日記(訂正する力 第1章感想)

昼食適当に入ったお店がおいしかった。情報がGoogleマップにすら載っていなくて戦々恐々としていたが、軽食の後ジム行こうかなぐらいに舐めていたら、おいしいし値段以上に盛りだくさん食べられて満足してしまった。満腹なので、この日はジムはやめて公園でのんびり缶コーヒー飲みながら本読んで飽きたらマッサージ屋に行っておわりだった。そういう日でいい。

訂正する力 (朝日新書) | 東 浩紀 

動物化するポストモダンでお馴染みの東浩紀さんの話題作。20232024とコロナから一息ついた時間に目を通したくなるタイトル。
帯イラストのヨシタケシンスケさんは、著名な絵本作家だそうだ(教えてもらった)。知らなかった…

ドイツのEV

まず「ヨーロッパのしたたかさ」として一見ずるさも感じるほどの方向転換は、歴史でも現代でも見かけるものだ。EV事情なんかも顕著なもので、2035までの移行を宣っていながら、中国の攻勢をなんとか抑えようとしたりエネルギーの見直しも図ったりと、はたからみると滅茶苦茶に近い動きをしている。ただしこれについは以下のように紹介されていて

ただ、ここで大事なのは、そのときに彼らが自分たちの行動や方針が一貫して見えるように一定の理屈を立てていることです。それはある意味でごまかしですが、そういった「ごまかしをすることで持続しつつ訂正していく」というのが、ヨーロッパ的な知性のありかたなのです。

21p

より太い軸がある「ように見せる」振る舞い。ハッタリでもOK、もちろんちゃんと軸を持っているにこしたことはない。ずるさと賢さが垣間見える話だ。

岸田首相の動向

31pでは岸田首相は「聞く力」を標榜しているものの、その力が発揮されていないことを指摘する。しかしながら、2024年の能登半島地震以降の、首相(内閣)の、特にSNSにおける発信力は目を見張るものがある。取捨選択が必要なほどに情報は多く、そこには他者からの恣意的な切り抜きやリークもない。当然ここからデマが発信されてしまえばおわりではあるものの、ニンテンドーダイレクトしかり直接情報を伝達できる手段ができたことを政府すらも活用しているのが現状だ。

ただ、ツイッターがおちゃらけた、日常的なつぶやきから離れたところに来てしまっているのは悲しいことでもある。また、(岸田首相はわからないが河野太郎氏はよく見かけた話で)かつて悪ふざけでリプライを飛ばしていてブロックされた人が緊急の情報見れなかったとしたら、因果応報にしてもなかなか悲惨な話になりそうだ。被災時にお前はラジオ聴けません!と言われたら泣く。
そういった変容も背景もまた、本書の訂正する力の出番だー!って話なんでしょうね。

改憲

「解釈を変える」ことで行動の訂正ができてしまっている事実に対して、頑なに改憲反対一辺倒でいくことの虚しさにどこまで気づけているのか、あんまりやる気がないのかわからないのはその通りだと感じる。なにがしたいんすかね

レッテル

学者は専門だけやっていればいい。ミュージシャンは音楽だけやっていればいい。アイドルはアイドルだけやっていればいい。けれども、本当はそういう純粋さだけで人間は生きていけません。

53p

メディア越しに見えるこれらの情報や娯楽が、装置だと錯覚するほどに出来の良いものが世の中にあふれているのだと感じる。表舞台に出てる人はともかく、作詞家とか作曲家とか、本当に見合った評価されているのだろうか?ここもまたSNSでの発信が業務的な装置としての役割を担っていたこれまでの時代から、本当に脚光を浴びる人は変化していくんじゃなかろうか。

「動画配信が可能にしたもの」について

ここのセクションで、誤解をしてしまっていました。要は「(生)配信(動画)で発せられる、生き生きとした対話を期待している」旨だった。「文字」だとアウトプットや発言がひとつひとつ重くなってしまい、訂正が鈍くなることを懸念していたのだ。
自分は「投稿される動画が誤植まみれなんてことは多く、またそれら多くは動画自体は修正されず別枠で訂正のアナウンスが流れる程度なのに」と思っていた(そこの硬直性が生でない動画配信媒体の悪いところだと思っている)。
前者の話って、テレビ時代と役割は変わらずただ多くの人間が利用可能になっている状況の紹介だったということなのだろうか。実際動画に引きずり出されるケースって、対等でないことが多かったりするのでどこまでここの台頭で健全な議論ができるという考えが真っ当に適用されるのか…今後の時代でも正直変わらない気がしている。

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