奢り奢られ論争における男女間の論点のズレについて

 

奢り奢られ論争、というものがある。これはまだXというSNSがTwitterであった頃から定期的に話題になり、その度主に男女間で侃侃諤諤の大論争が行われ幾つものツイート(現ポスト)が炎上し、しかし終局の兆しが見えぬまま現在に至っている。三人寄れば文殊の知恵と言うが、大の大人が何人も集まって口角から泡を飛ばしまくっているのになぜこの論争は解決しないのだろうか。その原因はそもそもこの論争において主に男女間で論点がズレているからだ、と私は思う。デートにおいて男が女に食事を奢るべきか否か、という問題を語るにあたって男女の間で問題としている点が違うのだ。そして始末の悪い事に、論争に参加している者は自分の論こそ正しい!と思い込んでいるのでそもそも相手と話がズレているのに気づかないのである。では、奢り奢られ論争における論点のズレとは何だろうか?ここではそれを説明したうえで、私なりの議論の終着点を示していきたい。

 それを語る前に、以下で記す論の前提をまず示そうと思う。一口に奢る、奢らないと言ってもそれは時と場合に大きく左右されてしまうからだ。そのため、ここでは社会的地位の優劣や金銭格差等の余分な要因を排除する。
まず、以下で論じるのは「恋仲である若しくはそれを前提にプライベートな関係を結んでいる男女」である。つまり、東京都港区で散見されるようなギャラ飲みや仕事上の食事等はこれに該当しない。
次に、その男女の間には上司部下といった社会的地位の優劣が存在せず、且つ収入や金銭的な余裕も同程度で、年齢もほぼ一緒である。
また、以下の論において女は「デートの場で男はしばしば好きな女性にご飯を奢る」という事を知っており、奢られたくないという独自の思想や背景を持っていない。
ここでやっと、純粋に「デート」で「男」が「女」に奢るという図式が出来上がる。他の要因が一切絡まない純粋なモデルが現実にあるのか?という問題はあるが、奢り奢られ論争の抱える根底的な論点のズレを説明する為に持ち出したものであるのでご容赦願いたい。

 さて、前提も示したのでいよいよ本題に入ろうと思うが、まず男性はこの奢り奢られ論争で何を問題にしているのだろうか?それは至極簡単で「男性が女性に奢るべきとする価値観は男女平等ではない」という男女平等論である。「男性が女性に食事をおごるべき」という価値観は、女性が社会進出をあまり果たせていなかった過去に生まれたものであり、女性と男性の間に金銭的な格差があった。そしてその時代においては、女は家を守るものであり働いてお金を稼ぐのは男性だという価値観が影響力を持っていたので、金銭を稼ぐ役割を持たない女に割り勘を求めようとする男もいなかったのだ。
 しかし現在は男女平等論が花開いて真っ盛りであり、男も女も平等に学校に通い進学して就職する時代である。無論結婚後に家庭に入る女もいるが、少なくともその時までは働いているのが「普通」であろう。それなのに男性が無条件で女性に奢るべきというのは理不尽でしかない。稼ごうと思えば稼げるんだから自分の食うもの位自分で払え!というわけだ。至極ごもっともである。正論以外の何物でもない。しかし、あまりにもシンプルな正論過ぎるので、これを語る時、人はそれ以外に一切目を向けなくなる。相手と論点がすれ違ってようと全く意に介さなくなる。そして、こんな簡単な理論が分からない女は馬鹿だ!論外だ!と言い出すのである。そして、それを突き付けられた女側もなんか違うんだけどな、と思いつつも相手の言っている事が正論過ぎるので、黙るか若しくは開き直って感情丸出しで喚くしかなくなってしまうのだ。

