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【世界をポジティブな輪で繋ぐトップフィジーカーになる】

みなさん、初めまして!飯室 陸と申します。

1997年生まれ、東京都出身の23歳です。(現在名古屋在住)

学習院大学を卒業後、現在は銀行で社会人一年目として働いております。

大学卒業後、何も考えず成り行きで社会人となった僕は、

「心の中ではもっとやりたいことがあるはずなのにそれを言葉で上手く表すことができない、何をすればいいのかわからない」

そんなモヤモヤした何か心が満たされない時間をずっと過ごしてきました。
そして自然と学生時代の時のような何かの目標に向かって本気で向き合う情熱を失いつつありました。

そんな僕ですが、最近(株)GOAL-Bという会社とそこで働く方々と出会い、僕の心のあり方や考え方が大きく変化し始めました。そして何より人生に対する本気度が変わりました。

今溢れ出るこの熱い想いを誰かに共有したい。この気持ちが自然とnoteという使ったこともないツールに僕を向かわせています。

そして今

『人生を本気で変えたいと思っている人を、僕の生き様で変える』
『人生を諦めかけている人を、僕の生き様で救う』

僕は本気でこんな熱い想いを持っています。
いわばこれは僕の「信念」です。

今回は、特別なスキルも特別なマインドも特別な経歴も持ち合わせていない、ただただ一般人の僕がこんな想いを抱くようになった23年間の軌跡をこのnoteに全て綴りたいと思います。

僕は、まだ何も成し遂げたわけではありません。人に影響を与えるような自分史を持っているわけでもありません。
ただこんな風な価値観を持ち、こんな風に生きてきた僕が創りあげるこれからの生き様にワクワクしてほしい、何かを感じ取って欲しい。
そんな思いでこのnoteを綴ります。

長くなりますが、最後まで読んで頂けると嬉しいです。

1、幼稚園〜小学生時代:僕の大事な価値観が築き上げられた

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幼い頃の僕は、とにかくシャイで泣き虫だった。

見知らぬ人と話すなんて恥ずかしくてできない。
そしてとにかく両親から離れることが嫌だったらしく、トイレなどで両親の姿が少しでも見えなくなると
「ママ、ママ〜」
と言って泣き叫んでいたそうだ笑

シャイで泣き虫な僕だったが、子供ながら他人に対する優しさも同時に人一倍持っていたと思う。

幼稚園生の頃、女の子が男の子からからかわれていると
「女の子に悪いことしちゃダメだぞ」
とか平気で言っていた。今思うと相当恥ずかしいけど。

小学生2年生の頃、僕の席の後ろの子が体調を崩してしまい、僕の真後ろでいきなり嘔吐してしまった。目の前にいた僕は、当然自分の着ていた服に直撃してしまうのだが、そんなこと気にせずにその子の席の周りを雑巾で拭いて、保健室まで連れていったあげた。

困っている子をほっておくことができない。

僕は小さいながらもそんなことを感じるような子だった。

そんな僕だが、幼稚園から小学生の間で今の僕の大事な価値観を築き上げてくれた三つの大きな経験がある。
幼稚園から小学5年生まで続けていた水泳とピアノ、そして中学受験だ。

➀水泳
僕は、恐らく人並み以上に泳ぐことができる。水泳は僕の得意分野だと思う。

全ては、幼少期に通い続けたスイミングスクールのおかげだ。

でも当初は、泳ぎの才能なんてなかった。

僕のスイミングスクールは、泳ぎの試験を月1程度で行なっており、その試験に合格すれば、次のステップに進むことができた。

僕も最初の方は、順調に合格していった。
しかし、平泳ぎの段階で大きな壁に直面した。
なんとその平泳ぎのテストに合格するのになんと1年以上かかってしまったのだ。まさに12回以上試験に落ちたことになる。
何度練習しても足かきができない。お尻が水面からぷかぷか浮かんできてしまうのだ。

周りの子達がどんどん合格して次のステップに進む中、僕だけずっとそのクラスに居座った。試験で不合格になることがわかってたから、親にその姿を見せるのが本当に恥ずかしかった。

でも僕には昔から誰にでも誇れる天性の才能があった。
それは、
『どんな状況に置かれても逃げずに努力し続けられる才能』だ。

僕はこの才能をいかんなく発揮した。
逃げずに努力し続けた結果、なんとか平泳ぎの試験に合格。
そこからは、うなぎ昇りのようにどんどん上達していき、小学校高学年になると泳ぎに常にタイムを求めるようになった。
大きな大会などに出ることはなかったが、周りの子の中でもかなり速い選手になるまでに成長した。

②ピアノ
僕のことをよく知っている人なら驚くかもしれない。

あんなに音痴な飯室がピアノを7,8年もやっていたのかと。

でも僕は、結構しっかりとピアノを習っていた。
ピアノを弾くこと自体はとても好きだった。
楽器一つであんなに多くのメロディーを出せることに子供ながら感動した。
僕の大好きなスターウォーズのメインテーマを弟とデゥエットで弾いて喜んでいた時が懐かしい笑

