決められた量をさらにハカリで測量し、それを法務教官に見せてから「良し」と言われて初めて配食出来ますので、滅多に無いことです。
さて私も一杯ぐらいはおかわりしておこうとライスコンテナの場所に向かうと、三分の一ほどに減っている訳です。
(おいおい、マジかよ)と苦笑いしながらも、さすがにこんな日は滅多にないのでみんながおかわりに殺到していたのだろうかと思いつつ、ライスコンテナの周りにいた同じ寮の一般短期生も不審がっており、「これ減りすぎじゃないですか?」と言います。このとき、私は週番の頃で週番とは簡単に言うと寮の代表で、先生に言ってほしいという感じでみんな必死です。
 あまりにも不審がる寮生がいる上に、さすがに可哀想になるもので、みんなこの日の楽しみの一つがおかわりだったと率直に思えてなりませんでした。
それにこの当時は別の中等短期少年院が改修工事中のために受入停止していた頃と被り、本来ならうちに来ない2歳ほど幼い少年らが続々と送られていた時期でした。さすがに食べ盛りの若い子らからすれば最悪でしょうし、その残念がる顔が幼い分露骨に現れるので余計に可哀想に見えてくるのです。
 さっそく寮の先生に「先生すみません、ご飯の量が明らかにおかしいので見ていただけますか」と呼びに行きました。
すると、寮生らが「こんなに減っています」「僕はまだ一回もおかわりしていないです」「誰かが三杯ぐらい食べたんじゃないですか」などと必死に訴えかけます。

先生らは腕組みしながら困ったなという感じで、「お前らやっぱり食べたいよなあ?」と言うと、「ちょっと待ってろ調理科に聞いてくるわ」と言いつつ振り向きざまに「でも無かったら諦めてくれよ?」と去っていきました。
 
その時に何人かの少年が言った。「特修短期寮の奴怪しくないですか」「ずっとこっちを覗うように見ていて、僕が来るとサッと向こう行きました」

この言葉を耳にした時に(あっ)と思ったのが、私がおかわりに向かおうと席を立った際に、特修短期寮生に一人、顔がとても幼い少年がいて目があった瞬間に伏せるように落とし、その直後にまたこちらを上目遣いで見て目が合うとそらしました。
元々その少年が特修短期に送られて来た際、(ああ、この子も18-19ではないな、本当ならあっちに送られてた子ぽい)と感じるほど幼い子で、その子は中間少年16-17だったと思うが、下手すれば年少少年14-15歳にすら見えるほどの子でした。
 私達の少年院に本来多いのは年長少年18-19と中間少年の中でも収容中に年長少年に達するだろう少年が殆どで、前述した他の少年院の改修工事に伴い中間少年を受け入れていた訳ですが、一番若く見える子がうちの寮にシンナー吸引でやってきた小学生みたいな容姿と身長の16歳です。
たかだか2歳違うだけと感じるかもしれませんが、この差がかなり深いもので、さすが国は年少、中間、年長と分類している意味があるものだと感じた程です。

うちの寮のT君も、特修短期生の座っている方角を見ながら、私に「僕も特短だと思います」と言い出した。
 ここまで何人もが言うからにはそれぞれが思い当たる節があるのだろうと感じ、先生が僅かに残っていたご飯をかき集めて戻って来た際に事の経緯をみんなで告げると、「特短が?」としばらく考えたあと、「まあいいわ、とりあえずお前ら少ないかも知れないがこれを分けて我慢してくれ」と述べ、茶碗に半分も無いほどの量を分けたあと、みんな渋々と席に戻っていった。

その日の日記記入は相当な寮生が解消されない思いをぶつけていたのでしょう、翌朝の点検集会にてご飯の量が明らかに少なかった事を指摘している少年がちらほら出始め、この話をこのまま終わらせたくないという意気込みがひしひしと伝わってきます。食べ物の恨みは恐ろしいとはよく言ったものです。

私も憤ったのは、少年院に来て少しでも多くのご飯を食べたいという欲望は誰しもあるだろうから百歩譲れても、「特修短期寮」が犯人であるなら許せない話だと憤慨し、(お前ら特短はただでさえ期間が短いのにそんなセコいことをしている場合なのか?)と頭の中で堂々巡りする中、次にC君が思い浮かんで来ると(傷害致死で特短に来ておいて命日そっちのけでメシの心配してる場合かよ)と思い始めます。

特短と一般短期で抗争じゃけえの!とまではさすがに少年院ですので至りませんが、「どうにでもなれ」「とことんやってやれ」という雰囲気が寮の一部に漂い出すと、普段温厚な少年からあまり怒りの感情を表に出さない小学生に見える少年まで不満が湧き起こり、一番怒りに震えていたのはN君という少年だったでしょうか。
この少年は地元の抗争で亡くなったヤクザの親分さんに感銘を受けていた少年で、よく集会で仁義的なことを語っていて、それだけ筋の通らない事は大嫌いだったと思う。

寮主任がさすがに「お前らの気持ちは分かった。本当に特短が犯人ならこのまま先生も終わらせるつもりはないから、今はワシに任せてこらえてくれ」とその場に区切りをつけた。

正直、過去の刑務所の暴動原因などを覗いていると、過剰収容によるストレスから医務の不誠実やら色々と根源が見えてきますが、この時の寮主任先生のように真剣に当事者の間に立って下さって、奔走や代弁して下さると胸のつかえが幾分マシになります。特別少年院でも私が一番驚いた新入寮主任の行動として、院生側から出たある法務教官の不誠実な対応について、その主任は院生に耳を傾けたのちに「それはその法務教官が間違っている」と庇い建てせず、その上で院生に対して「お前もここはもうちょっとその法務教官を考えてやってもいいんじゃないか」と助言し、本人にその旨を代弁し、後日その法務教官が和解にやって来られて院生との仲が険悪から強固な信頼へと変わった事があります。

 それから数日後のことです。寮の先生が集会時に言いました。「それからお前らにも伝えておくけど、昨日、特短の2人が調査入ったから、以上」

 その瞬間、寮生ら数名の顔が晴れたかのように明るくなったように感じ、その日の実科後の帰寮してからだったか、翌日だったかの夕方頃、ホールに寮生が集められると先生が話します。

「特短の2人が調査に入ったと言ったけど、とうとう全体調査になりよったから。今そこ(調査生が入る寮)に全員入っとる。」

そして私たち寮生が驚いたのは、「どうやら主犯は○○と○○の2人で、あいつら特短で送られて来てからお前ら一般短期と同じぐらいの収容期間になっとるわ」、ここでやはりC君は主犯かと感じ、続けて先生は

「それもお前らのメシの件だけと違う、部屋でふざけ倒しとるし、世話になった先生の名誉を傷つけるような発言まであったと聞いてる」

事の顛末が明るみになると「ご飯窃盗事件」の全貌が見え始め、主犯2人が計画し周りに下級生を目張りに立て、周りの目を警戒しながら我々の寮のライスコンテナから何十グラム単位ずつ移し替えたという。とにかく次から次へと不正事実が発覚しているようで、処分は重くなるだろうとの事でした。

結局、謹慎何日かは忘れましたが、正直そこまで重いと感じない処分で、うちの寮で6名ほどの調査が出た時に夕食のコロッケをタンスに隠して夜中に食べていた不正喫食と不正連絡、不正交談、文身(ボールペンのインクで「∴」の入墨)で一人が謹慎15日あたりと比べても、他の寮にこれだけ迷惑をかけた上にその他諸々していて、たかだか謹慎数日というのは釣り合いが取れていないと率直に感じました。

