論語と算盤 感想③

論語と算盤もだんだん読み慣れてきて、角川ソフィア版だけで理解が進むようになった。
今回は10章あるうち7章目「算盤と権利」の感想です。

権利思想

論語には「権利思想」が欠けている、と誤解されがちだと渋沢は主張する。

(前略)そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教(=キリスト教)の方では、「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は、「己の欲せざる所を人に施す勿れ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致すといえる言のごとく、この二者も終局の目的は遂に一致するものだろうと考える

「算盤と権利」

論語(主義)は自らを律する教えなので、どうしても消極的・他動的な教えになっている。普遍的な教え…キリスト教の愛と論語の仁においてもその違いは見えてくるものの、究極的には同じところにたどり着くよね、という話。来る方向が異なるだけで権利獲得にも至るというのはそうだろう。また、そういう意味ではキリスト教も悪くないが、論語について渋沢は聖書のような「奇跡」も無く地道で堅実なところを信用しているのだろう。

究極的な目的は同じ、と解釈する人がいたところで啓蒙が真に行き届いていなければ意味は無い。アメリカの個人の権利の話がすごい面白いのは『ACE』の感想でいつかやるとして、現代の日本でもやはりどこか権利というものは主張せずに「落ち着いて」「自戒しながら」生活すべきというような雰囲気は残っている。だから権利主張する活動家は目立つ。他の国では活動家はどのように見えているのだろうか?

全体道徳は日常にあるべき

そもそも本書『論語と算盤』は「論語とは実はそんなにハードル高くないんだよ」というメッセージからのスタートだ。「競争の善意と悪意」にある「あえて「バイブル」を読まぬでも、論語を諳んじぬでも必ず分かるであろうと思う。」の主張からも、渋沢はそんなに難しく考えないで、と思っている。
とはいえ論語ってなんだか堅苦しい。漢文の授業で音読しているようなイメージからなかなか離れることはない。いっそ淫夢とか猫ミームで頑張って表現したりTikTokで啓蒙していったほうがいいのかもしれない。

社会を益する…

渋沢は福沢諭吉のことばも借りながら社会に貢献、国富を求めることが重要としている。

福沢翁の言に「書物を著しても、それを多数の者が読むようなものではなくては効能が薄い。著者は常に自己のことよりも、国家社会を利するという観念をもって、筆を執らなければならぬ」という意味のことがあったと記憶している。事業界のこともまたこの理に外ならぬもので、多く社会を益することでなくては、正径な事業とは言われない。

「合理的の経営」

耳が痛い…、というよりも、メディアが変容して個人が好きなように情報を発信できるようになった現代では、そこまで頑張るか?と偏屈な気持ちにもなってしまう。
私がこのnoteを細々とやろうとしているのも、社会を益する目的は現時点ではほとんどない。そうであるならこんな細切れに論語と算盤の感想を書かず、ひとまとめにして校正もちゃんとしてちゃんとしたサムネイルも作ってXとかでツテを作って告知をしたり投稿タイミングも一定にすべきだろう。
まだそのステップではないと言い訳もしつつ、今のこの読書活動が直接的に結びつく先を考える、というのは必要(=まだ決まっていない)。今は精進あるのみ、です。

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