僕の通っていたピアノ教室では、クリスマスの時にピアノ発表会があって、しっかりとした会場を借りてみんなの前で演奏する場が設けられていた。

基本的にその発表会に向けて準備をしていくのだが、僕には絶対音感というものが皆無だったためか、とにかく曲覚えが悪かった。
教えてくれていた先生は、いつも発表会に近づいてくるにつれて僕に対して焦っていた。

でも、発表会では毎回曲を完璧に弾きこなした。

ここでも僕の才能が発揮された。

母はかなりスパルタで家のピアノの前で何時間も座って弾き続けていたこともある。でも嫌になって逃げたことはなかった。
そのことが功をなし、曲覚えは悪かったけれど、とにかく練習回数を重ねていたため手の感覚が自然と体に染み付いていた。
そして本番では、自分でも驚くほど堂々と曲を弾きこなすことができた。

③中学受験
小学生中学年から高学年になると自然と中学受験への準備をしていくことになった。
特に小学5年生辺りからは、毎日のように学校が終わったら塾に直接行って、家に帰ってきてからも自主勉強。休日も当然のように塾に通い勉強、勉強、勉強。
正直、この頃が人生で一番勉強していた。

ただ、僕の通っていた小学校は受験をする子が多く、周りの環境的にも受験をすることは当たり前だと思っていたし、素直に受け入れることができた。

でも肝心の成績は一向に向上しなかった。
第一志望から程遠い現実。
模擬試験の結果が返ってくるたびに怒られ泣きながら勉強していた。

次第に受験勉強をしていることに相当なストレスが溜まり始め、
食事が全く喉に通らない時期もあった。なぜか子供ながら髪が抜けることにとても神経質になった。

「なぜ勉強しないといけないのか?なぜ遊べないのか?」
本当にきつい時期は、このことばかり考えていた。

でもなんとかやり続けた。いい学校に入学するため。本当にそんな思いだけで必死で勉強した。

結果、第一志望こそ合格できなかったが、学習院中等科に入学することができ、僕はそこから同じキャンパスで10年間も過ごすことになる。

合格した時、忘れられない光景がある。
あれだけ厳しかった母が、自分のこと以上に喜び、僕のおばあちゃんに泣きながら報告していた。
僕はこの光景を見た瞬間、母も命がけで戦っていたんだなと思った。高額の塾代、それに対して一向に比例しない僕の成績。相当のストレスを溜めていたに違いない。
この受験以降、僕は両親から怒られることはほとんど無くなった。


僕はこれら三つの経験を通して

『努力し続ける大切さ』

を痛感することになり、

『努力すること=僕』
こんな僕のアイデンティティ・価値観が形成されていった。

そんな子供時代を僕は過ごした。

2、中学時代:自分の現実を知り、そこから新たな発見をする

(中学野球部時の写真)

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無事、中学生となった僕だが入学してすぐに現実を知ることになる。

僕は正直、小学校高学年くらいになると「僕はなんでもできる」という謎の自信にありふれていた。
運動会のリレーではアンカーを務め、発表会の劇では主役を演じ、自分が書いた作文を全校生徒の前で読むこともあった。中学受験をしていたこともあり、小学校のテストもほぼ満点だった。

でもそんな自信は、中学に入ってからすぐに砕かれた。
自分より勉強のできる人は、山程いた。どんなに勉強しても、僕の成績は常に真ん中だった。自分より足が速い人も何人もいた。
僕はいわゆるなんも特徴のない普通の子になってしまった。

そんな僕だが、中学校では当然のように野球部に所属した。
もともと野球が大好きで何よりも父とのキャッチボールが何よりの楽しみだった。
「小学校時代の夢はイチロー選手みたいになること」
両親が野球の才能があるともてはやすものだから、僕も本気でその気になっていた笑
中学生になったら絶対に野球部入ると心に決めていた。

でもいざ入部するとすぐに気付いた。
「あっ俺このスポーツ向いてないわ」と。

なんとなくかっこいからという理由でセカンドをやっていたけど、センスが絶望的になかった。
部員数がかなり多く、中学から野球を始める子も何人もいたが、その中でも僕の下手さは際立っていた気がする。
バットのスイングはめちゃくちゃ、ボールの投げ方も取り方も不器用。
遊びで野球部以外の子と野球をする時、
「本当に野球部なの?」
思われるのが嫌でわざと力を抜いているようなフリをしていた笑

当然レギュラーなんてまた夢のような話。3年生になってもベンチに入れず外で眺めている試合も多かった。

それでもやっぱり野球は楽しかった。
たまたまバットに当たった打球がヒットになる感覚、たまたま横っ飛びしたらグローブの中に打球が入っている感覚。
何より野球部の同期と過ごす時間がたまらなく楽しかった。