 調査が終わり謹慎に入る前だったか、謹慎を終えてからだったか定かではありませんが、寮生にとって一番大事な日が訪れます。

 その日の午前、寮内に5人の先生が全員集まっていて、今日何かあると感じました。すると週番の私に寮主任が「大事な話があるから全員集めてくれ」と告げ、「全員ホールに集合して下さい!」「はい!」とホールに集まった寮生に先生が言いました。

「今日の午後、特短から代表が謝罪したいと申入れが来てる」

そこで謝罪を受け入れるのか、またどういった態度で臨むのかなどを寮生に考えさせ意見させます。
 
 すると一番怒っていたように思えるN君が「謝りに来てもらうのは賛成なんですけど、正直僕どうなってしまうか分からないのが怖くて仕方ないんです」と言い、それを聞いて(分かる分かる)と思いました。他の少年も何名か頷いており、言葉にこそ出さないだけで何かしら言ってやりたいと感じた少年はいたかも知れないです。現に社会に出てから再会した一つ歳上の少年が「あの時は殴りたかった」と言うほどの遺恨でしたので、みんなよく耐えていたと思います。

謝罪はもちろん受け入れることになり、昼食を食べてから何と言おうかと考えていたところ、今でさえこの事件はこんな事もあったなというぐらいですが、社会復帰後に中等短期の同級生とこの話になる度に沸々と感情が昂ぶるほどの事件でしたから、当時なんてもう抑制で精一杯であり、言葉を考えていると段々と荒くなるんです。

(いっそのこと思う存分言ってやって調査でもいいかなもう、三島由紀夫ばりにズバッと言ってやらないと悔いが残るぞ)という感情と

(いやいや待て、1級生のそれも週番がそんな醜態を晒すなよ、ましてやそんな事で調査とか馬鹿げてるだろ、米盗んだ奴らに足引っ張られて情けない)という感情の狭間で葛藤し続け、

まるで「悪を唆す自分」と「悪の換言に乗るなと諌める自分」から本体の私が責められているような感覚でした。

すると謝罪訪問の1時間前あたりになってから急遽、私が寮主任から呼ばれ、さらに苦悶させられる事を言われます。

寮主任「色々と思うことはあるだろうけど、時間も押しているから週番のお前が代表で簡単にすませてくれ」

私「さすがにそれでは寮生が納得しません」

ここで怒鳴られ、「そんな事言っても時間がない!お前らの気持ちは十分に分かった上で頼んどる!ワシらが裏でどれだけ動き回ったか分かってくれ!」

そして「特短寮が謝って来たら、こちらとしては事前に集会もして受け止めています、今後くれぐれも同じ事を繰り返さないでください。これでいいから」

要するに推測すると、事前に特修短期寮と一般短期寮の先生らで話し合いはされている筈で、一般短期寮側からすれば「このままだと寮生の一部に消化不良が見受けられるので、特短側なら代表を寄越して欲しい」と打診し、その際に寮生ら一人一人に発言させるとヒートアップしていく者が出始めるおそれもあるし、現にN君はこの話になると感情的になる、すると大人しめの少年らも同調し始める様を先生らなら危険視して当然に思えます。

これは嫌な役割を負うことになったと意気消沈しながら居室に戻ると、ため息が出そうになり謝罪に来るのが待ち遠しい気持ちと、なんか納得いかないという気持ちで複雑になる中、いよいよ特短の代表がやってきた。

記憶ではC君ともう一人の調査常連と、新顔少年の3人が寮主任に伴われて私達の寮に訪れ、ホールの前にパイプ椅子を並べて座り、向かい合うように我々一般短期生がパイプ椅子に腰掛けた。

久し振りにC君と間近で対面すると、頼むからニヤケないでくれよと思った。今日は顔見知りとかそんなものは関係がなく、真剣に頼みたいとC君を見据えると、C君も私を知っているので何度か目があう。当たり前ですがこの時のC君は一切クスリともせず、かといって謝罪の弁を促されるとあまりにも萎縮しているのか、声が小さくて歯切れが悪く、これだと寮生は納得出来ないだろうなと悶々とさせられました。

(さあ来るぞさあ来るぞ)と直前まで葛藤しながら、

(本当は簡単にすませろと言われたのですが)

(みんなの気持ちがおさまらないと思うので言わせてもらいます)

(この時点で寮主任あたりが「お前約束が違う!」と止めにかかって来たらどうする、調査になっても良いです、「何を言うとるんだ!一級生にもなって情けない!」)

そんな事をあれこれと考えているうちに先生が、「お前ら一人一人言いたい気持ちは分かる、ただ時間見てくれ、これから導入集会(新入生がここに入る)もあるから代表で週番に言ってもらうから」

そして事前に言われた通りの「こちらとしては事前に集会もして受け止めています、今後くれぐれも同じ事を繰り返さないでください」を述べて終わった。

未だにこの特短米窃盗事件を振り返ると、本当にこれで良かったのかと引っかかる時がありますが、おそらく「本当は簡単にすませろと言われたのですが、」と始まっていれば、感情の思うがままに溢れ出して逆に「自分の感情すら制御出来なかった」と引っかかるのだろうし、社会なんて理不尽な事だらけで一々納得いかないと噛み付いていればキリがないのだろう。
結局、寮主任先生が正しかったのだと思います。直前に怒鳴られたのも、それだけ頭を悩ませて考えた言葉がそうだったのでしょうから。

C君は米窃盗事件以降は調査になった記憶はありません。終わらない贖罪を背負ってしまったけど、特修短期はその代償ではなく通過点だったのかも知れません。


事例④ 業務上過失致死罪D少年の場合


私が中等短期少年院の集団寮に移ってから1ヶ月も経過していない頃に送られてきた少年です。
 私がいた中等短期の特徴の一つに「導入集会」と呼ばれるものがあります。入院すると考査期間(1週間)を経て集団寮へとやってくるところまでは、大体ほかの少年院と同じだと思いますが、集団寮に移ると同時にこの「導入集会」という洗礼を受けなければなりません。
 ホワイトボードに氏名・年齢・都道府県・罪名が記され、暴力団関係の有無、薬物使用歴の有無、ここにやって来るまでに至る全ての補導歴と家裁の処分歴を全て明かされます。
 のちに私が送られる特別少年院では勿論ありませんし、特別寮の副主任がこの短期少年院に転勤となった際、離任式を終えてからやって来て色々と聞かれる中で、この導入集会について「ええ!?性犯の子なんて来たら大変になるのと違うの?うち(特少)では考えられない集会」と驚かれていた程ですから、短期だから出来た集会なのかなと感じていました。(しかしこの導入集会を行っている長期少年院があり驚きました)

