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犬 中勘助(完全版)

 凡例
  底本は、『犬』岩波書店 第二刷(一九八三年六月三日発行)とし、旧仮名遣い、旧漢字は現在のものに改め、読みにくいと思われる漢字にはルビを振ってあります。漢字の送り仮名が現在のものと異なると思われるものは、原文のままとし、読みにくいと思われるものにはルビを振ってあります。
 仮名遣いは、一部旧仮名遣いを意図的に残している箇所があります。
 
   
 
 有名なガーズニーのサルタン・マームードは印度の偶像教徒を迫害し、その財宝を掠奪することをもって畢生ひっせいの事業として、紀元一〇〇〇年から一〇二六年のあいだにすくなくとも一六七回の印度侵入をくわだてた。いつも十月に首都を発して三ヶ月の不撓ふとうの進軍をつづけたのち内地の最富裕な地方に達するならわしであったが、かようにして印度河から恒河ごうがにいたるまでの平原を横行して、市城を陥れ、殿堂偶像を破壊することによって、彼は「勝利者」「偶像破壊者」の尊称を得た。温暖豊満な南方平野の烏合の衆は、北方山地の勇敢な種族と、中央亜細亜草原の残忍な騎兵の団結した軍隊の、回教的狂熱と盗賊的貪欲に燃えたつところの攻撃によって砂礫されきのように蹴散らされてしまった。いたづらに驕慢な偶像教徒は凶暴な異教徒の前に慴伏しょうふくしつつも、みじめな敗北者の陰険黒濁な憎悪と侮蔑をもってひそかに彼らの宗敵をのろっていた。
 これは一〇一八年にマームードがヒンドスタンの著名なる古都カナウジのほうへ兵を進めた時のことである。彼の台風のごとき破壊的進撃の通路にあたってクサカという町があった。彼の軍隊は行軍の都合上そこに宿営した。そうして、奪略、凌辱、殺戮等、型のごとくあらゆる罪悪が行われたのち、彼らは津浪のように町を去った。
 その頃クサカの町からほど遠くはなれた森のなかにひとりの印度教の苦行僧がいた。彼はもと町にあった相応な天祠の主僧であったが、回教軍が最初にここを通過した際に祠堂は跡かたもなく焼き払われ、偶像はこぼたれ、財宝は掠められ、そののちわずかに再建されたものも間もなくまたうち壊されて、幾度とない侵入のために終には不幸なその町さえが荒廃しそうな有様になったので、彼はとうとう住むべき家もなくなり、その森のなかに形ばかりの草庵を結んでようやく信仰をつづけていたのである。彼はそこへうつってから思い出したように苦行をはじめた。それを人々は、彼が不倶戴天の異教徒を滅して、印度教と印度の国を往時の繁栄と光明に蘇らすためなのだと噂しあった。実際北方印度の諸王の同盟軍をさえ粉韲ふんせいしたほど無敵な回教軍に対してはそんな風にでも考えるよりほかしかたのないほど彼らは絶望的な状態にあったのである。そのためにこれまではただ世間なみの天祠の主僧に過ぎなかった彼は――婆羅門の権威と清僧の誉とは正当にもっていたのであるが――たまたまひどい苦境に陥った愚痴な人々の異常に放縱ほうじゅうな迷信的な崇敬をうけることとなった。
 草庵のそばにはすばらしい檬果樹もんかじゅがあってあたりに枝をひろげている。その逞しい幹に這いあがったおそろしく太い葛羅かづらは、ちょうど百足むかでの脚のように並列した無数の纏繞根てんじょうこんを出してしっかりと抱きついている。その二つの植物の皮と皮、肉と肉とがしっくりとくいあっている様子がなんだか汚しい手足と胴体とが絡みあっているようないやな感じをあたえる。その蔭に彼は毎日日出ひのでから日没まで、一枚の布片、一片の木の葉さえ身につけぬ赤裸のまま足を組んでじっと前方を見つめている。間がなすきがなしにくる蚊虻かあぶその他の毒蟲の刺傷のために全身疣蛙いぼがえるみたいになり、そのうえ牛の爪を鉤なりにしたもので時々五体を掻きむしるので――それは多分なにかの穢らわしい邪念を追いのけるためであろう――どこもかしこも腫物と瘡蓋かさぶた蚯蚓みみず腫れとひっつりだらけで、膿汁と血がだらだらと流れている。自ら厳酷げんこくな苦行僧であった湿婆シヴァはかような奇怪な肉体の苛責によってよろこばされると信じられているのである。見たところ彼は五十前後であろう。苦行に痩せてはいるが元来頑丈にできた骨格をして、目だって広い肩と、太い肋骨のみえる強く張った胸をもっている。むしゃくしゃと垂れた白髪まじりの髪は脳天まで禿げあがり、大きな額のまんなかが眉間へかけて縦に溝がついて、際立って高くなった濃い眉のしたに睫毛のない爛れ眼がどんよりと底光りをしている。厚ぼったいだぶだぶした唇、がっしりした顎、膝頭やくるぶしのとびだしたわるく長い脚、彼は髑髏の瓔珞ようらくくびにかけて繋がれた獣のように坐っていた。