そしてやっぱり僕には、努力をする才能があった。レギュラーを取るとかそういう強い意気込みがあったわけではなかったけど、下手は下手なりにがむしゃらにやり続けた。野球でアピールすることは無理だと思っていたから、「とにかく泥臭くがむしゃらに」この姿勢だけでもアピールしようと思った。

その結果

監督が、最後の公式戦で9回の裏の守備からセカンドで僕を出してくれた。
僕にとっては初めての公式戦だった。
結局僕のところにボールが飛んでくることはなかったが、試合が終わってからも興奮でずっとそわそわしていたのを覚えている。

それからしばらくして野球部を引退した時、部員一人一人に対して監督から一文字の漢字を授かるのだが、僕は

「成:努力を惜しまずのばせ」
という漢字を授かった。

普段かなり怖くて褒めることも滅多になかった監督が、しっかりと僕の姿勢を見てくれていた。そして評価をしてくれていた。

そのことが何よりも嬉しくて誇らしかった。


僕は中学生になり、自分はとてつもなく不器用でセンスがないという現実に気付かされた。そして努力が必ずしも結果として結びつくわけではないという現実も知った。

でも

『自分の取り組み姿勢・努力は必ず誰かが見てくれている、そして評価してくれる』
という新たな発見をすることができた。

そんな中学生時代を僕は過ごした。

3、高校時代:仲間と目標に向かって熱くなる素晴らしさを知る

(最後の夏の大会時の写真)

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僕の高校は、中学までの厳しさとはうって変わり、かなり自由な校風に様変わりする。
だから、みんな茶髪に髪を染めたりとかしてチャラくなり始めるのだが、僕はそれとは真逆の坊主姿で3年間を過ごした。

なぜか?

僕は高校球児として高校生活を捧げることに決めたからだ。

僕の高校生活は、野球部と過ごした日々と置き換えてもよい。
どんなに下手でもやっぱり僕は野球が好きだった。
そして毎日毎日、ユニフォームが泥だらけになるまで白球を追いかけ練習し続けた。

高校になると部員数は急激に減った。
中学時代16人もいた同期も高校では6人になった。部員数も全体で20人そこそこで、ほとんどの部員がベンチに入れた。
チームのレベルも毎年2勝したら万々歳といった弱小チームだった。

それでも単なる弱小チームとは違った。チーム自体の視座は常に高いところにあった。
練習面はもちろんだが、礼儀やメンタルティの面まで徹底的に鍛えられた。

自分の使用する野球用具を磨く理由は何か、部室の靴を綺麗に揃える理由は何か、勝者と敗者の違いは何か
など野球以外の面でも多くのことを学ばせてもらった。

そして僕たちのチームには野球ノートいう監督とプレイヤー一人一人が行う交換日記のようなものがあった。
その日に感じたこと、考えたことを毎日書き記していた。(実際毎日書けなくて1週間くらいためる時もあったが)
僕は、いわゆる野球ノートガチ勢で、細かい字で枠を飛び出して裏側にはみ出るくらいびっしりとノートを書いていた。素直に監督に褒めて欲しかったていうのもあるけれど。

(僕の書いていた野球ノートの裏面)

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(以下、僕が野球部を引退した直後の最後の野球ノートで書き記した文章。1部抜粋)

「自分は不器用で、本当に野球に向いていないんじゃないかと思う。今年の春以降、レギュラーを取られ「チキショー。何やってるんだ」と自分を責め家で泣いていたこともあった。でもここまで腐ることなく努力してきてよかった。夏大の最後の最後でこんなにも幸せな気持ちになったのだから。
高校野球で悔いが残ることはなんですかと聞かれたら、最後の夏にレギュラーを取れなかったことと答えるだろう。でもそんな後悔以上にチームがベスト16に行けたことと、自分が最後の夏に出せたパフォーマンスの喜びの方が間違いなく勝る。だから自分の高校野球に後悔なんて何もない。
そして自分がベンチから仲間が帰ってくるのを笑顔で迎えてハイタッチする。これが自分の中で最高の絵であり、これがベスト16にいった自分たちを象徴し、これが高校野球だと思う。
本当に色々なことがあった。時には本音でぶつかり合うこともあった。正直辛かった。きつかった。でも自分たちの代で学習院の歴史を塗り替えることができた!
僕はベスト16に行ったということに対して、しっかりと胸を張って引退したいと思う。」

これが僕の高校野球の全てだ。この文に全てが詰まっている。

僕は高校から外野手にコンバートし、少しだけ自分の居場所を見つけることができた。だが結局、最後の夏の大会はレギュラーではなくずっとベンチだった。

一方チームは、最後の夏の大会で学習院史上初めてベスト16に進出した。

僕は、高校野球を通して生まれて初めて

『同じ目標に向かって仲間とともに情熱を燃やして過ごす素晴らしさ』
を味わった。

チームスポーツを本気で全力で駆け抜けたからこそ感じることのできたこの感覚。
そして、僕の人生には必ずこの感覚が必要だと思った。


そんな野球中心の高校時代を僕は過ごした。

4、番外編:初めての国際交流とほんの少しの後悔

(ホームステイしていたメキシコの女の子と僕)