 導入集会ではホールに半円を描くようにして寮生が座り、ホワイトボードの紹介事項を背にした新入生が座り対峙します。
 そこで法務教官が送致原因となった本件非行事実について概要を説明し、その少年の問題性について寮生から一斉に質問されます。質問される側の少年は集団寮に移ってから5分や10分しか経過していませんので、緊張した様子を見せる少年が多いです。
 質問と返答が終わると次に寮生から激励となります。
「ここに来た以上は自分と向き合って改善していって下さい」や「○○君の問題はもっとあると思うので真剣に考えて生活していって下さい」、「まったく考えられていないと感じたので少年院生活を無駄にしないよう心掛けて下さい」といった具合です。
この時、新入生は「はい」と「ありがとう」以外に発してはなりません。うっかり「ありがとうございます」と言う少年がいたのですが、その瞬間に寮生らが「ありがとうです」、「ありがとうございますは駄目です」と細かな指摘が飛び交います。
主従関係を作らせないために、寮生同士はあくまで対等であると認識させる目的がありましたが、突然指摘された側の少年は意味が分からない表情となりながらも、「あ、ありがとう」と言い直しますが、中には照れ笑いしながら「ありがとう」と言い出すものなら一斉に「笑っては駄目です」「○○君笑わないで下さい」と中々先に進めなくなる事もありました。
ここまできてやっと「法務教官の助言」を聞いたのち、最後に週番から「この中に社会からの顔見知りや鑑別所などで一緒だった子はいませんか?」の質問を経て終わります。馴れ合いになる可能性が極めて高いため、寮生間に知らせることで相互監視を徹底します。

ある日、導入集会が始まるとの事で寮生約30名がホールに集合しました。
 ホールに集まると黙想したのち、週番の号令に従います。

週番「全員目を開けて立って下さい、今から○○君の導入集会を始めます、礼!」

D君「お願いします」

週番から座って下さいの指示がかかると、私たち寮生は決まってホワイトボードに書かれた内容を凝視しながら新入生を注目します。この時に新入生の緊張が伝わりやすいですが、中にはあっけらかんとした少年や動じない少年など様々な態度が覗えます。

ホワイトボードに「業務上過失致死」とあり、後に送られる特別少年院では中等と特別を含めて生命犯は珍しい事では無かったのですが、短期に送られてくる生命犯というだけあって何かしらの理由がある少年が多かったように思います。
 D君の導入集会で顕著だったのは、本件非行の重さもあってか現実を直視する事を避けている様子を感じさせました。

法務教官がD君の本件非行について説明が始まります。「少年は○年○月頃某所公道において普通自動車に乗車中、前方に暴走族と見られる改造バイクに乗った少年○名を発見すると、車を急発進させ、約○分間にわたる後方からの煽り運転を続けたのち、横断歩道を歩行中の被害者男性当時○歳に追突した。被害男性は○○を強く打ち救急搬送されたが間に合わず息を引き取った」

法務教官は「送致事実」に記載された書類をそのまま読みあげる上で、「詳細な場所」を「某所」と言い換えて伏せます。他にも被害者氏名は当然として、共犯関係がいる場合にはその名前を「A」や「B」と置き換えますが、共犯の処分内容まで触れますし、同じ短期少年院に共犯が送られている場合には「寮名と氏名」を言う場合もあれば、「他の寮に共犯関係がいるとのことです」と告げます。
 これは導入集会最後の「この中に社会からの顔見知りがいないか」という質問と同様に、寮生に相互監視を図る意味合いもあれば、同じ事件で処分に差が見られるときに「共犯は長期に送られているのに本人は短期でどのような姿勢で臨んでいるのか」だったり、逆に「共犯は保護観察処分や試験観察処分であるのに、本人は短期少年院に送られるだけの問題の深さや犯行的立場を考えさせる」という意味合いが大きかったように感じます。

法務教官は送致事実を伝えると、逮捕後からのD君の葛藤する様子についても触れていきます。

私は中等短期の導入集会で覚えている少年について、今思い返してみたところ12人でてきましたが、印象に残ってしまう理由を挙げてみると、

①特異な事件 罪状として珍しかったり、その中にはぐ犯も含まれますし、背景として少年院に送られるにはあまりにも不憫とさえ感じられた少年もいました、例えば日常的ないじめによる支配から脅迫によって無理やり加担させられていた少年です。他にも外国が関わっている事件として盗難車を切断して某国に流していたグループの少年などです。これらの中にのちにD君と密接に関係してくる少年も①に含まれます。

②人的特徴の大きさ 変わった性格をしている少年や特徴的なメガネや入れ墨や傷跡を有する少年、都道府県が珍しい少年、なぜこの人は少年院に来てしまったのかと思う祖母想いの温和な少年から唯一の大学生に関しては明らかに浮いていましたし、逮捕後から眉毛が繋がってしまいスリッパも相まって両津勘吉にそっくりな少年などです。

③院で心に残る出来事 必然と調査になった少年が多くなりますが、理由として規律に縛られる生活を乱したイコール生活リズムを崩す大きな出来事が生じるので、それだけ印象に残ります。また逆に良いパターンとして、本人が罪や自己と向き合う上で大きな気付きについて発表すると参考として心に残ります。

D君の場合は、人の命を奪ってしまうと私ならどういう状況になるのかと考えさせられる一つの要因となった少年でもあり、
ただでさえ生命犯は少ない上に導入集会はそもそも相手を指摘するためだけにあるのではなく、本人の問題性について深く考えようとする際に自分が当事者ならどうかを考えさせる意義も強かったと感じます。

そこでD君の立場になると、事件後に留置場の少年房にいる姿から想像し、今現在目の前にいるD君と、自分が想定する本人であった場合との乖離を模索します。
 すると自分もD君のように事の重大性に苦しむ中で考える事をやめたくなるのだろうか、贖罪が一生続く中で自分なら逃げ出してしまうのだろうか、そういった感情が入り混じりながら導入集会に臨んでいたと感じるので、D君の強張った顔と途中指摘された時に少しムッとして法務教官に怒られた印象が深いです。
なので導入集会時点のD君は自身の中で極力考えることを避けようとしていた段階にあると仮定すると、他生からの指摘についても「今さら言われなくても分かっている」という感情や「ここに来るまでに考えて考え倒してきたことだ」という反発も生まれたのかも知れません。これらD君の内面は本人のみぞ知りますので、あくまで私の推測に過ぎません。

導入集会の途中、D君に対して寮生側から激励の場面となった時のことです。

ある少年が何かしら言葉を投げかけた際に、D君の表情が固くなり言い返す場面がありました。正確な言葉までははっきりと覚えていませんが、D君は「言われなくても分かってます」というニュアンスを発した時、場の空気が変わりました。
導入集会で言い返す少年や口論となった少年はほとんどいなかったと思え、すぐに横にいた法務教官が怒鳴りました。
「今の態度はなんだ!お前のことだろうが!」

ここでD君が「じゃあ僕はどうすればいいんですか!」といった具合に、自分にはもう分からないんだという感情が噴き出しました。法務教官は「それをこれから考えるために送られて来たんだろうが!」と突き放します。

結局、いつもの導入集会とは様子の違った雰囲気となり終了しました。D君はそのまま面接室で何やら指導されていたように思え、締め切ったドアの向こうから法務教官の怒鳴り声だけが響いていたように思います。

それから暫く月日が経過していくと、D君の態度に変化が見られ始めます。朝の点検集会といって、昨晩考えた事などを発表しあいます。これは毎日ありましたが土日のみ無かったでしょうか。その点検集会でD君が亡くなった被害者について述べることがあり、追突した時の痛みや突然亡くなってしまってからの家族の気持ちを想像する内容を徐々にですが口にするようになります。その回数が日に日に増え始めました。

そんなある日、一人の少年が入って来ました。

その日、いつものように導入集会があり、私たちはホールに集合すると一人の少年がホワイトボードの前に座っています。
非行事実が窃盗と記載されており、ここまでは何の変哲もありませんが、とても特徴的なメガネをかけた少年でしたので、真面目そうな少年がまた送られて来たと感じていました。

