関正生現象についての小考察


学ぶことは本来しんどい。これを否定してはおよそあらゆる学問も勉学も成り立たないだろう。語学でいえば単語を覚える、熟語を覚える、文法を理解するなど、これらは皆しんどい。しかし、残念なことに、このしんどさへの耐性を生得的に持つ人は少ない。とくに教育の水準が中等教育以上の段階に上がると、その耐性の差は大きくなり、おそらく一握りの層の人間でなければ学ぶことを継続するのは困難になっていく。それゆえ、かつては少数の能力と意欲を備えた層のみが大学へと進学し高等教育を受けていたのである。


しかし戦後日本の教育の大衆化のなかで、高校進学率はほぼ100%となり、大学進学率も50%を越えていくという現代において、本来は学ぶこととは無縁の大衆も高校で学び、そして大学を受験することが実質不可欠となっていく。そして学ぶことの耐性を持たない大衆が、学ぶことのしんどさに直面しなければならなくなった。

そうした大衆はラクすることを求める。覚えるのは面倒くさい。理解するためにじっくり時間をかけ考察することに耐えられない。それゆえ、彼らは「覚えろ」という指導やじっくり時間をかけて考えることの大切さを説く指導についていけない。むしろ勉強において「こうすればすべてうまくいく!」と断定的に請け合ってくれる指導者を求めるのだ。


そして、こうした大衆の意向を察知し、それに迎合した指導者が現れる。厳密な学問的観点から見ればあまりに粗雑であることを百も承知の上で、あるいはそのことに全く気付かぬ鈍感さをもって、人々からの喝采を得んがために、彼は臆面もなく数々の断定を下すのである。

彼は請け合う
「ask him はアスキンだ!」

「out of はアウダだ!」
「〜lyは『すごくだ』!」
...etc

こうした断定は学ぶことの苦労から解放されたい圧倒的大多数の大衆からすれば、まさに救いの神のように見えるのである。それゆえに、彼の発信は世の中からもてはやされる。

もちろん、専門的視点から見れば彼の発信内容はほぼデタラメに等しい。しかし、ラクをしたい大衆を前にしたとき、問われるのは厳密な「正しさ」ではなく安直な「もっともらしさ」である。分かったつもりになれるような簡便で断定的な言葉こそが、大衆的熱狂をもって迎えられるのである。

馬子にも衣装ではないが、どのようにデタラメな指導であってもそれが大衆的熱狂をもって迎えられていれば社会全体に「正しい」ものとして認識されてしまう。

ましてやここ数十年の日本社会は暗記教育を否定する方向に進んできた。「詰め込み教育」が子供の学ぶ力を抑圧しているとの認識があたかも常識のように語られてきた。しかし問題の根本は、本来勉強や暗記に縁の無い層を暗記が必要な勉強の世界に引きずりこんだ教育の過度な大衆化にあるのであり、暗記そのものは決して否定されるべきではない。

だが現実にはそのような歴史的推移は理解されることはなく、教育の専門家でさえも暗記を否定的に捉えるほど、世の中の多勢は覚えるしんどさを回避する傾向にある。そうした社会において「こうすればすべてうまくいく!」という安直な指導はとても耳に心地よく響くのである。

先行きの見えない大衆に対して、その内容がいかにデタラメであっても、耳に聞こえの良いの内容を断定的に発信し支持を得ていく政治を大衆迎合主義というならば、関正生的現象は戦後日本の過度な教育の大衆化が生んだ、英語界における大衆迎合主義である。

しかも政治の世界における大衆迎合的政治家とは異なり、彼は決して責任をとらない。政治家であればその大衆迎合的な化けの皮が剥がれたとき、彼は失脚するだろう。しかしこの指導者は予備校の教室で生徒の前に出ることはせず、常にパソコンやスマホの画面の向こう側にいる。そのようにすることで、彼は自身のデタラメな指導が生徒を合格へ導けなかったときの責任を回避しようとしているのであろう。そして自身の尊大な自信の源を自身の英語力に置くのではなく、大資本の広告宣伝力を背景に伸ばした自著の部数に置くのである。


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