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ツイートするのが怖くなってきた……とはいえ書き出さないと脳が腐りそうなのでnoteにうじうじ書きなぐってみる。

ザルの話

noteもかなりごぶさたになってしまった。

スタジアムや劇場で観たこと・感じたことの備忘録にnoteの使い方を置いていたのだから、どうしても書くことがなかった。ただ、noteは書かなくても自然にTwitterには書き溜めてはいくだろうと思っていた。

家にじっとしていても情報の流入はあるわけで、それを通して感じることもある。映画やドラマもたくさん観たし、ゲームだって始めて新しく感じることは多い。書き留めてみたくなる感情もある。ただし、それを留めておく場所であったTwitterにはどうにもこうにも書きにくくなってしまった。ときには1日に100以上ツイートしていたアカウントが、今や1日数ツイートする程度なのだ。

その理由は後述するとして、もともとメモ癖や日記の習慣があるわけでもない僕がツイートすらしない日々が続くとどうなるか。脳が腐っているような感覚になる。ただ単に横から流れてきた情報が、また別の横にそのまま流れていく。流れてきたものを濾過するフィルターとしての機能が脳にまるでない。ザル以下だ。そういえば、この期間を通して酒には弱くなってしまった。ザルではなくなった。いや、もともとザルでもない。酒の話終わり。

そういう思考の流しの底みたいなところに沈めておいたままで、めんどくさくなってきたことに怠けていたけれども、いい加減ヤバいと思い、せめてこの状況くらいは書き出して整理しておこうと思うことにした。ツイートしにくいことには理由があるので、別のメディア。ならnoteにするか。……という長い前置きがここまでになる。


ツイートするのが怖い

なぜツイートが減ったのか。それをひとことの感情で表すなら、「怖い」。とにかく怖い。

書き手としては、あくまで「東京の○○区に住んでいる30代前半の男性が、△△区の勤務地までの移動中に、XXXという事象を知り、その立場上からふと感じたこと」という1ツイートが、その立場と状況をいったいどこの誰かをどう傷つけるかわからないことが怖い。

……と書いたのはいいのだけれども、これでは不十分な気がする。書き直そう。

ある人物について書いたことが、その本人に見つかって、その本人にとって不本意な見方であったとしよう。そうつながる可能性が怖いといえば怖いが、それ自体はその本人と書き主である自分のズレや違いでしかないので、それ自体は仕方ないと割り切ればいいし、もしすり合わせたり議論できる機会があれば活用して認識の確認をしたみたいとは思える。

僕が怖いのはその先で、1対1のあいだでの認識のズレであることが、よくわからない誰か、あるいは誰かの集合体によってどちらかが安易に「正義」あるいは「絶対視」につながることだ。

この「正義」や「絶対視」には、法的に、いや政治的にですら、何かの説明可能なものさしがあるわけではない。僕の「ちょっと外に伝えたい、残しておきたい」言葉が、そんなものに振り回されて、誰かを傷つけてしまう側に無意識に加担してしまったり、はたまた傷つけられてしまう側にまわるなんて、「醍醐味」というかつてTwitterを始めた頃に感じていた言葉で片付けられないところに来てしまった。


気持ち悪いのは当事者じゃなくて、うず

最近はテレビ番組の出演者が死去したことをきっかけに、「誹謗中傷が悪い」という意見が飛び交っているのが見える(議論とは決して書きたくない)けれど、ここでよく見かける話にも僕は違和感がある。

亡くなった彼女に集まった意見の1つ1つが実際に「誹謗中傷的な表現」であったか(そもそもそれが死の直接あるいは間接的な原因だったかどうかを1次あるいは2次ソースで確認できていない自体が気持ち悪いのだけれどもいったん置いとく)どうかは、もしかしたら受け手にとっては大事ではなくて、この有象無象の声の中に置かれてしまうこと自体が耐えきれるものではないということなのかもしれない、このうずの中で受ける側が耐えるあるいは受け流す以外に言えることは、「傷つくようなことはやめてくれ」というあくまでも主観的な主張になる。これはとてもまっとうな話だと思う。嫌なものは嫌だと言っておかしいことはない。

