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でんでんむしのかなしみ

 出逢いって不思議だなあと思う。
 人との出逢いも、推しも、小説も、なんだってタイミングが大事だ。
 彼と別れた後だったからこそ響いたことはたくさんある。

 「でんでんむしのかなしみ」もそうだった。
 新美南吉が書いた掌編のひとつ。
 初めて出会った時、ただただわたしは「でんでんむし」ってだけで反応していた。わたしの実家ではなぜかカタツムリを飼っていたことがあったし、実家の犬のあだ名が「でんでん」だから。(まあそれはでんでん太鼓みたいなしっぽの振り方からなんだけれども)とにかく、なんだか縁がある生き物だなあ。それだけだった。
 姉と出かけたいちご狩りの帰りだった。出かけた先の半田市には新美南吉記念館があり、「そういえばうちらのお母さん、新美南吉好きだよね」とその場のノリで立ち寄った。

 新美南吉といえば、「ごんぎつね」や「手袋を買いに」が有名だ。誰もが教科書や絵本で読んだはず。もちろんわたしだって何度も読んだことがある。でも「でんでんむしのかなしみ」はその時に初めて読んだ。その時の感想は、「新美南吉はナメクジは悲しみを背負ってないとでも?」とかそんな感じだった。(そんなことないよ…)
 その時は、やっぱりモチーフとしてのでんでんむしは好きなので、記念に本とでんでんむしを模ったブローチを買った。帰宅してそれらをカラーボックスにアクセサリーといっしょに飾ってはいたけどそれだけ。特に思い出すことなく、その後の月日を過ごした。

 様々なことがあって彼と別れた。彼の荷物を送るために部屋を片付けた。付き合って5年、同棲したのは2年程。意識はしていなくても部屋のあちらこちらに彼の欠片は散らばっていた。わたしのものばかりのはずのカラーボックスの上にも彼のサングラスがあって、手に取った時にそれが目に入った。
 埃が積もってるほど放置していた「でんでんむしのかなしみ」
 買ったのは2年前か3年前だったか。
 そういえばどんな話だったっけ?と本を開いた。

ーーーわたしはわたしのかなしみをこらえていかなきゃならない。

 わたしがまさに今、彼に送りたい。そんな言葉だった。初めて読んだ時にはまったく響かなかったお話なのに、衝撃が走った。そうなんだよね。みんななにかを背負っている。わたしたちはでんでんむしなんだ……。
 わたしがこのお話を好きなのは、でんでんむしがなげくのをやめて明るい方向へ行ったのか暗い方向へ行ったのか新美南吉は書いていないところだ。かなしみの質や大きさもなにも記されてないし、みんな悲しいのはおんなじなんだからがんばろうね!みたいな終わり方でもない。
 かなしみだけじゃなくてしあわせも詰まってるよ!とも書いてない。
 子供向けの話を書く人ではあるけれど、「ごんぎつね」だってハッピーエンドと捉える人もバッドエンドと捉える人もいる。
 みんな、かなしみでいっぱいならしかたがないか。はじめのでんでんむしはそう思って前向きに生きたのか、どうなんだろうか。

 一瞬、ほんの一瞬だけ、彼に送る荷物にこの本もいれてしまおうか、と思った。だけどすぐに違うと思った。彼自身で、「かなしみをこらえなければ」と思えないと意味がないと思ったのだ。彼はまだかなしみの渦中にいるし、自分だけがでんでんむしだと思っている。自分だけがふしあわせだと思ってしまっている。だから「いきていられません」となってしまったのだ。

 悩んで、悩み抜いて、結局わたしは彼とは別れを選んだし、そのことについての後悔はない。わたしにできる正しい選択だったと思う。
 でもわたしは彼に不幸でいてほしいわけではない。彼が、いつか自分のかなしみの大きさを嘆くのをやめられるといいな、と本気で思う。