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この写真の僕は一体どんな心情だったんだろう笑

高校2年生の時、弟が留学で1年間メキシコに行くことになり、その代わりに僕の家に留学生を招き入れることになった。

海外旅行などはちょくちょく行っていたが、僕にとっては初めてに近い国際交流、不安でしかなかった。
しかも初めて会った留学生は、メキシコ人の高身長の美少女。
男子校に通っていた僕は、思いっきりシャイな自分を発揮した。

最初のうちは、全く話せなかった。とにかく恥ずかしかったから。

でもその女の子は本当に明るい性格だったため、家族として過ごして行くうちに次第と打ち解け始め、最後はお互い仲良くなることができた。
僕の野球の試合にもよく応援に来てくれた。

ただずっと後悔していることがある。
それは
「せっかく日本に来てくれたのだから、年が一緒の僕がもっと色々なところに連れて行ってあげればよかったな」
ということだ。
野球が忙しいからと言って、ほとんど両親に任せっきりだった。

きっと僕は、英語が話せない自分に負い目を感じていた。シャイとか忙しいとか関係なく、単純にコミュニケーションがうまく取れなかった。
そして何より、異文化を受け入れる能力が低すぎた。

僕にとっては初めての本格的な国際交流。
楽しくも後悔の残るものとなってしまった。

僕が今英語を本気で勉強している理由の一つは、こんな経験をしたことがあるからだ。

これは僕の番外編のお話。(ちなみにこの女の子とは今も仲が良く、去年の3月にはメキシコに行ってその子の家にお邪魔させてもらった)

5、大学時代:大きな挫折と後悔、その経験から得た大きな財産

(初めてスタイルをした時の写真)

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僕は大学1年生の時、アメフトという最高のスポーツに出会った。

もう野球をやる気はなかったが、大学4年間絶対に目標に向かって熱くなれる環境で何かをやろうと決めていた。高校で味わった以上の熱意をもう一度味わいたかった。だから必然的に体育会の部活にしか興味がなかった。

その中でもアメフト部の雰囲気は圧倒的だった。先輩たちの熱意、目標に向かう姿勢。僕は全てに憧れた。
この環境でこそ僕は輝けると直感で感じた。

だからほぼ他の部活を見ることもなく、即決でアメフトに4年間の青春を捧げることに決めた。

アメフトとは、何か一つの才能さえあれば輝くことのできるそんなスポーツだ。色々な個性を持つ集団がいてこそ成り立つスポーツだ。
不器用な僕にとって、アメフトというスポーツは本当に魅力的だった。

そして僕は、多少足が速いからという理由と、単純にかっこいいいからという理由だけでRBというポジションで4年間やっていくことになった。

未知のスポーツとの出会い、そして将来に対するなんとも言えない高揚感がこの時の僕を包んでいた。

そしてもう一つアメフトというスポーツとともに僕は運命的な出会いを果たした。
それが筋トレだ。

アメフト部に入ってからすぐに器具を使った本格的な筋トレが始まった。僕にとってこれが、本格的な筋トレとの出会いでもあった。
筋トレをやり始めてからすぐに体が変わった。
目に見えるように変わった。

努力に対して必ず結果としてリターンが返ってくる筋トレに僕は完全に虜になった。中高時代、努力に対しての結果という面では全く縁を感じることができなかった自分にとって筋トレはとても新鮮なものだった。

努力をすればするほど、やればやるほど大きくなる。大きくなればなるほど周りから評価される。
それが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。


このようにアメフトと筋トレという運命的な出会いを果たした僕であったが、この大学4年間は
「仲間と過ごした最高の4年間」
といったありがちな言葉で簡単に片付けられるような4年間ではなかった。

それほど色々なことがあった。ここでは語りきれないほどに。

➀逆境を乗り越えたからこそ得た大きな財産

僕には、アメフト人生の中で何よりも価値があり大切な1年半という期間が存在する。
この1年半、僕は全くアメフトをすることはできなかった。来る日も来る日もひたすら自分と向き合い続けたそんな日々だった、、、。

〜1度目の挫折〜

2年生になり、僕は試合に出させてもらう機会が増えた。
先輩RBが怪我をしていたというおまけ付きではあったが、この頃の僕には、アメフト選手としての自覚と責任が芽生え始めていた。
そして何より、毎日のように指摘を受けながらも日々成長していく自分の姿を肌で感じ取ることができ、自分に対し自信を持つことができた。

そんな2年生の僕が迎えたシーズン最終戦。

その試合も、多くのプレーに出させてもらっていた。
しかし、
あるプレーでタックルが膝に入り、その直後足の力が抜けた。立とうとすると膝がグラグラして立てない。今までに感じたことのない不思議な感覚だった。
結局その試合は、それ以降出ることはできなかった。

