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【真宗、もしくは仏教における智慧】

【真宗、もしくは仏教における智慧】
六波羅蜜と真宗の関係をここのところ書いてきました。
いよいよ最後の6番目「智慧」について書いてみようと思います。智慧と一言で言いますが、普通名詞としての智慧は無知や愚かさの反対ということですよね? 
では、仏教においては何が無知であり、愚かさなのでしょうか? 
かなり煎じ詰めると、

  1. 何が必ず味わうことになる苦しみなのか、意識していない。 

  2. それの原因になることが何か知らない。 

  3. それを解き明かした仏陀の教説に対して無知であり理解力がない、ということになりますでしょうか?

ただ、1に関して「生死の苦しみ」と表現すればまだうなずく人が多いですが、「流転輪廻の苦しみ」などと言うと、近現代人はその人生の捉え方自体が無知であり迷信で科学的でない…などということになる人が多くいそうです。ここのギャップを論じるとまた文章の量が必要となるので、この文章の目的、大乗仏教の基礎的な修業理解と真宗の理解の仕方ははなはだしくちがうのか、そうでもないのか?という話に外れていくのでこの辺にして話しをもどします(…(笑)…又、脱線しかけた)
あくまで仏教内部で真宗は他とそんなにちがった宗派なのか?…を考えてみるには他宗の「智慧」に対する見識を見てみないといけません。
前に引用した『八大人覚』(道元禅師が重んじた)に、「「聞思修証」(もんししゅしょう)を起こす、智慧となす」という表現があります。
1).「聞」とは仏陀の教えをよく聴くこと 
2).「思」とは聴いた教えをよく思索すること 
3).「修」はそれを身についたものにするために行をすること 
4).「証」はそれが借り物でなく自分の見識として内側から湧いてくること
……です。
こうやって身についていくものが、道元さんにおける仏教の智慧のようです。真宗においてもさすがに聞と思に関しては同じかと思います。いくら絶対他力といっても仏教が苦楽をどう見ているのかも無視して、とにかく唱えれば助かる呪文だというのではないですね。(ものすごく苦しい臨終時に善友に勧められて称える、というのは例外的に聞思を問わないところもあります。)…ただ曹洞禅には坐禅という「修」の部分を代表するかたちがありますが、真宗にはそういったものがありません。 
かたちとして行ずればいいというものがありません。せいぜい「助業」(助けになる行為)として経典や先人の作った偈(げ)を読誦することが勧められている程度です。
そういう事情なので、先人たちのエピソードとして伝わっているものも、いくら聞思してもわからない、ずーと深層に染み込むまで聞思し続けノイローゼ寸前の頃、ある日「ふと、わからせてもろうた。」という感じのものか、大病をして自分の無力を思い知った末、その状況を通じて「わからせていただいた。」などのものが多いです。
「修」が無くていきなり「証」が来る、に近い感じでしょうか? もしくは真宗においては生きることそのもの、そこで起こることを「修」とするということでしょうか?、そして、その後の「証」の内容も“自分には一貫して修の部分をやる器量がない、しかしそんな自分に六波羅蜜の徳を備えた智慧がこの身に来ていることに気がついた、それを感謝し続けることならできるかも知れない”、ですので智慧の内容も仏陀のごとき見識が自分の内から湧いてくる、というのとはニュアンスが違っているかもしれません。(実際、親鸞さんにおける「証」は「往生」であって〔主著の『教行信証』がそういう構成になっている〕、この身で仏陀と同じ見識をもつことではありません。)
こういう違いが「この世で仏陀と同じ見識をもつ」、という「悟り」が証である宗派とは違う面があるとは言え、真宗にもこの世において身につく六波羅蜜・6つめの「智慧」というべきものは存在します。別にあの世志向だというのではありません。金子大榮という大先輩のお言葉を借りるなら

「ものわかりがいいという言葉はちょっと通俗的ではありますけれども、広大勝解(こうだいしょうげ)というようなものではありませんか。どうでも金がたくさんなければ富でないというのはものわかりがわるい。あんまりものしりになるとものわかりがわるくなる。念仏者はものわかりがよく__中略__これが富であります。」

というものです。ひどく簡単な言葉を使われてますが、今日でも富と知識というものは何としてでもなければ幸せにはなれない、という見方は普通にある見識で、これが「偏見である」…ということが心の底からわかるというのは智慧波羅蜜の成就である……と言うことが出来るかと思います。
そして “心の底から” という限定がつくと、この世で提供されている普通の教養ではまずわからないと思われます。 何故なら究極、“人間、肉体の命がなければ幸せにはなれない”、ということとそれは関係していて、そういう自己保存本能を超えた“広大勝解”と言うべきものは仏教などの宗教によってしか得られない特別なものでしようから。 
真宗や仏教における “智慧” は「こだわりをすてて、ものわかりがよくなること」と簡単な言葉で言えばそうなりますが、それがどれ位の深さでどれくらいの柔軟さを持って、ということが問題なのだと思います。


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