法務教官が送致事実を読み上げると、寮生の空気が一気に変わった事を覚えています。
それは桁違いの額であり、続く法務教官の一言が強烈に印象づけるものでした。

M先生「なお、現在(当時)までに起きた少年事件の中では被害総額が最高とのことらしく、連日マスコミが地元に押し寄せ迷惑をかけたようです」

今この記事を書く上で、その窃盗少年の新聞記事を読んでいますが、新聞記事の時点で被害総額が億をゆうに超えていますし、その記事では「数十件の余罪との関連についても調べるとしている」とあるため、記事の額よりもさらに大きい訳ですから尋常ではありません。
共犯関係も多く逆送された者が数名、長期少年院に送致された者が数名と言っていた筈です。

この少年が短期少年院に送られて来た背景には、犯行グループの末端であるのか、関与度合いが低いのかは分かりませんが、補導歴と非行歴については無かったように思います。
窃盗少年がやってきてから寮の空気が少し変わったように思え、何名かの少年はその窃盗少年について良からぬ事を考えてしまうのです。導入集会のリスクがここにあります。

 窃盗少年にしても少年院に送られて来た以上は、自分自身や罪と向き合う事になりますし、必然的に点検集会の他、個別に問題と向き合う集会が1級下生になると一人一人に回ってきます。そこで窃盗少年は内省結果として「金銭感覚が狂っていたと思います」と述べたならば、その理由についても話さなければならなくなるので、「毎日大量の服を金額を気にせずに購入したり、欲しいものは何でも手に入る環境となって、金で女も寄ってくるので抜け出せなくなっていたと思います」と事件当時の状況を述べていました。

 すると聞いている少年たちの中には、別の思惑から窃盗少年を観察するようになるのです。

 ある時、窃盗少年が点検集会で「昨日僕は被害弁済について考えていたところ、僕は社会に戻ったら○○の仕事をしようと考えているのですが、計算すると80歳までタダ働きになると知りました。自分がした事の大きさに思い知らされました」と述べました。

 私は、80歳までタダ働きの人生という途方もない時間に考えさせられ、それまで終わりのない贖罪は生命犯とばかり考えていましたが、この窃盗少年の言葉を聞いたことで、生命犯以外にも終わりのない贖罪を背負う者がいると深く感じたものです。
もちろん罪に大小は無いでしょうし、過去は消せませんが、この少年の発言がそれほど重く心に残ったのは確かです。

ある日、私の寮から調査が出ました。

 4人部屋丸ごとと他に数名いたはずで、その中にD君が含まれていました。
内容は不正交談が主でしたが、一人だけ仮退院間際の1級上生の少年がいて寮内に大きな動揺が走ったのを思い出します。
仮退院間際の不正発覚というのは、これから社会に戻る少年が改善出来ていなかった可能性を示唆するようなもので、共に生活している寮生の何名かはひどくショックを覚えている様子を覗えました。

この時の処分が重いのも覚えており、1級上生の少年だけ「仮退院激励式」が取り止めとなり、仮退院当日に全院生から見送られることなく裏口退院となります。これは踏ん切りをつける上で大きな糧を失いかねません。

謹慎が軽い順から解除となり復寮すると「復寮集会」が始まります。規律違反をした事について反省点を述べるものですが、D君はこの時1級下生だったと思います。特筆する点もなく従来通り終わりました。

それから1ヶ月ほどしてD君は仮退院していきましたが、遅れること数ヶ月後に私が仮退院しました。さて、ここから導入集会のリスクが垣間見える出来事が起きてしまうのです。

社会復帰後、その日は朝から仕事でした。まだ薄っすらと暗い頃で午前3時から同4時頃だった思います。私の携帯電話に見知らぬ番号から電話がかかってきました。
 誰だろうと思い電話に出てみるとD君でした。
以前、キャバのスカウトとキャッチをしていた頃に中等短期の少年で1つ歳上の少年と同じ店で働いていた事があり、その少年を通じてD君が私の電話番号を知りたがっていると言われ、教えていいと言いました。この当時は少年院の同級生何名かと関わっていた頃です。
 D君は電話で「今どこにいる?ちょっと会って話がしたい」と言うので、仕事が数時間後に始まるのでそれまでなら大丈夫である旨を伝え、すぐ近所まで来ていたようですが私を発見出来ず、結局会えませんでした。
改めてD君に電話で「仕事終わってから近くにいるなら会える」と述べると、何時に終わる?というので夕方から夜にかけてと伝えると、しばらく考えたあとにD君は「またにする」と言います。どんな大事な用なのかと聞いてみると、窃盗少年の行方を探していると知りました。
 私があの子はもうお金を持っていない筈で、逮捕されてから警察に犯罪収益で得た全額を押さえられていると思うと言うと、隠し持っていると感じていたようです。
 私は正直、これは再犯になると思えてならず、窃盗少年を見つけたところでどうする気なのかと問うと、いくらか借りたいと思っているとの事でした。
それ以来、D君とは連絡を取っていませんが、特別少年院の同級生に一人、約100万円を他の同級生に持ち去られた事件があります。私にとって少年院は確実に母校ですが、同級生との関わりは本当に気をつけた方がいいと感じた次第です。


事例⑤ イジメ報復殺人E少年の場合


E少年は私が特別少年院で1年以上経過した頃に、中等生として送られて来ました。この頃の私は単独寮に夜間単独生として存在していた頃で、主に新入生の物品準備をしていた他、中等と特別の混在する溶接科に編入されるまでは、新入生と殆ど同じです。(事例⑦私で触れます)
 E君は比較的軽微な罪による初めての少年院で、標準の長期処遇(うちは中等長期が12ヶ月、特別長期が13ヶ月)でした。(のちにE君が逮捕される際に私は直接警察と話していますが、E君が少年院送致となった罪についても被害者グループから参加を無理強いされていたと聞いており、対してE君はのちの取調べで違うと庇っていたと事実の対立関係にあります)
 この頃、私とE君の他に「その一」で触れた中等生丁君の居室が横続きであり、就寝後に「おやすみ」と挨拶を交える仲となった事から、訓練や体育で出寮する際には三人で顔を見合わせながら微笑むなど意思表示するようになっていました。
 その後、E君はと中等生丁君は新入時教育を終え、中間期の集団寮へと転寮していきますが、ある日、2人で調査となり単独寮へ戻ってきました。(E君の手紙曰く「運動会の直前」とあるので集団寮へ移って数週間でしょうか)
 その後、私は中等と特別の混在する溶接科へ編入する事となり、資格取得にむけた実科の日々が始まります。すると、E君と丁君の実科作業場と隣り合わせになるため、この頃はまだ顔を見合わせながら意思表示する時期でした。
 それから数ヶ月した頃でしょうか、お互いに顔を合わせてもそういう意思表示を取らなくなり、そんな事をしている場合ではないと互いに自制し始めたと感じます。
 その後しばらくE君を実科作業場で見かける度、顔つきが入院当初と比べて気の緩みが一切感じられず、自分自身に集中している姿勢が顕著に現れていると率直に感じました。こうなると共に馴れ合いになっていた関係の私自身も、当時と比べてどうであるかを内省するようになります。
 彼は少年院に来てここまで変化が見られるのに自分はどうなのか、しっかり生活しているつもりにはなっていないかという自問自答の回数が増えます。少年院は馴れ合いや啀み合いの関係となると共倒れとなる危険性が高いですが、互いに過度な干渉をし合わなくなると切磋琢磨する関係になれます。その意味では集団寮は互いに高め合う者同士と一緒になれれば単独室より学べると感じます。ですが少年院ですので思い通りになることばかりではなく、そういう集団寮メンバーと一緒になれば幸いではないでしょうか。(著者の話にもありました)
 さて暫くするとE君は私のいる溶接科へ編入されてきます。溶接科は10人にも満たない少数制の実科で、編入されるとまず3ヶ月か4ヶ月を1クールとして資格取得に励みます。
 E君は溶接科にやって来る頃には一切ふざけようともせず、自分自身の事に必死で取り組んでいましたし、溶接科では資格取得までにタイムリミットが迫る分、自分自身の溶接技術習得に一心不乱となる少年が多いです。
 ごく稀に溶接科編入中に規律違反を犯してしまう場合に、懲戒処分以上(訓戒か謹慎)となると、溶接科をクビとなってしまいます。
 E君は順調に溶接科を終えたのち、元いた実科へと戻っていきました。それからは殆ど接触は無かったはずで、時折、廊下などの清掃作業で目にする程度でした。