試合後、
「頼むから軽症であってくれ」
祈るような気持ちで病院に向かった。しかしそこで告げられた内容は、当時の僕にとって到底受け入れがたいものだった。

【膝の前十字靭帯完全断裂と内側側副靱帯損傷】
これが医師から告げられた診断名だった。

そして

「手術したら約11ヶ月程度アメフトを出来なくなるということ・もし手術をしない場合、すぐ復帰できるがこれから一生完治することはなく100%のパフォーマンスは発揮できなくなる」
と言われた。

悔しかった。
そしてそれ以上に、僕にとって3年生という選手として最も成長できる期間まるまるリハビリに費やすということが信じられなかった。
だから頭の中では、手術をすることが将来的にベストの選択肢だと分かっていてもその場で即答できなかった。完治しなくても100%のプレーが発揮できなくても11ヶ月アメフトができないよりはマシだと思っていた。
「少し考えさせてください」
そう言って僕は病院を後にした。

その後は、考えることから逃げて、ひたすら筋トレをした。筋トレをやっている間は、全てを忘れられるから。

そんな風に過ごして、数日たったある日。
その後の僕のあり方を大きく変える出来事があった。

今でも覚えている。
東京では珍しく雪が降っていた日、その日初めて顔を合わせた新監督にカフェで僕の胸の内を全て話した。
何もかも吐き出した。
それに対し新監督の答えは明快だった。

「今すぐ手術したほうがいい。俺は陸の復帰後の100%のプレーを見たいんや。身体的にも精神的にも強くなってフィールドに戻ってこい。逆境を乗り越えた選手は強いで!」

僕は、この言葉を聞いてすっと身が軽くなった。
何をくよくよ悩んでいたんだと。
この逆境を逃げずに本気で乗り越えようと。
そしてここで並々ならぬ決心と約束をすることにした。

『俺がグランドにいる誰よりも熱量を持って努力して誰よりも強くなってグランドに戻ってくる。そしてそんな俺の姿勢で周りに影響を与える』
その決心をしてからの僕は強かった。

手術を乗り越えた僕は、来る日も来る日も自分と向き合い続けた。グランドにいる誰よりも熱量を持って。
練習後、グランドから誰もいなくなっても一人で鍛え続けた。
やれることはなんでもやった。サイドラインからの声出しも僕がみんなを引っ張った。
チーム内でも積極的に自分の意見を発信をするようになった。

この期間、自分がアメフト選手として、身体的にも精神的にも大きく変わっていくことを感じることができた。毎日全力を出し切っていたから、毎日が充実していた。

〜2度目の挫折〜

そして順調にリハビリも進み、ようやく走れるようになるぞという段階まできていた3年生の6月頃。軽い気持ちで受けた定期診断で医師から思わぬ事を告げられる。

「前回手術した前十字靭帯また切れているね」

僕は一瞬耳を疑った。信じられなかった。
そして、僕の体に今まで感じたことのない絶望感が襲った。

前十字靭帯再断裂だった。
何か思い当たる節もなく靭帯が切れていた。

「手術をしてもプレイヤーとして試合に出られる保証はもうないよ。今の時期だからこそプレイヤーを諦めてスッタフに回るっていう選択肢もあるんだからね」

混乱していて、こんな医師の言葉を素直に受け止められる状態ではなかった。
もう意味がわからなかった。
「俺がどんな思いでここまでリハビリしてきたと思っているんだ」
「また1からリスタートするのか?」
「どうして俺が?」

こんな言葉がずっとぐるぐると頭の中で回転していた。

僕は溢れ出る想いを必死に留め、診断結果を伝えにみんなが練習しているグランドへと向かった。
だが、仲間が必死にフィジカルトレーニングをしている姿を見た瞬間、抑えていた感情が爆発した。今にも昔にも人前であんなに泣いたことはなかった。

今回は、悔しさを通り越し絶望した。
自分が今までやってきたことを全て否定された気がしたから。
もう全てを投げ出したかった。

だがそんな僕を再び突き動かしたのは、
「大学に入り家族以上に同じ時間を共有してきた同期の存在」だった。

「今年は陸のためにプレーするよ、だから絶対に戻ってこいよ」
こんな言葉を色々な同期からかけられた。

僕のためにプレーをするって言い切ってくれることが素直に嬉しかった。
そして、様々な苦楽を共にしていきた同期の言葉に僕の心の火が燃えないはずはなかった。
監督との会話の時もそうだったが、人がふとかける言葉には、時として誰かの人生を変えるほど大きな意味や価値を持つ。
今このnoteを執筆していてそんなことを感じた。

僕は、これらの言葉に再び心を動かされた。
同期のためにも・自分を支えてくれている人のためにも、もう一度やってみようじゃないか。そんな気持ちになった。

そして診断名を告知された時はあれだけ絶望して泣いていた僕は、数日後には圧倒的な熱量を持ってグランドに舞い戻っていた。
再び11ヶ月に渡るリハビリ生活がリスタートした。

