球体。求愛。

毎日、自分の中に届く言葉は、
矛盾だらけだ。

矛盾というより、
球体の点と、またその反対側の点が
言葉となってやってくるのだ。

だから球体として見れば
その言葉と言葉の矛盾は繋がっていて
表裏一体。ひとつなのだ。

でも表面から見れば、
必ずその裏側も存在していて
どちらを切り取ってもそれは真実
そして、その点は無限に存在している。

どこを切り取って、言葉にしているのか
ただそれだけで、
毎日届く、その、一部分の一文を
別に言葉にする必要もないような気もするし、

でも言葉にしておかないと
存在している意味がないような気もするのだ。

だから
生きていたら、消えたくもなるし、
生きていたら、死ぬのが怖いと感じることは
別に普通なんじゃないか。
とわたしは思う。

愛されたいと思うことは、
そんなに言葉にしてはいけないことなのだろうか。
それは悪なのか。
人間の根底にある、ただの真実なんじゃないだろうか。
なぜ"愛すること"が、そんなにも美しいとされるのだろうか。

愛されることだって同じくらい美しいだろう。

だって、愛しているから、愛されるのだから。

それはいつでも同時に存在している。
ただの球体なのだから。

文にして、口にしてしまえば、書にしてしまえば、
生まれると同時に、そんな幻想は、消えたりもするもんだ。

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