「Winning Alone(ウィニング・アローン)」第2章感想

第2章は『「わたし」の心をつくるもの』。考え方、心構えを深掘りしていく内容で、本書の本質のようにも思えました。

楽しむこと

「楽しむこと」は「真面目にやること」の対義語ではなく、「主体的に行う」ことであると述べている

楽しいことをやることと、やっていることを楽しむことは違う。前者は受け身の行為であり、後者は主体的な行為である。前者は誰かが人を楽しませるためにつくり出したものによって遊ばされている。後者はそこにあるものを自分なりの工夫で編集し直して遊んでいる。

「楽しむこと」

「楽しまされているだけ」の自覚を持つことは、今後必要な心持ちだと感じる。昨今テレビからネットに情報の主戦場が移って無事主体性を取り戻せたと思ったら、これまで以上にサービスが普及して油断をしているとすぐに「楽しまされているだけ」の状態になってしまいそうだ。
ただ、受動的に「楽しまされる」ことが必要なこともある。疲弊して癒しが欲しいときや共通の話題作りのためなど、背景はそれぞれあるかもしれない。ただ、主戦場は、やはり「主体的」でなければならない。

また、継続性についても以下のように述べている。

楽しんでいて勝てるのかと現役時代によく反論されたが、私は楽しまないで勝てるのは短期の勝負だけだと反論していた。楽しむ行為とは究極の主体的行為である。外界を観察し、身体をどのように扱えば、目指すべき目的に向かえるのかという創意工夫のプロセスであり、次々に変化する環境や自分の身体に柔軟に対応することである。楽しむとは、過去を振り返り悔やみ引きずられるでもなく、何も決まっていない未来を憂い恐れることでもなく、いまここ・自分にフォーカスすることである。楽しむことは自分を信じることであり、あるべき姿ではなく本来の自分を解放することでもある。

「楽しむこと」

このセクションを読んで、職場に配属されたたてのことを思い出していた。目標があって、がむしゃらにトライして自分の身丈と適性が合致していたこともありなんとかクリアできた。別の仕事が来てもまた一心不乱に取り組んで…と1~3年ぐらいはそれで行けていたと思う。
思えばその「トライする」行為自体に楽しみを覚えていたのだが、肝心の業務内容には大して関心が無かったんじゃないかとも思う。好き嫌いすら放り投げて「トライする」ことに傾き過ぎていたきらいがあったのかもしれない。けっきょく短期の勝負で走り抜けることを楽しみ続けていた

そんなことを思い返しつつ、楽しむためには「いまここ・自分にフォーカス」することが求められているとされている。この「自分にフォーカス」は、ある程度「過去」「未来」をイメージできていなければならないと考える。それは先述の「トライする」だけのかつての自分をこうして観察できたことからも実感できることだ。

競技選手のようにある程度活動期間が限定されているものでなければ、私たちの労働は長期的で、ライフワークとして考えざるを得ないだろう。そうしたときに「楽しむこと」なくして続かない…自己実現に至らないかもと感じている。
何をもって楽しいとするかは側面によるだろう。技術を極めることやマネジメント、創意工夫などそれぞれあるので、その引き出しを増やしつつレベルを上げていくことが必要になる。

アスランの強さ

話題は…変わらない。

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』がとても面白くて、特にアスランの「強さ」をはっきりと確認できる楽しみがこの作品の魅力だと思う。

『SEED』『SEED DESTINY』のように迷うことがそんなに無い立場のアスラン。キラへの激励や驚きの搭乗MSなど、全体的に余裕があり、かつ楽しんで過ごしているまである立ち回り。よく「迷いを捨てたシャア」は最強とされていたが、それを体現したものなので当然面白かったのだ。

それと同時に、この作品自体も、監督は公の場で「ファンのために捧げる作品」の旨を述べているが、作り手の経験や背景もふんだんに活かしつつ、かつファンが満足できるものを「楽しんで」作っていたんじゃないかなと思う。それほどこの作品には愛が詰まっていたし、受け取った側もそれぞれのガンダムSEEDの思いと照らし合わせて楽しめるエンタメがあったんじゃないかなと感じた。

仕事をはじめとした自己実現への姿勢に加えて、エンタメを受容する人間としての在り方もまた、主体性があってもいいのだと思う。
そう考えるといままさに書いてるnoteも誰からも指図されたものではなくのびのびできているので、今後も継続できればと考えている。

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