気持ち悪いはこれまた当事者間の話のこの先だ。この話には、当事者間の見方のずれであるので、お互いの主張がぶつかることがある。ずれたときにどうするかというと、まず確認をし合う。当事者間の確認で認識がずれてしまうのであれば、第三者に確認を委託してすり合わせを行う。これが決着に決着がつかない場合は、裁判所へ持ち込まれるわけだ。ところがどっこい、今のTwitter…いやインターネットを実装した今の社会というのは、その裁定の何億倍も早い速度でどちらかが正しい判定が知らない間に持ち込まれてしまう。これが、時にはとても一方的すぎるのだ。この「判定」を生む渦に、知るか知らないかの間に自分が加担するしされてしまう。本当に怖い。

議論の論点が仮にあるとするならば、「誹謗中傷した人が悪い」などという話ではなくて、「誰もが誹謗中傷される側に回る怖い世界をどうするか」という話であるべきだろう。


怖さはドルヲタのすぐとなりにもある

気づけば「アイドルヲタク」みたいなことをやっていて10年近く経つようになった。何人も推しメンを見てきて、出会い・去って、ときには推しやオタクとの関係性が悪くなったりしながらもここまで来たので、感じることはたくさんある。

アイドルとヲタクは、地下だろうが地上だろうが基本的には1対複数の関係だ。

見えるものも、感じ方も、どうしても異なってしまう。その感じ方が異なるように仕向けられるなかでの一瞬のリンクがこの世界の面白さのひとつだと僕は思っている。ただし、こんな素敵な世界で、僕たちは「1」と「複数」のあいだのズレを無意識に利用して誰かを握りつぶしてしまっていることがある。

あるアイドルが、1人(あるいは数人)のオタクから、とても無茶苦茶な意見を握手会なりコメント欄で伝えられたとしよう。それがどうしてもアイドル本人は受け容れられない内容で、今後それが広がってしまう影響を懸念して、それへの反論や諭しをSNSなどで表明するところまでいく。

ここまではまだわかる。僕が気持ち悪いのは、立ち位置としては同じ「多数」の側を切り捨てていく武器として、この表明が使われていくことだ。ここへの加担はとても楽で、筋が通っているように見える。ただし、相手が元来は同じ立場に置かれた側の人であってもだ。このときにはもはやもともとの異論の妥当性なんてどうでもいい状態になっている。正しさが先にあるからだ。

「推しが傷つくことはするんじゃねえ」の旗本に同じ立場のオタクを斬りつけていることに、無自覚になっていることがないか、僕はときどき自分で怯えていることがある。もとから自分の価値観や信念が強いわけでもないので、いつそのうずに呑まれる側になるのかわからないのだ。怖い。


Stay Homeとチャーシュー

実はこの感覚が強まってきたのは昨年頃からあって、Twitterアカウントを再構築していたところだった。いくつかの役割ごとにアカウントを分割して、投稿するたびに「このアカウントだっけ」と考える隙間を差し込む。そうすると、気づくとそのアカウントの狭間にあるようなツイートはどんどん消えていって、ツイート総数は減っていく。そこにこの「コロナ禍」が飛び込んできて、そっちのうずに飲み込まれて怖さが極まってしまった。

緊急事態宣言はいったん解除されてはいるものの、この怖さでStay Homeは継続である。とはいえ、こうして引きこもってしまったおうちで、どう踊っていこうかとぐちぐち悩んでいるなかで……。

俺は毎週煮込んでいるチャーシューをTwitterに上げるお料理アカウントじゃねえんだ!!!

という気分になるくらいには、この書きなぐりには意味があったのかもなあ。どうだろうな。まあ、豚や鶏を煮込むのは好きになったので継続します。せっかくなら美味しく楽しく食べ続けていきたい。

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