 気づけばE君は仮退院し、私も仮退院を迎えます。

仮退院から約1年が経過していた頃、旧知の少女から電話があり、電話の中でE君を知っているという話になりました。
その少女とE君は比較的住んでいる場所が近く、顔見知りでした。

それから数日した後、E君と私が電話で会話します。E君はとても元気そうで明るく、車の免許を取得しに向かうと話していました。今度、機会があれば会おうという話になり、その後も何度か電話で話すようになりました。

さてある日のこと、E君から電話を受け出てみると、ひどく落ち込んだ声をしています。(なにかあったな)と思い、「最近なにかあった?」と聞くと特に何もないと言います。
あまりにも元気の無い様子だったため心配となり、「なにか悩み事があればいつでも電話してほしい」と告げ、電話を終えました。

数日後、E君から電話があり、次第にその回数が増えていきました。それまでは多いときでも2週間に1度ぐらい電話があれば良い方でした。こちらは電話を受ける度に「何か悩んでいるなら聞く」と言いますが、自己の弱っている理由を言うには信頼関係の他に勇気がいる事ですので、中々言い出せないんだなと感じていました。(後々、本人が鑑定留置中の手紙でもそのような面を吐露しています)
それなら今私ができることは徹底的に聞いてあげる事だと思い、ひたすら聞き役に徹していました。
するとある日の電話にて、E君の受話器の向こう側から、いつまで電話をしているという恫喝する声が聞こえたのちに、電話を終えたのです。
 数日して今度は警察から私の携帯に電話がありました。聞くと、E君が仮免中にガードレールに追突する物損事故を起こしたと知り、警察はその時心配し「Eがひどく疲れている様子だった」と述べ、私はやはり何かあると感じてこれまでの異変について感じた事を述べました。
 すると警察は「やっぱり」と言います。E君が物損事故を起こした後に警察署で事情聴取を受けたのち、帰り際に同じ年頃の数名がやって来て、疲れているE君に対して無理やり連れて行くような感じがしたと警察は言います。その様子は到底対等な友人関係には見えなかったとも言います。
 その他、物損事故を起こす数日前には自宅近辺の電信柱などを力任せに鈍器で殴る器物損壊の事案で警察が駆けつけましたが、E君はストレス発散のためにやったと述べるのみで、ストレスの理由については詳細を述べなかったようです。
E君の物損事故から数日後のことだと思いますが、私にメールが届きました。何やらどこかの風景と無人島に行きたいという内容でしたので、私はすぐに電話をかけましたが、やはりE君の性質的に悩みをストレートに伝える事が難しく、溜息と苛々する旨を抽象的に述べるのみでした。
 そして事件が起きてしまいます。
 その日、私は昼過ぎからの仕事のため、天気を見ようと携帯電話を覗いていたところ、横にスクロールする携帯ニュースが流れました。そこには「(地名)殺人で○○歳少年を逮捕」とあり、私は何故か無性に胸騒ぎがし(もしかして)という感情と共にD君に電話をかけ続けましたが一向に繋がりません。
 そうなるともう居ても立ってもいられなくなり、自宅周辺に向かいたいと感じたものの、E君の家を知りませんし、その地域一帯を探し回るのは大変です。そこで私は警察に試しました。

 E君の地域を管轄する警察署の電話番号を検索してかけると、警察にこう言いました。

 「もしもし、今朝殺人で逮捕された○○○○○の親族の者ですが、衣服など差し入れたいんでそちらの留置場でよろしいね?」

すると警察は「ああ、○○の?えっとね、△△に行ってやって下さい」
 
この瞬間に(やっぱりか)とショックを覚えながら、当時の友人関係に連絡し、衣類の差し入れに向かいました。

 結論から述べるとイジメと認定されたのですが、E君は鑑定留置決定後、逆送となり不定期刑が確定すると、遠方の少年刑務所へ送られました。手紙以来連絡はしていませんが、少年刑務所内で高認を取得し、極最近となる数年前、落ち着いた生活を続けている様子のみ知りました。
 
 遠くからE君の再起を願っております。


事例⑥ 酒鬼薔薇に影響を受けた少年Fの場合


F少年とは、私が事例⑤について悶々としていた頃に知り合いました。
 当時、彼は人生について模索しているようで、私はE君が逮捕されてしまったことで大きなショックを覚えていました。
 付け加えて周りの少年院同級の逮捕が相次ぎ、少年刑務所で同窓会のようになっていた頃です。

 当時も私は刑務所に行くような生活とは決別していましたが、他人事には思えないので模索していた頃でした。

なぜなら事例⑤で紹介したE君は刑務所に行くべくして行った訳ではありませんが、結果そうなってしまったため油断が出来ないと感じていました。

 そんな折、F君と知り合ったのですが、彼は当時非常に哲学的な考え方をしていて、私が少年法の原則逆送や刑務所や少年院についてどう思うかを聞いていました。そこでお互いにメールをする間柄となり、年賀状を送るようになっていったのです。

 F君は教育熱心な両親の下に生まれ、全て親がレールを敷いて来ました。
この進学校へ行って、偏差値の高い高校へ入れ、ゆくゆくはあの大学へ通わせ、将来は医者になれといった感じです。本人はこの時の状況について「反抗できない操り人形」と述べていました。
 とうとうある日、F君は壊れてしまいます。初めての大きな反抗が大事件へと発展してしまったケースでした。
 凶行は家族へと向かいましたが、犯行現場を去る際に酒鬼薔薇の犯行声明文に関連かせた文字を遺していますので、少なからず酒鬼薔薇の影響が全く無かったとは言い難いと思える点です。
 F君の直接的な犯行動機は、抑圧からの爆発や脱却にあると感じますが、後に送られた医療少年院で同時期に酒鬼薔薇と接しているようで、F君と知り合った当初は必然的に酒鬼薔薇の話が多くなっていました。
酒鬼薔薇と生活していた少年少女は何人も見てきて、彼は7年以上いただけあって、私達の世代で酒鬼薔薇のいた医療少年院に入院すると寮こそ分けられていても、中で話が回っていた様子でした。途中に中等少年院に送られた時期を省いても長いと違和感に気づかれやすいです。

