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『雨月物語』青頭巾

信念の方向

今回は、『雨月物語』の青頭巾を「直くたくましい性」「一如」「執着」の三つのキーワードを中心に論じることにした。なぜなら、私がこの作品を読んだときに一番に感じたものが信念だからである。


 山寺の徳の高い僧は美しい少年に惹かれ、愛欲に溺れたことで人の肉を食べる鬼となってしまった。この愛の執着が人間を鬼へと変えてしまったのだ。何かに魂を貫き、真っ直ぐ思いを寄せることは美しいが、一線を超えてしまうと恐ろしい執着になってしまうのだ。その後、鬼僧は快庵禅師に出会い、素直に教えを受け、ひたすら二句の証道歌を唱え続けた。これによって鬼僧は往生することができた。ここで注目すべきは快庵禅師である。一般の僧であれば、人を食べると噂をされていた鬼僧の所へ堂々と赴き、教化することは難しいだろう。おそらく、禅師は、凄まじい執着を持って鬼になったのであれば、それを仏道の方へ向けてあげることができれば元の人の心に戻すことができると考えたのではないか。つまり、禅師は直くたくましい性を利用し改心させたのだ。この考えがあったからこそ自信を持って教えを説くことができたのである。


 そして、快庵禅師は青頭巾を鬼僧に被せる。青という色は清く誠実で、落ち着いたイメージがある。これを頭にかぶせることによって、すべての煩悩を捨て、罪を償って心を清らかに一新させろということである。だから、青い頭巾を被せたのである。これは一如を説いているのだ。つまり、鬼になってしまっても万物の本質は同じであり、仏道に対して強い思いがあれば元の心に戻れるということだ。


 また、この物語は教訓的な側面もある。それは読者に人間の執着の恐ろしさを伝えているのである。鬼となった僧が救われようと必死で歌を唱え続ける哀れな姿はその恐ろしさを最も印象付けている。そして、一途な心は一見、良いことだと思うが、物事や度合いよっては悪いい方向にも転じる。つまり、直くたくましい性というものは善悪、はっきりしない難しいものだという教えも含まれているのだろう。また、最後に信念によって鬼が往生することを描いている。これによって信念自体はとても大事であると説いている。なぜなら、鬼という悪い状況から往生という良い方向へ導いてくれたものだからだ。しかし、真っ直ぐ信じる心が悪い方向に導いているのも確かである。つまり、この物語は、信念は大事だがその度合いと方向を見誤るなと教えているのである。