そしてこれ以降僕の中で、あの雪の日のカフェの中で決めた決心に
『仲間のためにも』
という強い想いが加わったのだった。

〜逆境を乗り越えた先にあったもの〜

最終的に僕は4年生の春から試合に復帰することができた。
実に最初に怪我をしてから復帰まで1年半。
時間はかかったが、なんとかここまでたどり着くことができた。
復帰後初の試合でフィールドの中から見た光景を僕は一生忘れることはできない。

僕はこれらの経験から、

『情熱・パッション=僕』
という僕の新たなアイデンティティ・価値観を築き上げることができた。

そして

『強い想いと他者を圧倒する圧倒的な熱量で取り組めば、どんな逆境でも乗り越えることができる』
『誰かのためにという想いが、さらに僕を加速させる』
ということに気付かさせてくれた。

だがこれだけではなかった。
僕は、この経験を通して人生の中でも大きな成功体験を得ることができた。

僕の代の主将は、よく全部員の前でこんなことを言ってくれた。

「陸という存在がいたから俺は変わることができた。陸の姿勢を見て、俺もやらないとなって思うようになった」

こんなに嬉しいことはなかった。

この時初めて、
『こんな不器用な自分でも、全力で取り組む姿勢が誰かに影響を与えることができるんだ・僕の背中で誰かを変えることができるんだ』
ということを知ることができた。

この成功体験こそが、僕の今の「信念」に通じている。


僕は、本気で逆境を乗り越えたからこそ新しい景色を見ることができた。それも何物にも代えがたいもの大きな景色を。
だからこそこの1年半は、僕にとって本当に大切な価値のある期間だった。

怪我をしてよかったとは思わないが、この経験をしたからこその今の僕があると思っている。

(同期との写真、腕に書いてくれた29は僕の背番号)

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②全力を出しきれなかった最後の1年間。忘れることのできない大きな後悔

4年生になった時、僕は80人以上いるチームの副将に任命された。
1年以上プレーをすることはできていなかったが、僕の姿勢を評価してくれての任命だった。
チームを背負っていく覚悟。僕はこの時かなり意気込んでいた。
絶対にこのチームを変えていく。
そんな気持ちでしかなかった。

しかし、この最後の1年間は僕にとって

「僕の全てをアメフトに捧げることができず全力を出しきれず終わってしまった」

そんな後悔ばかりが募る1年間だった、、、。


怪我を乗り越えて身体的にも精神的にも強くなったはずの僕なのに、この1年間でかなり小さな男に変わってしまった。

「今まで自分のことばかりだった僕がチームという組織を背負う責任感」
僕はこの責任感に押しつぶされた。

僕は副将である以上、プレーでも結果を残さないといけないと思っていた。
誰もが尊敬してくれるような結果を。
怪我を乗り越えた自分なら何でもできるという自信もあった。

でもそんなにアメフトは甘いスポーツではなかった。
僕にセンスがなかったということもあるが、僕はプレイヤーとして最後までほぼ結果を残すことはできなかった。
アサイメントミスやファンブルなど4年生として致命的なミスも何度もした。

そして次第にそんな自分に対して自信が持てなくなってしまった。

まず小さいことで周りの目を気にするようになった。
監督コーチの目・後輩の目・同期の目。
彼らが僕に対して何を考え、どう思っているのか。
そればかりを考えるようになった。
こんな自分が言っても伝わらないだろうという思いが邪魔して、チームに対して自分が発信したいメッセージを伝えられなくなった。
そして、監督・コーチに何かを言われるのが怖くてコミュニケーションを取ることをなるべく避けようとするようになった。

こんな想いを毎日毎日抱きながら過ごしていると、次第に僕が唯一誇れる点でもあった練習姿勢にも影響を与え始めた。
次第に、日々の練習の中で
「まあこのくらいやればいいか」
といった妥協をするようになった。
自分に対して勝手にリミッターをかけて練習するようになった。

筋トレもそう。あんなに大好きでやり込んでいた筋トレも言われたメニューをこなすだけになってしまった。

もし練習中のプレーで調子が悪ければ自分の中で
「膝が今日は痛かったもんな」
と本当は痛くもないのに、そう自分に言い聞かせることで無理やり納得させた。

この頃の僕は、完全に自分を失いかけていた。
表面上は、副将という仮面を被りみんなに対してそれらしいことも言ったりやったりしていたが、心の中は全く裏腹だった。
早く引退したい。こんなことを考えることも度々あった。

結局僕は、こんな調子で最後のシーズンを終えた。
本気で1部昇格を狙っていたが結果は、4位。シーズン終了後、そのことに対しての悔しさもあったがそれ以上に

「もっとやれたはずなのに。何をあんなにくよくよしてたんだ。僕は僕らしく泥臭く全力でやっていけばよかっただけなのに」

そんな想いと後悔ばかりが募った。

シーズン中、監督が言った言葉で僕が忘れられない言葉がある。

「今この瞬間をもっと本気でやらなかったら、引退した後絶対後悔するで」

という言葉だ。

今だからこそ染み渡るこの言葉。
当時の自分に僕の口から言い聞かせたい言葉だ。

僕は最後の1年間というシーズンをある意味で無駄にした。
アメフトが出来なかった1年半という期間の方がずっとずっと価値があった。

人生、どんなに後悔してもその時間を取り戻すことはできない。
あの時ああしていればよかったと思っても、過去は変えられない。
こんな経験があったからこそ、

『毎日毎日を精一杯全力で生きよう』
『色々なことにチャレンジしよう』


と今僕は本気で思うのだ。

(現役最後の試合)

