失われた時をもとめて

人の思い出というものは人や物、場所に根付いている。

ただ人の記憶は無限ではないし、物や場所も時間の経過で失われていく。

まとまった文章を書こうと思い立つ事はあまりないけれど、

自分が生きていた証とも言える思い出を、思いつくままに書いてみたいと思う。

竹下通りにはいろいろな思い出がある。

洋服屋、楽器屋、美容室にはよく行った。

洋服屋は原宿駅側から竹下通りに入った直後のすぐ右手側に曲がり、

吹き抜けのようなスペースにあった。

店舗ではなく、露店だったと思う。

ヴィジュアル系のアーティストが着ている服を模した服を売っている店だった。

私は服飾には疎いが、素人目線でもしっかりした縫製と生地を使っていて、

それでいて値段は抑えめだったと思う。

楽器屋は洋服屋を過ぎてエレベーターに乗り、3階だったと思う。

電子楽器を扱う専門店で、最新の楽器から所謂ヴィンテージ物まで

なんでも扱っている店だった。

レジがどこにあるのか分からないような店で、店員は修理で持ち込まれたり、客から仕入れた楽器を売り場に併設されたカウンター内で調整していた。

商売っ気のない店で、電源が入っている楽器は自由に試奏ができた。

さすがに高価なヴィンテージ楽器は触れなかったけど。

それなりに広い店舗に所狭しと新旧の楽器が陳列されているので、さながら博物館のような様相だった。

ここでは時間の流れがゆったりとしていて、都会の喧騒を忘れるような別世界だった。

美容室は竹下通りの真ん中あたりから路地裏に入った辺りにあった。

原宿の竹下通りにありながら、控えめな価格設定で若者の客が多い印象だった。久保コーイチ似の店主と、もう1人くらいのスタイリストで、少人数で営んでいたようだ。アジアンテイストのインテリアでこじんまりとした店舗で、待合スペースは小さかったけど、大きめのプラズマディスプレイにViewsicが流しっぱなしにされていた。

今になって思うと、どの店にも嫌な思いをした記憶がない。

もしかしたら嫌な思いをしたこともあったかもしれないが、時の経過で自分が良く思わない嫌な出来事は褪色して印象が薄くなっているのかもしれない。

思えば実店舗で買い物をすることが本当に少なくなった。実店舗で買うものは殆どが値段が安いものや頻繁に買う「いつもの」物ばかりだ。

店の雰囲気や現物の触感や雰囲気を感じて買う物を選ぶ、という当たり前のことに対する感受性が退化しているように思う。

楽器を所有していた理由は抑えがたい感情を吐露するためのツールとしてだった。体系的に作曲法を習っていたわけではないのでコード進行などを無視した演奏だったが、電子楽器は鍵盤をうまく弾けなくても機械に演奏させることが出来るので、自分にとっては都合の良いツールだったと思う。

今でも楽器は所有しているが、演奏したり作曲したりすることは全くなくなってしまった。たまったストレスを発散しなくてはどうにもならないような不安定な精神状態にならなくなってきたのが大きい。ほぼ同時に特定のアーティストやジャンルの曲を何回も聴き続けるようなこともなくなっている。自分にとって音楽とは現実から逃避したり、楽曲に自らの感情を共振させることを目的として聴いたり演奏したりすることが多かったように思う。感情の起伏が昔よりも平坦になり、それまで音楽に求めていたような目的で聞く必要性が薄れてきているからか・・・。

今はどちらかというと、公共交通機関で移動する際に、不快な雑音を遮るような目的でしか聴いていない。相変わらず病んでいる曲調を求める傾向はあるが、自分の感性に訴えるようなアーティストが少なくなってきているのか、自分好みのアーティストを探す触手が退化しているようにも思う。

加齢というものは、人の感情を鈍化させていくのではないだろうか。

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