早春
1956年 小津安二郎監督
池辺良(杉山正二)
淡島千景(杉山昌子)
岸恵子(金子千代)
杉山正二(池辺良)と杉山昌子は結婚後数年経ち、子供を伝染病で亡くしてから、ギスギスした関係が続いている。金子千代(岸恵子)-通称金魚 は少し蓮っ葉な女性として描かれ、杉山に気があり半ば強引に言い寄る。
終戦後10数年、蒲田の工場地帯が舞台、高度成長を支えた自分の父親の世代だ。
杉山も戦争帰り。戦友会の仲間たちの描き方が面白い。中国戦線で戦った戦友らしいが、徹底的に野卑で汚らわしい存在として扱われている。小津安二郎の認識もあっただろうが、昌子の彼らを見る軽蔑し切った目線がすごい。
お国のために戦って死線を彷徨ったなどの尊敬の念は微塵もなく、汚らわしいところに行き、汚らわしい行為をして帰還した汚らわしい人たち、言葉には出さないが戦地から帰った人を見る目には間違いなくこのような目があったに違いない。戦争を起こした行為を批判することはなくても、戦争は醜く汚らしい行為だという暗黙の認識があったことは何か救われる。
そして興味深いのが金魚と杉山夫婦をめぐる不倫関係。金魚の強引な接近、まんざらでもないが最初から腰が引けている杉山、当然ながら夫婦関係にも亀裂が生じる。
ただ不倫に対する倫理的な障壁が今よりもかなり低かったような気がする。不倫という言葉自体はあったかもしれないが大っぴらに使われ始めたのはこの10年、20年ではないか。それは芸能人らの不倫を一般の人がこれ見よがしに非難する構図が大半だ。うまいことやりやがって許せない、ルサンチマンそのものだ。しかしこれは当然自分たちにも跳ね返ってくる。
本来男女の関係は古代から婚姻だけにとらわれず、おおらかでゆるい関係のはずだった。
この映画の中では、杉山の元上司や昌子の母親などがうまく収める方向に動き出し、元のさやに戻る。小津安二郎の杉山を見る目も心なしか優しい。
現代だったら亀裂が生じた夫婦関係は自分たちで何とかするしかない。
若いころはこのような身の回りの安全装置を疎ましく思ったに違いないが、なかなかうまくできた装置であった気がする。これらも核家族化と終身雇用制の崩壊で消え去ってしまった。
この映画の中では、淡島千景がなかなかいい味を出している。不満と不安を激情的に出すのではなく、自分の中に抑えそれでいて後ろ姿にはしっかり気持ちが表れている。岸恵子がここでは自分を抑えない奔放な役割を演じているのと対照的だ。
そして小津安二郎。この映画では珍しく、淡々とした日常ではなく破綻を垣間見せた日常が描かれてる。それでも、感情の変化、揺れ動きを役者に直接表現させるのではなく、「物」によって表現させているところが憎い。
杉山の転勤先に黙って現れた昌子の場面を、下宿先に掛かった女物の洋服で表して、昌子が訪れ、すべてを清算し新しい生活が始まることが一瞬に分かってしまう。不要な説明や情感抜きに分からせてしまう。これが小津の真骨頂だろう。