 計算してみたところF君に鑑定留置が無ければ、医療少年院に送致された約1ヶ月後、酒鬼薔薇は中等少年院からボイラーの免許取得を終えて戻ってきています。
 事前に同施設にいますと後から入院した人物について把握しやすいですし、既に古い人間が広めていたり、変わった処遇だと勘づかれるものですから、F君的に戻ってきた酒鬼薔薇に気づきやすかったと思えるのですが、仮に戻ったあとにF君が入院しても話が回っていたと思われます。結局、事件後に送致先で受けた影響の方が大きかったのではないかと感じましたが。

 また、後の家裁審判の決定要旨では別の理由が触れられていたものの、本人の手紙曰く、全国のいじめっ子への復讐だと言います。
これも強ち嘘ではないと思えるのは、いじめについて触れられていなかった筈ですが、第一の犯行後に学校を標的にしようとしていたという報道が出ていたように思います。その背景には何かしら狙うだけの理由があるでしょうから、前述した全国のいじめっ子に対する復讐というのは後付だったとしても、それに近い出来事があったのだろうかと考えさせられます。

ここに1通の手紙があります。便箋にして8枚。

医療少年院から仮退院後に送られてきたもので、B君の内容で触れた「同じ医療少年院にいた頃に彼(B君)を見ている知人」がこのE君でもあります。
手紙を送る頃というのは彼も社会復帰後に悩んでいる真っ最中で、当時は派遣で一生懸命働きながらコツコツと貯蓄していた。
そしてF君の事例の一番の肝として、社会復帰後に何に縋ろうとしたかです。
これまで大まかに説明した経緯の人間が世に戻り、何を糧に生きようとしたかですが、「宗教」でした。

 ここまでは罪人に比較的珍しいと感じられませんが、その程度が彼らしく、当時、F君はイスラム教と仏教の二つの宗教に定めて追究していました。独自解釈でしたが非常に本格的に熱心に努めていました。

 前述した酒鬼薔薇の話からある時期に宗教的な話が多くなったのです。
 そこでF君が追究する中で、目指していたものは「即身仏」で、真剣に即身仏になろうと思案を重ねていました。

私は俗世に溺れていましたので、またはじまったぞと思った時もありましたが、いま私は修行者のような生き方を選びだしたので、なるほどと思えてならない部分が増えてきました。

彼は並行して「ジハード」に興味を示していました。

私は現在、どの宗教にも属していませんが、クルアーンを読んでいます。それはF君に影響された訳ではないですが、私が右翼とは違う思想活動時に、ムスリムと接触する機会が増えた事に由来します。相手を理解する上で重要な事でしたから。

そこでF君がいまも生きているのであれば話したいです。

私はいずれ山か樹海に修行で入ります。おそらく当時のE君と生き方が近くなるので話し合いたいと思う。連絡を下さい。
(2022.02.06追記:連絡を再開しています)


事例⑦ 私の場合


私は生命犯に含まれませんがここまで他の少年を事例に挙げてきましたので、私自身についても書いておく必要があります。

 私は1件の強盗致傷罪(出頭当日は強盗殺人未遂罪)で特別少年院送致となりました。

(補足:出頭してから銃刀法違反で再逮捕が来ると思っていましたが付いていません。出頭当日から第2回目の勾留請求辺りになってやっと凶器が見つかります。それまでの取調べで刑事が頻りに聞いてきたのが「凶器の場所」ですが、私はこの頃本当に凶器の在り処を知りません)

振り返ると危険に感じるのはその凶器です。

写真は山口二矢少年が犯行に使用した物ですが、長さと形状に大差がありません。強いて言えば私の短刀の持つ部分には、滑り止めの白い布テープが巻かれていました。
[追記]当時使用の携帯電話。まだ滑り止めの布テープが貼られていないので犯行前に撮影されている。
事件記録では「脇差様の刃物」、供述調書には「ナタ様の刃物」とそれぞれに記載ルールがあります。

 私が少年院を仮退院する際の特別遵守事項の6番目には「日本刀など危険な物を所持しないこと」とあります。今振り返ってみても中学生時代のバタフライナイフに始まり、本件の短刀、村正の模造刀に愛着を感じる少年時代でした。

 そして最も改善に困難を極めたのは当時形作られていた右翼思想です。特別遵守事項には少年院から仮退院するにあたって、その少年が社会で抱えてきた問題について割り振られるものですが、私が現在に至るまで右翼団体と関わらない一番の理由が特別遵守事項の存在であるかも知れません。

これらは仮退院から保護観察期間の満了を経て効力を失いますが、私にとっては「母校」である「少年院との約束」と都合解釈するようにしました。

私があの世へ向かうまで大事に保管していかなければならないと考えます。

 私が特別少年院に送られてすぐの新入生の頃は、まさか自分が特少なんて来るとは思ってもおらず、「比較的改善更生が容易」と判断されて中等短期に送られ、社会に戻ってから本件非行に至るまでの間に自分自身がどのように「犯罪傾向が進んだ」へと変わってしまったのか、その原因を考え込む日々が在りました。

するとその間に何が起きていたかというと、1つに私は家を飛び出しており、閉鎖的な環境に身を投じています。それは特定地域とそこに存在する人間関係を指しますが、私がそれまでに形作られていた偏った思想に、歯止めが効かなくなる環境でもありました。

 それまでの人間関係を遮断し、親や地域の保護司はもちろん当時真剣に交際していた相手まで距離を置き、周りの良き静止役となる人間を尽く突き放してしまった時期です。

 そうなるに至った経緯には幾つか原因がありましたが、最終的に私自身が選択した結果でしたので、大きな誤りがここにあったと思えてなりません。

 それまでの生活では中等短期少年院を仮退院してから、正業に就く傍ら、思想活動とは一定の距離を保っていましたが、再びそういった思想活動に全てを賭けようと決心する何かが当時の私にあったと感じます。

 戦後の昭和から平成にかけての右翼気質の少年少女の判例を読んでいると、事件に至る前に家出をしているケースを幾つか見ました。ここでは右翼思想が悪いという意味よりも、特定の政治思想や宗教的な思想を問わず、「誤った過激思想」へ繋がってしまった場合に制御不能となる危険性を指す意味が大きいです。

 そこで振り返るに、私が生まれてから幼稚園になると両親が離婚し、母の元へ引き取られてすぐに継父が現れます。私と母と継父の3人による生活が始まって1週間が経過した頃には恫喝と暴力が始まりましたので、小学1年の時に遠方の祖母の元に逃げ出しました。私が暴力を受け始めた頃から計画していた事で、母に連れられて祖母宅に向かう際の駅と電車とバスの色を必死で覚えました、お金は買い物の釣り銭を少しずつ貯めたもので、100円ほど誤魔化してレシートを捨ててしまえば、後は殴られるのを耐えるだけでした。

 今振り返ると、この幼少時代と少年院時代に共通するある事柄を発見します。

 辛い幼少時代に祖母の元へ逃げようという計画を立てた時、「目標」のようなものが出来た分、精神的に幾分か楽となり耐える糧が生まれました。

 厳しい少年院生活においても「院内目標」として腕立て伏せ100回を仮退院までに達成させるとか、寮内にある本棚のここからここまでを全て読むなどと決めて生活をすると、厳しさの中で確固たる糧が芽生えました。

 幼少時代が地獄とすれば少年院時代は極楽過ぎて帰るのが本気で嫌になった程でしたが。

 話を少し戻すと、私が祖母の元へ逃げ出した時、「やっと終わった」という安堵と共に、ここから新しい生活が始まる期待感が強く、毎日が別世界のような感覚で生き生きし始めた事を思い出します。