 ここにひとりの百姓娘が毎日日の暮れる頃になるとはかならず草庵のそばをとおって森の奥へ、そうして暫するとはまたおなじ小路を町のほうへ帰ってゆく。彼女はその路、というよりはむしろ人の足あとの行きどまりにある猿神の像に願をかけにくるのであった。彼女は草を刈り酪をつくるまも忘れることのできぬひとつの悩みをもっていたのである。
 彼女は不仕合せな孤児で、ごく幼少の頃から遠い身よりの者の手に引きとられて育てられねばならなかった。その人達は格別性質が善くないという訳ではなかったが、一般に人間がそういう場合にあるようにかなり苛酷で無情だったので、彼女は物心づいてからろくに人情のやさしみ温かみを味わったことがなかった。そうして眠る時のほかは殆ど休む暇もない労役に鍛えられつい今度十七の春を迎えようとしているのである。いったいが丈夫に生まれついた身体は必要上めきめきと発達し、一方に境遇上の苦労や気づかいはその顔にあきらかな早熟と孤独の表情を刻みつけて、彼女を実際の齢よりはよっぽどふけてみせた。ただおのづから流れいづることをとめられたあどなさとあてのない深い憧憬とが乳房に乳のたまるようにすこやかな胸の奥に熱く溜っていた。
 彼女は草庵のそばをとおるのがひどく苦になった。彼女は自分の属する種姓の卑いことからことに聖者を畏怖していた。それははかり知ることのできない深い智慧と、徳と、神の寵幸とをもち、また呪術によって幽鬼の類を駆使し、しばしば行力をもって諸天の意志をさえ強いることのできるものだと信じていた。彼女は聖者の黙想を妨げることをおそれ、路を埋めている落葉や枯枝の音をたてるのにさえ気をかねて、はだしの足を浮かせながらこそこそとそこを通りぬけた。彼女は息をころして一生懸命自分の足もとを見つめてゆく。それゆえ見える筈はないのだが、なんだか彼がどんよりとすわった眼でじっと自分を見送るような気がしてならない。とはいえ聖者は黙然として苦行をつづけていた。
 そのようにして幾日かが過ぎた。ある日彼女がいつものとおり猿神のところから帰ってきたときに、思いがけなくも聖者は苦行の坐から起ちあがるところであった。彼女ははっとして立ちどまった。太陽は沈みかけてはいるがなおけばやかな橙黄とうこうの光を横ざまに投げかけている。聖者はおもむろに起ちあがった。が、足が痺れていたのでよろよろとしてかたえの檬果樹の幹に手をつっばって身を支えた。
「これ女、そなたは毎日なにをしにくるのぢゃ」
 気も顛倒てんとうした彼女の耳に低くはあるが底力のある太い声が気味悪く響いた。彼女はなにかいおうとしたが、頬がふるえ、息がはずんで、とみには言葉も出なかった。
「なにをしにくるのかというのぢゃ」
 彼女は地にひざまずいて敬礼したのち声をふるわせながら答えた。
「猿神様へ願がけにゆくのでございます」
 聖者は尊大にうなずいた。その時にはもう幹から手をはなしていた。そうしてまだともすればよろめこうとする足を踏みはだけて立ちながら彼女の身体をじろじろと見まわした。
「それはどういう願をかけに」
 そろそろと二足ばかり歩みよった。そうして頸筋までも赤くなってちぢこまるのを、疑り深い、意地の悪い眼でじっと見すえたが、ことさら声を和げていった。
「どういう願をかけにな」
 彼女は当惑して右左に眼をそらしていたが、ややあって憐れみを乞うように聖者を見あげた。長い睫毛のしたに黒い眼がうるんでいた。
「そのようにおびえんでもええ。わしはそなたを助けてやろうと思うのぢゃ」
 途方にくれた彼女は、五体を地に投じて聖者の足に額をつけて、両手をのばしてその踵をさすった。聖者はその温かみを感じた。彼女はようやく観念した。そしてしどろもどろに、かつかつにいった。
「この子の親にあいたいのでございます」
 この子、、、をいう時にせつなそうに自分の腹に目をやった。聖者は愕然とした。
「そなたは身重になっているか。そなたには夫があるか。……いや、そちは姦淫をしたか」
 彼の目は険しかった。
「その男は何者ぢゃ。どこに居るのぢゃ」
 彼女の顔は蒼白になった。
「いうてしまえ。わしに隠しだてをするはおろかなことぢゃぞ」
 彼はしずかに諭すようにいった。が、微塵も違背をゆるさぬ婆羅門の命令的な調子があった。彼女はわなわなとふるえた。それはどうあってもいえないことだった。とはいえどうでもいわなければならなかった。いかに隠しても聖者の天眼はじきにそれを看破ってしまうであろう。
「はよういわぬか」
 彼女は覚悟をした。
「邪教徒で……」
「なに」
「御免ください。穢されたので……」