 では、奢り奢られ論争において、奢って欲しいと思っている女は何を考えているのだろうか?彼女たちが問題としているのは実は金銭ではなく、恋愛における相互的コミュニケーションではないだろうか、と私は思う。この事は、奢り奢られ論争において女がデート前におしゃれをする際費やした金額を反論として持ち出してくる事から分かる。確かに彼女達は口では、こんなにお金かけておしゃれしてるんだから奢るべき!と叫んでいる。しかし、その発言に隠された心理に思いを馳せると、彼女たちが気にしているのは金額そのものではなく、自分がおしゃれをしたという行為に相手が応えなかった事である事に気づけるだろう。
恋愛とは相互の努力と誠意で成り立つ関係であり、互いに相手への好意を示し続けないと容易く壊れてしまう。だが、疑心暗鬼に塗れた現代社会の哀しき大人たちは、口で愛を囁き合うだけでは満足できない。言葉では何とでも言えるからだ。態度や行動で愛を証明しあわないと満たされない身体になってしまっているのだ。故に、恋人間及び恋愛関係を視野に入れている男女間では、互いに好意を示すために行われる風習が多く存在する。バレンタインデーにチョコレートを女から男へ渡す事。女はデートに行く際おしゃれをする事。そして、男が女に食事をおごる事である。
 つまり、奢るべきだと主張する女たちは恋愛における風習に従うよう求めているのである。そんな風習に従うかどうかは自由じゃないか!と主張する男もいるだろう。しかし、ちょっと逆の立場で考えてみて欲しい。折角のデートに彼女が髪はぼさぼさ、眉も整えずすっぴんで、服はTシャツとジーパンで肩にはエコバッグという出で立ちで現れたらどうだろう。怒りはせずとも、よほどの聖人君子でなければ多少は引いたり、少なくとも疑問には思ったりするはずである。付き合って暫くの時が経ち、良好な関係を築けているはずの彼女がバレンタインに既製品のチョコレートすらくれなかったら?やはり疑問に感じるのではないだろうか。デートにおしゃれをするべきか、バレンタインの贈り物を渡すべきか、それは完全に女性の自由である。しかし、それが普遍的な恋愛関係上の風習や社会通念になっていればこそ、それを当たり前に期待してしまうのである。
 では、我々がそのような社会通念に相手が従う事を期待してしまうのは何故なのだろうか。それは、社会通念に従う事こそ、相手への愛情を示す最も難度の低い手段であるからだ。恋愛とは個人と個人の関係であり、相手の性格や価値観を良く見極めたうえで相手を喜ばせないといけない。だが、社会通念や風習として一般化・普遍化された事は相手もそれを期待するだろうと予測できるのだ。万一、相手がそれを期待していなかったとしても、「普通は」その風習に従うので相手の期待と外れた行動をしたところで、相手を不機嫌にしてしまう可能性は低い。そのため、もし良好で円滑な恋愛関係を築きたければこの様な社会通念は脊髄反射で従っておくのが最も「コスパが良い」のである。下手に色々考えなくても意中の相手の好感度が上がるのであれば、多少の金銭など惜しんでいる場合ではない。だから、本当に恋愛関係が成立していれば、特段の事情がない限り社会通念に従わない事は相手にとって異常事態として受け取られてしまうのである。
 さて、以上では奢れ奢れという女が何故奢るよう主張するのかについて説明した。しかし、例え奢られないのが異常事態だったとして、何もああまで怒らなくてもいいはずだし、まじてそれをSNS上に書き込む必要もないはずだ。では、何故奢られなかった女の内に、SNSでぶちぎれるような手合いが生まれてしまうのだろうか。その謎を解き明かすためにはまず、彼女たちの共通点について考えてみる必要があるだろう。頭の中に、デート相手の男性が食事を奢ってくれなかった事を批判して怒りまくる内容のSNS上の文章を思い浮かべて欲しい。その文章の左上、アイコンの部分には何があるだろうか?大抵はそこそこの美貌を持つ女(加工はしているだろうが)の自撮りではないだろうか?そして彼女の他の書き込みも想像してみよう。ダイエットの方法や美容関係、若しくは恋愛関係の書き込みがありありと脳裏に浮かぶのではないだろうか。そう、奢られなかったら怒るタイプの女は、中学生の時に美術部やイラスト部で銀魂のキャラクターの真似をして叫び、今でもその頃からあまり変化のないようなオタク女ではなく、少なくとも大学デビューは華々しくこなしたようなおしゃれ上手で自分の女性的魅力に自信のある女(若しくは嘗てはそうだった女)なのである。
 そんな彼女たちにとって、デート相手が食事を奢ってくれなかった事は由々しき事態と成り得る。何故なら、従っておいて特に損のない風習に相手が従ってくれなかった主な理由としては以下の三つが考えられるからだ。
①     そもそも相手がその風習を知らない。
②     相手が独自の思想の持ち主で奢りに抵抗がある。
③     魅力を感じなくなったので良好な恋愛関係を構築する気が失せた。
この中で彼女たちにとって問題となるのが③だ。自分に自信があり、デートにちゃんとおしゃれをして赴き、道中や食事における会話も少なくとも自分なりには気を遣ったと自負している彼女達にとって自分の魅力が否定されるのはどう考えても腹立たしい事だろう。ただでさえ、自分はデートにおける風習に従っているのに相手が従わなかった事で、はしごを外されたような気分になっているのだ。その上、相手が自分に魅力を感じなくなった可能性を匂わされてはたまらない。相手へその苛立ちをぶつけないでいるのが精いっぱいで帰ったら即座にSNSに吐きだしてしまいたくなってもしまうだろう。しかし、その様な女性は口が裂けても自分の魅力がないだなんて事を認めようとはしない。だから、SNS上で愚痴を吐く時も①や②の理由を取って、相手が常識知らずだの、ケチだのと罵るのだ。