 祖母は大正生まれで戦時中には帝国海軍のご飯炊きに精を出していたという話をこの頃によく聞かされました。毎晩眠る時には戦争中の暗い話題が多かったものの、戦争中の話をすると3時間ほどぶっ続けに止まらなくなる為、私がわざと振るようになっていました。現在も祖母宅はありますが、造りが古いため怖いのと、1時間毎に壁に掛かった置き時計が時刻の数だけけたたましくボーンボーンボーンと鳴り響くものですから、夜中の12時なんて12回も鳴られると不気味でたまりません。

 そのため、私が眠るまでは祖母に起きていてもらった方が安心でしたので、「戦争中は怖かったぁ?」の言葉を合図に毎晩聴きながら眠っていました。

 祖母は唯一の味方で母に継父と別れるべきだと叱りつけてくれましたので、祖母の戦争中の古い価値観ひっくるめて絶対的に正しいと無条件に受け入れられましたし、昭和の戦時中の出来事に興味を抱く原点になったと思います。

 そのためのちに周りがDragon Ash、浜崎あゆみ、L'Arc~en~Ciel、GLAYを聴く中、私は同期の桜、麦と兵隊、嗚呼神風特別攻撃隊、敵は幾万、日本陸軍、戦友、露営の歌、抜刀隊など軍歌を愛聴していましたが、のちにそんな私でもL'Arc~en~Cielにはどハマリして、DUNEからアルバムを買い揃えましたし、同世代の交際者は必然的に浜崎あゆみがもれなく好きなのでよく聴いていました。

 思い出すに軍歌にハマったきっかけが、祖母宅で戦争ドラマを視ていた際に、ブラウン管の中で戦時中の同じ程の子どもが「露営の歌」を口ずさむシーンがありました。

 その際、祖母がつられて「勝ってくるぞと勇ましく」と謡ったので、その歌を教えて貰いました。

 何の本でしたか忘れましたが、祖母の古い小説を漁っていると戦時歌謡曲などを集めたものを見つけ、そこに幾つかの軍歌が載っていたので、祖母に謡ってもらったのを覚えています。

すると、戦争ドラマの荒廃した様子と私の虐待時の陰鬱たる日々が重なり、軍歌を謡っている間は何となく子供心に感傷に浸れる感覚がありました。

 また、軍歌の数多くには士気高揚を目的とした勇ましいものがありましたので、勇気が湧いてくることがあり、辛い時ほど自分にとって今は戦時中のようなものだからと言い聞かせながら、軍歌を心の中で謡うことでスッとしていました。

 無念の歯がみ堪えつつ 待ちに待ちたる決戦ぞ

嗚呼神風特別攻撃隊

小学時代は居場所の確保に道化を演じ、中学時代は英語の授業に違和感を懐き始め、なぜ日本の国に生まれた自分が英語なんて勉強しなけれならないのかと不登校がちとなり、高校時代になって一冊の本と出会います。

テロルの決算/沢木耕太郎(文春文庫)

昭和35年10月12日、東京都千代田区にある日比谷公会堂にて、17歳の右翼少年が浅沼社会党委員長を刺殺。

 その後、練馬の少年鑑別所で縊死。

七生報国 天皇陛下万才

山口二矢

年齢が然程変わらぬ少年がここまで命を賭せるものなのかと衝撃を受けました。

ワレ思ウ何ガ為ニゾ人々ガ オノレヲマゲテ生キル
生キルタメ何デ出来ヨウ オノレヲマゲテ人ニヘツラウ

山口二矢

高校時代の私はというと、卒業した後にどう在りたいというビジョンも特にありませんでしたし、勤勉などとも程遠い有り様でした。

そんな中、参加したのが高校の隣町に当時あった右翼団体です。いわゆる街宣右翼でしたが、内実とてもじゃありませんが正統な団体とは程遠い似非右翼です。現存している様ですので多少は憚りますが、本当に國の事を考えて活動している団体では無かったと感じます。

 当時、私が最も絶望感を得たのは関係者がある事件で逮捕され、その後にガサが入ったという状況を目の当たりにした時です。捜査員が大勢やってくる中、数日前には日教組の教職員集会に対する抗議行動にて、「我が國の歴史認識を歪め、敗戦史観による洗脳を施し、未来ある我が國の子ども達を欺く、売國の徒なのであります!恥を知れ!」とは何だったのかと葛藤しました。

 我が国を憂う者が諸般の事情から私利私欲を貪り、我々10代の準構成員3名には何一つ説明はなく、只々狼狽する會長に不信感が増します。右翼の本分にあるまじき事態です。

 この頃だったでしょうか、当時の交友関係の身内に歴史ある正統派右翼団体の會長がおられ、ある日、事務所付近で呼び止められて「あんな似非のどこが右翼だ!」と怒鳴られました。

 私はこの時に入る団体を間違えたと酷く後悔を覚えたものです。

 のちに振り返ったのは、今でさえネットでは検索できますが、どこが似非で正統かについては当時も今も判断が難しかったと感じられ、当時は情報が少なすぎますし、今は情報が錯綜し過ぎる上に、妨害勢力が好き放題に嘘を流せてしまいます。

 結局、私はこの団体にいる間に2回逮捕され、以降は特定の右翼団体には参加せず、当時普及し始めた頃だった筈ですが「魔法のiらんど」のHPに「愛国者」が集まるホームページを見つける事になるのです。

 規模としてとても小さいものでしたが、そこに集まる数名には私と同じ年代の10代がいて、みんな丁寧な言葉遣いで我が國を憂いていました。私はこの時に日本各地にいるのだと嬉しくなり、そのホームページの掲示板で情報交換を始めます。

 ある右翼の50代から60代の男性にメールから電話番号を伝え、勉強させて欲しい旨を伝えたところ、折返し電話を頂きました。

 これまでの経緯を話し、山口ニ矢のように国のために活動したい為、そういった団体があれば参加させて下さいと述べると、その男性は確か東北地方の方で「若いのだから焦らずにまずは地盤を固めた方がいいです」と述べられ、親切に当時の対外情勢、国内の動向などを説明して頂きました。

 この頃になりますと、右翼団体に参加するよりも全うな右翼人から学び、自分たちで理想の活動を展開していこうと考えるようになっていました。

 それからも愛国者掲示板で知り合った方々と連絡を取り合い、街宣右翼時代には高校を退学処分となっておりましたので、塗装工に従事しながら活動を始めるようになります。

 平日は正業、休日になると勉強の傍ら某駅の広場に拡声器を持っていき、自分で作成した檄文を讀みあげるという生活が続きました。その活動報告を掲示板で知り合った日本各地の右翼少年(中学生や高校生や有職少年ら)や右翼活動に専念されている成人と交わしながら鼓舞しあいます。

 この頃、駅付近ではカラーギャングと呼ばれる集団を見かける事が多く、その度に日本国内でアメリカの真似事をしやがってという違和感が募っていた時期でもあります。

当時も、戦略的親米路線を持つ右翼が数多く存在していましたが、私は反米傾向が強く、1つに思想の根元に祖母の戦争話による影響が大きかったと感じます。

 また米国が我が国に対して投下した原子爆弾の正当性について、戦時中という状況をいくら鑑みても理解を示せず、日本が軍事の面で自主性を保てない背景には、国内に散在する占領軍と言わんばかりに厚かましい米軍基地に大きな要因があると考えておりました。この点について当時、対中対露を軸に核兵器を持たない日本が非侵略を保つには、日米連携による防衛は避けられないとする論調はありましたし、私も一部納得するものでしたが、日米同盟の信頼性への猜疑心、その状態に甘んじることで国防意識の低下や喪失を招来するのではないかと議論していたように思います。

