自分記録

私は何者かになりたい。何者かになって私のアイデンティティ、自分の価値を絶対的な「何者か」にゆだねたい。

早く何者かになりたくて、いろんな環境に飛び込んだ。TABIPPO、
LES WORLD、沖波祭。どれも刺激的で、周りもすごい人ばかりで、この環境ならすごい自分になれるんじゃないか、そう思った。






でも結局何者にもなれなかった。「この環境で活動している自分が好き」ただそれだけで終わってしまう。毎日やるべきことがあって、でも疲れてるだとか、なんだかしんどいで、やるべきことをその日に終わらせられない。そこから罪悪感で自己肯定感が下がっていく。




なぜ私は、他人の言動や行動、周りの環境からでしか自分の価値を測れないのだろう。自分の価値は自分の中にしかないはずなのに、他人からの評価でしか幸せを感じられない。ここ最近はずっと暗闇の中をさまよっているようだ。

むずかしい。「個性を大事に」とか「本当の自分」とか、「主体性」とか、「自分とは何か」なんて、最近よく聞く「本当の自分を探そう」だなんて、そんなのあるはずないのに。これまで関わってきた人たちが今の私を形成しているのに、そうやって生きてきたのに今更「本当の自分」なんてわからない。なのに社会にでたら自己主張を求められて、それが面白くなかったらすぐ潰されていく。

そんな世の中だ。もともと世界は残酷なんだ。そんな一言で開き直れるような世界ではないことも知ってる。

環境は幸せなほうだと思う。家族がいて、家があって、友達がいて、頑張れる環境があって。でも常に孤独と不安がつきまとう。他人に自分の存在意義をゆだねてきたもんだから、一人になったときにとてもさみしく、自分の存在意義がわからなくなる。こんなことぐるぐる考えてても、いい方向には進まないし、そこから思考回路をポジティブなほうに変換するべきだけど、今までの思考の癖はそんなすぐ治らない。

人を笑わせるのが好きで、常に人の顔色を気にしながら生きてきた。「人から好かれやすい自分」が好きだった。それが自分の存在意義だった。

年を重ねて、いろんな環境に触れて、生き方に触れると、そんな単純に他人は動かなくて、「自分が好きなもの」に集中してる人がとてもうまく生きているように見えた。人の判断に流されていた自分は急に孤独になったような気がした。

それがだんだん強くなっている。本当に私が好きなものは何だろう。ワクワクする瞬間はいつだろう。幼いころから自分の気持ちを無視する癖がついているからすぐに思い浮かばない。自分に対する問いなはずなのに、悩んでしまう。これでぐるぐるうじうじしている自分は好かれないんじゃないか、、、そんなことを考え始めて思考回路が悪循環になってしまう。

私を身にまとう環境が私のアイデンティティになっている。でもそれは常に変わりゆくもので、とても不安定。絶対的なものではないからまた孤独に戻る。

ZORNは「孤独が相棒」と言っていた。私もこんな風に言えたら。

「他人から求められる自分」に執着しすぎた。この人はこんな私が好きだろう、あの人はこんな私が好きだろう、、そんなことを考えてたら生きずらくなるに決まってるのに。

その結果最近本当に誰といても喋っても何をしても常にさみしさが付きまとってくるようになった。

どうすればいいですか?病院行ったほうがいいですか?今日いのちの電話みたいなやつに電話かけました。でも電話の外にいるのは他人で、私は私が大事だと思ってる人に、助けてほしくて、その電話は死にたい人用の電話で、私は死にたくなくて、言いたいことがうまく言えなくて、1分も満たずに切ってしまいました。誰かに助けてほしいのに、また「他人から求められる自分」を意識して、こんな思考回路してるの知られたくなくて誰にも言えない。その誰かに嫌われるんじゃないか、めんどくさがられるんじゃないか、幻滅されるんじゃないかって。だれも私に期待なんかしてないはずなのに、承認欲求だけはあって、自己肯定感低くて、、、そんな自分だと嫌われるんじゃないかって思う。ほんとにどうしちゃったんだろう、こんなの自分じゃない、、、

とにかく考えすぎだ。シンプルに生きよう。心を取り戻したい。こころがワクワクするほうへ行動する。「やりがい」だとか、「効率」とか、「目的」とか考えても答えのないものに執着しすぎず、心の赴くまま進もうかな。

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