 さて、以上では奢り奢られ論争における男女間の論点のすれ違いと、なぜ一部の女は奢られなかったからといってきれ散らかしてしまうのかについて考察してきた。以下では、奢り奢られ論争の着地点として私が思うところを男女別に述べていく。

 まず、男についてだが、女に食事を奢るか奢らないかについては自由であるべきだと私は思う。男女平等、女性も稼げるこの時代に過去の価値観でもって人を縛るのは余りにもナンセンスだからだ。風習という観点から見ても、現代は恋愛非恋愛を問わずあらゆる風習から個人が自由になる時代であり、会社の飲み会すら行かなくても構わないのだ。それなら女に食事を奢る必要性などどこにもないではないか。奢りたきゃ奢れ。嫌ならやらなくていい。これでファイナルアンサーである。だが、これで本当にオシマイという訳にはいかない。いくら奢る奢らないを自由に決めていいとしても、奢らなかった事が相手に悪い印象を与え、円滑な恋愛関係に傷をつける可能性はどうしても生じてしまうからだ。そこをしっかりと把握しておく必要がある。いくら職場の飲み会が参加自由であるとはいえ、何回も連続して欠席したら、付き合いの悪い奴だと思われるのは避けられないだろう。それと全く同じで、女に食事を奢る事が普遍性を持つ恋愛上の風習であり続けている以上は、それに従わないとリスクが生じる事を念頭においておくのが賢明であろう。

 女については、まず、デートにおいて奢られるのを期待するのは別に悪い事ではない、という風に言えるだろう。それが正しいか正しくないかはさておいて、デートで意中の女に食事を奢るという行為はまだ普遍的な風習として存在しているのだから、それを期待するのはごく自然な事であるだろう。しかし、期待というものは突き詰めるとただの勝手な願望であり、叶わなかったところで怒ったりしてよいものではない。あくまで期待は期待であり、相手が応えるとは限らないという事を頭に入れておくと良いだろう。また、食事を奢られなかった際に、それを恋愛におけるマイナス要因として考える権利もあると私は思う。先程述べた通り、恋愛上の社会通念や風習に逆らう事は円滑な恋愛関係を傷つける要因になり得る。奢られなかった女がその理由を気にするのは自然な事であるし、婚活等の事情でパートナー探しを急いでいる人であれば、それによって相手との恋愛関係を切る事も別に悪い事ではないのだ。だが、奢られる事を当然視し、奢られなかった際に相手の人格を悪しき方に決めつけるのはいくら何でもやり過ぎである。厳しい親の元に育ち恋愛経験値が低い男であれば、恋愛上の社会通念を知らないという事も有り得るのだから、怒りのままに相手の性格や人格を悪い方に推測するのは完全に許される域を超えている。無論、それをSNSで書きこむというのは愚行以外の何物でもないだろう。だって少し考えてみて欲しい。「初デートなのに彼女すっぴんの髪ぼさで来たんだがwwww有り得ねぇwwwその場で振ってやったわ何あいつwwww頭おかし過ぎwww」みたいな投稿がSNS上にあったらどうだろう。普通に炎上するに決まっている。それと同じなのだ。自分は最善を尽くした(少なくとも主観において)のに相手がそうしてくれなかった時の怒りは誰でも持ちうるものだ。しかしそれは相手への理不尽な押し付けであり、合理的・理性的な行動とは結び付かない。あなたの怒りを肯定してくれるのは、合理性に多少目を瞑ってでも感情的な部分に寄り添ってくれるような家族や友人であり、SNS上の縁のない誰かではない。だから、愚痴を言うにしてもせいぜいその様な間柄か、SNSでも鍵垢の中で済ませるのが賢明である。少なくとも、奢りを期待する気持ちが勝手な願望であり、奢られなかった事への怒りも理不尽な情動であるという事は自覚した上で行動するのが良いだろう。

 さて、私が述べたい事は以上で全てである。まずはこの長ったらしい文章をここまで読んでくれた画面の前の貴方に感謝を。貴方が奢り奢られ論争においてどの様な立場をとっているかは知らないし、私と同じスタンスでいるべきとも思わないが、本稿が貴方にとってこの論争を冷静に考える際の一助となれば幸いである。

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