精一杯


"感性"豊かな人間が努力をした結果、「才能」という言葉に変換されていると思う。人間誰しもが、はじめは初心者からスタートする。教えや失敗をどのように受け止めて、自分のものにするのか。この感性が才能の原点なのではないだろうか。まぁ要するに才能がある人は感性もしくは感受性が豊かってことが言いたい。


僕が好きな戯曲に「今、出来る、精一杯。」という根本宗子さんが書かれたものがある。スーパーで働くめんどくさい人達やその周りにいるめんどくさい人達の人間関係や変化があまりにもリアルに描かれているもので、人間1人1人にはそれぞれの感性があって、その人なりの受け止め方や限界があって。「今、出来る、精一杯」の中で生き抜いて行こうというメッセージが込められた物語である。


話を戻そう。

才能がないと芸能界や音楽業界で活躍することは難しいと思う。つまり、僕の持論から鑑みると芸能界や音楽業界で活躍する人間は感性がとても豊かであるという結論に行き着く。だから人よりも色々な事に気づいてしまう。嫌でも受け止めてしまう。こればっかりは育んだ感性がそうさせてしまうから仕方がない。そしてその上に、人それぞれの許容量、精一杯が存在する。


表舞台に立つ人間にはSNSの発展で常に批判や誹謗中傷がついて回るようになってしまった。エゴサを鬼のようにしても全然平気なDJ松永さんみたいなタイプもいれば、エゴサなんてもってのほかでSNSとは縁を切ってるタイプ(野球選手がTwitterをあまりやっていないのはこういう事なのかなと思っている)、批判や誹謗中傷さえもネタにして笑い飛ばしてしまうさらばみたいな人達もいる。

これが人それぞれの許容量。

「今、出来る、精一杯。」ではとにかく独白や吐露、己の醜い部分を曝け出すシーンが多く描かれていた。そうしないと、爆発してしまうから。精一杯以上の感情をひとりで抱え込んで、飲み込んで、我慢できなくなって。

結果、この物語では清竜人演じる安藤は人を殺してしまった。

ではこれが、自分を殺すという方向に爆発してしまったら。本当はこんな言葉で片付けて良いような問題ではないけれど、表舞台に立つ以上批判や誹謗中傷は"仕方がない"と割り切らないと、割り切れる人間でないと生き抜いていけない所まで来てしまっているように感じる。今年は特にそう感じさせられる事が多い。


無論、序盤は著名人に括って書いているが著名人だけでなく僕のような一般人と括られるような人達にもそれぞれの感性があって、許容量があって、精一杯生きていて。


ここからは少し自分の話。

身近だからこそ相談しにくい事は山ほどある。僕は基本、親族には相談できないタイプで、身近な人にほど、大丈夫。平気。と気取っている。けれど内心思う所、感じる所、その他諸々吐き出そうと思えば「酒50L飲んだ後の吐き方じゃ!」(.voは想像にお任せする。)ってツッコまれるくらい吐けると思う。


じゃあ、僕はどうやって生きてきたんだろう。

そう、ここ数年を想起した時、ラジオやリスナー友達の存在が大きかったなと実感した。学校で許容できないレベルの嫌なことがあったら、リスナー友達に愚痴って第三者的な意見もらってみたり、時には味方になってくれたり。もしくはわざわざその事を思い返して文字に起こして、投稿なんかしてみたり。


この文章を読んでいる人はラジオリスナーが多いと思う。リスナー同士付かず離れずで、そこそこ仲良くても実際は数回しか会ってないしな〜みたいな謎の距離感の人が多いはずだ。実際それくらいの距離感の方が色々相談しやすかったりする。少しくらい懐を見せたってそもそも数回しか会った事がない、もしくは一度も会った事がない人ならどう思われてもいいって割り切れるだろうし、なにせ恥ずかしいみたいな気取りが必要ない。その点においてはこの文章を読んでいる人にとって、良い発散場所が沢山あるのではなかろうか。


だからこれからも頑張ってのらりくらり、許容量になったら吐き出して、己の醜さすら受け止めてくれる人間を探しながら精一杯生きていく。

「生きる」という選択肢を選べるように。


「どうにかなるのさ 人生は」


おわり。













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