 他にもざっと挙げていきますと、唯一の被爆国であるからこそ核武装には断固反対であり、核攻撃を受けたという忌まわしい事実を核廃絶の筆頭国として存在感を示す強みとすべきであると考えていました。天皇という存在は日本にとって核を成す「国」そのものであり、天皇在ってこその日本、日本国民が唯一団結できる精神的支柱である。故に天皇主権には反対であり、先の大戦のように日本が敗戦した場合に、その責任を押しつけられたならば、国家崩壊であるばかりか「日本消滅」の危機を招くと憂いていました。

 対外姿勢についてもこの頃では街宣右翼時代に軸とされていた反共色が残っていましたが、のちに対米従属の打開と汎アジア主義に傾きます。

特別少年院を仮退院後、民間同盟の視点から中国とロシアの仲間たちと共に「極東防米ライン」の建設を夢見た時期があります

そんな日常の中、私はもう1人の少年Aと共に突然それまで住んでいた町を離れる事になります。事前に何の前触れもなく親や友人や恋人などすべて断っての事です。この時、1人の少年は地元に残ります。1つに緊急性を要した事が大きいですが、行き先は紹介者による指示です。

 私とAが訪れた先は、冒頭で述べたように閉鎖環境ですが、何か起きるとすぐに話が回り、余所者がやってくると目立ちます。例えば実際にあったのは、警察が嗅ぎ回っていた頃に近隣に警察車輌が停車していると、地域の人間伝いにすぐに回ります。「そこの○○のどこそこに警察の車が止まってたよ」という具合にです。


 私達は少なくともそこで半年近く生活していましたが、人間は非常に良い人達ばかりで、地域が特殊という以外は何ら他所と大きな違いはありません。

 私達がやってくると同世代の仲間たちが連日集まり賑やかでした。他所からやってきたという事で変化が生まれますので、本来は排他的であるはずなのですが、こちらは紹介者の指示でそこに来ていますし、当時寝起きしていたのは有権者宅でしたので特に問題が無かったのだと思います。

 その地域には同世代の少年が1つのグループを形成していましたが、暴走族でもなく、強いていうなら愚連隊に近いのかなと思うとこれも違和感があります。

 のちにふと思ったのは、2003年に千葉県で発生した墓石事件のグループに様子が少し近いと感じました。

 私達とそのグループで交友する中、ある日、某ビデオレンタル屋で借りてきたヒキタクニオ原作の「狂気の桜」を目にした時、これだと感じました。

凶気の桜/ヒキタクニオ(新潮社)

高校時代にIWGPの影響から数多くのカラーギャングが発生し、それは右翼時代に街頭で目にした集団に対する違和感を思い起こさせます。

狂気の桜の中で、窪塚洋介、須藤元気、RIKIYAの3人は右翼団体の會長に認められナショナリズムを元にしたグループを形成しますが、その過程で右翼団体の闇を目の当たりにして葛藤していきます。

 偶然にも私達の状況と重なり、この模倣グループを形成すべきだと話し合いました。当時の若僧が考える事ですので短絡的に思えますが、この時ばかりは状況の見事な一致が神の啓示のような心境で、一切の迷いがありません。

 ナショナリズムに関連させた自警団を作り取り締まろう、連中がHIPHOPなら自分たちは軍歌だ、アメ車を見かければ街宣車を横につけ停車させろ、日本人なら刀だ

それから間もなく、私達は冒頭の強盗致傷事件を起こした後、私を含む2人が同日出頭します。

のちに送られた特別少年院で新渡戸稲造の武士道を読んだ時、「武士道の武の字も心得ない当時の自分」を思いっきり張っ倒してやりたい心境に駆られたものです。

短絡的な発想が増幅していく中、集団の中で違和感が殺されていく怖さについて、警察は「群衆心理」という言葉を用いていましたが、確かに「違和感」に異を唱える事を躊躇う雰囲気が我々の中で漂っていたと感じられてならないです。

気づけば狂人のそれだった訳ですから。

 閉鎖環境から去る間際、その環境に元いた仲間たちと私とAの約10名は憔悴しきっており「この生活から抜け出したい」と口にしていました。其々の中で違和感は確実に残っていて押し殺していたのだなと、その時に感じました。

(長くなるので割愛しましたが、当時この集団内で規律を乱した仲間をリンチする制約がありました。みんな次は自分ではないかという恐怖が支配していた。この部分についてふと思うのは、北九州事件のマインドコントロールや連合赤軍の総括に共通点を見出します。昨日まで仲間だった者に凄惨なリンチを加える。私達がリンチしていた場所は外から絶対に見えない竹藪でしたが、そもそも警察がその地域に殆どやってこないので、下手すれば死んでいた筈です)

 かれこれ約20年が経過した今、こうして振り返ってみても、「山口ニ矢から狂気の桜、なぜなのか」と思う反面、命を奪っていたらと思える場面に至るとゾッとします。

 送られた特別少年院に生命犯を見つけると、(この少年はこれからの長い人生をどう償って生きていくのか)と考えさせられる中、(もしあの時に私が人を殺めていたら、今と心境に違いはあったのだろうか)などと延々と堂々巡りする思いでした。

 特別少年院は決して最初から最後まで順調ではありませんでしたが、途中、調査となった時に事例①の傷害致死A君の様子を見て、ここまで来た以上は無難な生活よりも、どんどん自分を曝け出して例えそれで期間が伸びようと構わないので、法務教官に軌道修正してもらいたい一心でした。

 ある日、少年院で躓いた時に法務教官が言っていた。

 「少年院に来たら更われるなんて勘違いするなよ?」

 「あんたらは言わば先生にとって客みたいなもんで、こちらがいくら手を差し伸べて手助けしても、あんたらが前を向いて更わろうとせん限りは少年院に来ても無駄だ」

 のちに社会でもそれは一緒だと感じたもので、やはり法務教官の言葉には、間違っていないと感じられる言葉が多かったように思います。

 國想ひ 人を想わぬ 愚かさの
 何故だ何故だと 罪を数える


最後に

私は「更生」という嘘くさい欺瞞が嫌いです。
ですから私自身が「更生した」とは全く思っていませんし、「更生した」という者を信じていません。
自分で決めるものではないと考えていますし、「更生」したかどうかは死ぬ日まで分からない。

なので今後も自己満足の「更生物語」は一切書かないと決めています。淡々と事実を記す中で、世間に現実を知らしめ、それが考える材料となれば本望です。

私は特別少年院を仮退院してから現在まで、元犯罪者として生きる覚悟を決めています。
犯した罪を世間が忘れようと、被害者に与えた傷やトラウマは癒えません。
イジメの被害者を例に挙げても分かりやすい筈です。した側は忘れて何食わぬ顔をして生きていても、された側は時々思い出しては苦しむ繰り返し。私にとっての虐待被害もそうだったので、少しは寄り添える思いです。

まともになろうとすればするほど、過去にしてきた理解し難い一部始終に苦しむ連続でした。今後も自分自身と向き合っていく所存です。

■御用事・御質問など何でも下記へどうぞyama815kamikaze@gmail.com


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