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僕のアメフト人生は、山あり谷ありだった。
どちらかといえば挫折や後悔ばかりのアメフト人生だった。
でもそんな4年間が僕にとってどれほど価値があって、どれほど大切なものだったか。

喜び・楽しみ・挫折し・悩み・苦しみ・後悔を残し・そしてそこから多くの価値観と学びを得ることができた。
そして一生ものの仲間を作ることができた。

ここで得たものは他と推し量ることなんてできない。

僕はそんなアメフト中心の大学生活を過ごした。

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6、社会人となった僕:自分は何をしたいのか?何のために生きているのか?


大学を卒業後、僕は特に将来について深く考えるわけでもなく、周りと同じようになんとなくで社会人となった。
本当にどこにでもいるごく普通の会社員となった。

だが、社会人になってからの僕はいわゆる一般的にいう意識の高い生活を送っていた。大学時代の経験から後悔のない毎日を全力で送りたかったから。

「平日は、朝6時過ぎに起きて英語を勉強してから出社して、退社してからも筋トレと英語や資格の勉強をして」
「休日も朝活をしてからおしゃれなカフェで勉強したり本を読んだり、時には遊びに行ったり」
と僕が当初思い描いていた理想の社会人生活をほぼ毎日のように過ごした。
こんな自分に少し酔っていたのも事実だ。

でも心の中では、いつも何かが足りないと思っていた。

「心の中ではもっともっとやりたいことがあるはずなのにそれを言葉で上手く表すことができない、何をすればいいのかわからない」

そんなモヤモヤした何か心が満たされない感覚をずっと味わっていた。

今だから分かる。
この時の僕は
なんのために生きているのか何をしたいのか
そんな目的を失っていた。

目的もなくただただ作業する機械のように、僕は日々のルーティンをこなしていた。
「やらなくちゃ」
そんなどこから湧いてくるのかわからない使命感がひたすら僕を動かし続けた。
毎日を全力で精一杯に過ごそうという僕の決意を僕は、誤った形で体現してしまったのだと思う。

だからどんなに1日をハードに過ごしてもどんなに充実させても全然生き生きとしていなかった。

そしていつの間にかに学生時代の時のような何かの目標に向かって本気で向き合う情熱を完全に失ってしまった。



こんな生活をして半年ほど経った12月頃。
インスタでたまたまGOAL-Bが、名古屋のジムでトレーニング合宿を開催するという情報を目にした。

心のどこかで、
こんな今の現状を打破して、学生時代のようなあの情熱をもう一度取り戻したい
と思っていた僕は、勇気を出して申し込んでみることにした。

このほんの少しの一歩が僕の人生を大きく動かし始めるきっかけとなったのだった、、、。

7、GOAL-Bとの出会い〜GOAL-B合宿を通して〜:僕の人生が動き始める


GOAL-Bは、「コーチング」と「フィットネス」で人の進化をつくる会社だ。
そしてこの会社のVISIONは
”挑戦が溢れる世界”

僕は、ずっと前からGOAL-Bの存在をよく知っていた。

なぜならこの会社の社長であるAKIOさんの動画が死ぬほど好きだったからだ。
彼の考え方、人生を本気で生きている姿、どんどん挑戦する姿、生活スタイル全てに憧れていた。

ただあまりにも自分とやっていることがかけ離れすぎて、僕には遠すぎる存在だった。AKIOさんだけでなくGOAL-Bという会社も。
「こんなこと僕にはできないしな」
と心の中で思っていた。

だから名古屋にGOAL-Bジムができた時も別に行こうとは思わなかった。
家の近くの24時間ジムでなんとなく筋トレできればいいやと思っていたから。


しかし、僕はGOAL-B合宿に参加する決意をした。
自分の今の現状を打破するために、人生の中で情熱を取り戻すために


迎えたGOAL-B合宿初日。
僕はこの日から人生が動き始めた。

この中で触れた世界は、まさに

【挑戦が溢れる世界】であり【青春】そのものだった。

まずGOAL-Bで働いている方の熱量が半端ではなかった。
一緒にその場にいるだけで、自然と僕の熱量も上がっていった。

そしてそんな彼らとやる本気の筋トレ。
妥協というリミッターは全て外れた。

死ぬ気で自分の限界を破っていく仲間の挑戦する姿。
そんな姿が、僕のハートに火をつけ僕も限界を超えていく。

熱い・熱すぎた。
そして何よりその場にいる誰もが、本気の本気で自分の人生を生きていた。

僕が心の底から求めていた世界とはこういう世界だった。
やっぱり僕の人生には

『何かに対して情熱を燃やして本気で向かい合っていくこと』
が必要だと心の底から感じることができた。

そしてもう一つこの合宿に参加したからこそ得ることができたことがある。
それは

『生まれて初めて自分にNo.1になる許可を出せるようになった』
ということだ。

僕はこの合宿に参加して、
本気でフィジークの大会に出て優勝を狙いにいくことに決めた。
そしてオーバーオールで優勝することも。
そして日本トップのフィジーカーになることも。


僕の今までの人生、何かで1番をとったことはなかった。
僕はそれを
「自分にはセンスないから。自分は不器用だから」
そんな理由で丸く収めていた。

だから自然と1番になることからずっと逃げていたし、諦めていた。

でも
僕のエフィカシーを極限まで高めてくれた、GOAL-B合宿で僕の考えは180度変わった。

根拠なんて何もない。
でも初めて何かに対して絶対に1番になるということを言葉にして自分の口から言えた瞬間。
僕の心の中で、ポッと火が灯るのがわかった。


僕は合宿後、すぐにGOAL-Bジムへの申込をした。
僕の人生には、この環境しかないと思ったから
このジムでなら、最高に熱い生き様を創りあげることができると思ったから

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合宿に参加し、GOAL-Bジムに通い始めた僕は、明らかに人生への本気度が変わった。
もっともっと人生をパワフルに突き進みたくなった。
そして、本当の意味で毎日を全力で精一杯に過ごしたくなった。

だから僕は、コーチングを受けることに決めた。
自分の人生を爆裂に加速させるために、、、。

8、過去から未来へ:僕がこれから築き上げる世界


ここから綴るのは僕がこれから築き上げる未来の話。
僕がこれから実現していく世界の話。


人生を熱く本気で生きている人たちと同じ環境に身を置くようになった時。
コーチングを通し、過去の自分にも今の自分にも正直になれた時。

僕は自分の中にある『信念』を明確にすることができた。
それが冒頭でも触れた

『人生を本気で変えたいと思っている人を、僕の生き様で変える』
『人生を諦めかけている人を、僕の生き様で救う』

ということだ。

僕の情熱が誰かの心に火をつけ、僕の生き様が誰かの生き方に影響を与える。
こんなに素晴らしいことはあるだろうか。
こんなにかっこいいことはあるだろうか。

そして僕は、この信念で

『ポジティブの輪を世界中に作りたい、僕の作ったポジティブの輪を後世に残し続けたい』

と本気で思っている。

僕の生き様に触れて誰かの人生がポジティブな生き方に変わる。
そして生き方が変わった人の生き様が、また誰かの人生をポジティブなものに変えていく。
これがポジティブの輪だ。

人生の本当の価値とは、どんなものを後世に残すかということだと思う。
僕たちの生きている時間なんて宇宙の誕生から考えたら本当にちっぽけなもの。
でも後世に自分の生きた証を残し続けることはできる。
何を残すかは人それぞれ。
僕は、自分が波及したポジティブの輪を後世に残す。
そして自分が死んだ後もこのポジティブの輪が広がり続けていけばいい。


今までを振り返っても僕は本当に不器用な人間だ。
昔から勉強でもスポーツでもなんでも人の何倍も努力をしてようやく人と同じスタートラインに立てるかどうか、そんな人間だ。
特別なスキルも人に誇れるような実績も経歴もない。

でも僕には、幼少期から現在に至るまでに築き上げてきた価値観や成功体験つまり「CAN」がある。これは僕だけの特別な強みだ。
だから僕は、自分の生き様や未来をこの瞬間から創っていくことができる。

『最高に熱い未来』を。
『本気で本気の生き様』を。
『どんなに不器用でも自分がやりたいことに対し、全力でやり続ければなんでも成し遂げることができるんだという僕らしい生き様』を。

今年はなんでも挑戦しよう。

初めてのフィジークの大会で優勝する。
TOEIC300点台の僕が今年800点以上取る。
自分の言葉を外に発信することは怖いし、苦手だけど今年は発信しまくる。

自分の生き様を創るために。
いや違う。
その生き様で世界中の人の人生を変えるために、救うために。
そしてポジティブの輪を世界中に広げ後世に残していくために。



人生に目的を持って、それに対して本気で向き合い始めた時。
僕の漠然としていた社会人の日々が最高に熱い日々へと変わり始めた。

でもまだただ覚悟を決めただけ。
何もしていない。
何も成し遂げていない。

僕の人生これからだ。

もっともっと人生に対して本気になりたい。
もっともっと色々なことに挑戦していきたい。
もっともっと色々なことに夢中になりたい。
そして必ず結果を残したい。



僕は今、エフィカシーの塊だ。
根拠はないけど絶対にこんな未来を描けると確信している。

さあやろう!やりまくろう!
ハートを燃やせ!
熱く熱く生きよう!

僕は
【世界をポジティブな輪で繋ぐトップフィジーカー】
になる。






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