 彼女はひいと泣きふした。後の言葉は喉のなかで消えてただ口ばかり魚のように動いた。けれども馬のように立った大きな耳はそれをききのがさなかった。
「馬鹿者めが」
 そうして忌わしげに彼女を後目にかけながら
「こっちゃへこい」
と叱るようにいって草庵のほうへ歩きだした。彼女はしおしおとたちあがった。そして我知らず森の出口のほうを見た。日はもうとっぷりと暮れた。今にも夜になろうとしている。
「早く帰らなくては」
と思う。𠮟責や折檻が眼に浮かんでくる。彼女はなにかいいたそうに顔をあげた。そうしてはじめてよく聖者の身体を見た。赤裸で、どす黒く日にやけて、腫物と、瘡蓋と、蚯蚓腫れと、膿と、血とで、雑色の蜥蜴のように見える。彼女は厭悪えんおと、崇敬と迷信的な恐怖の混淆こんこうした嘔きそうな胸苦しさを覚えて逃げ出したい気はしながら、憑かれたようにひきずられて草庵のなかへはいった。
 草庵のなかはまっ暗で、土のいきれとむっとする牛糞の臭いがこもっていた。それはその場処を清浄にするために時々牛糞を地に塗るからであった。聖者は神壇のまえにさぐりよって、火を打って燈明をともした。ぱちぱちと油のはねる音がして火花がちっていたが、それがすむとすうっと焔が立って急にあたりが明るくなった。正面の中央には一段高く形ばかりの壇を設けて粗末な湿婆シヴァの石像が安置してある。それは聖牛に乗り、髑髏の瓔珞ようらくをつけて頸に蛇をまとった五面三眼の像であった。またかた隅には少しばかりの藁を敷いてしとねの形にしてある。それは坐具とも、食卓とも、臥榻がとうともなるところのもので、その傍には一個の水甕みずかめと、木鉢と、油壺と、そのほか日用、祭式用のわずかの道具類がおいてある。それで唯さえ狭い草庵のなかはやっと七八人のものが坐るほどの余地しかない。聖者は藁床のうえに腰をおろして尻込みする彼女をまぢかく坐らせた。そうして落ちついた濁った低音で説法でもするように語りだした。
「これ女、そちはなんということをいうのぢゃ、そちは邪教徒に身を穢され、穢わしい胤まで宿して、そのうえまだ男にあいたいというか。そちは自分を穢した男が恋しいか。たわけめが。そちがそのように思う以上はそちは穢されたのではないぞよ。姦淫したも同然ぢゃぞよ。そちのような者 を湿婆シヴァは邪教徒と一緒に地獄におとされるじゃあろ。湿婆シヴァがなされずともわしがおとしてやるわ」
 彼女はたまらなそうに身をふるわせて泣いた。
「うむ、そちは泣くか。地獄へおちるのが悲しいか。それなら男を思いきるか。う、思いきってしまえ。の、忘れてしまうのぢゃ。一時の迷いならゆるさりょうず。わしはそちが可哀そうぢゃによってゆるしてやる。湿婆シヴァの御慈悲も願うてやる。う、わかっつろ。さあわかったならなにもかも湿婆シヴァとわしのまえで懺悔してしまうのぢゃ。なにもかも隠さずに」
 いやも応もなかった。が、彼女はいうのが真実つらかった。それは拭いがたい不面目をうちあけることに対する羞恥よりは、むしろ大事の秘密を暴露することに対する愛惜であった。根掘り葉掘りききほじる聖者に促されて、彼女がとかくいい淀みながら辛うじて語りおおせたその話はざっとこうであった。
 いつぞやマームードの軍がクサカの町に宿営した時のことである。彼女は日の暮れまえ邪教徒を恐れながら市外のながれへ水を汲みに行った。ところが運悪くも――とその時は思った――一人の従者をつれた若い邪教徒の隊長――彼女はその男のみなりや供をつれていることからそう思ったのである――にばったりと行きあった。彼らは彼女を見るや否や両方から肩先をむずとつかまえた。そうして隊長のほうが、捕らえられた小鳥のようにわなわなしている彼女の顎に手をかけてぐいと自分のほうに仰向かせて、目ききでもするように、じっと顔を見つめた。そしてなにか一言二言いって従者に目くばせした。と、二人して腋下へ腕を入れて吊しあげるようにぐんぐんとつれてゆく。彼女は
「御免なさい。放してください」
と泣きながら嘆願した。彼女は呼んだ。叫んだ。死物狂にあばれた。けれども足が殆ど宙に浮いているのでどうすることもできなかった。彼らは兎か猫の子でもつかまえたように面自そうに笑いながら彼女を天幕の沢山張ってあるほうへつれて行った。小高いところに一本の巨大な榕樹が無数の気生根を立てて、美しい叢林そうりんをなしている。その蔭にほかのものからすこしはなれてひとつの天幕がある。そこへ連れこまれた。それが彼らのであった。彼女はさっきからの必死の抗争ですっかり力がぬけてしまったがそれでもまだ執拗に
「帰してください、放してください」
を器械的にくりかえしていた。従者は
「大丈夫かしら」
というように用心深くそろそろと手をはなして入口のところに立ちふさがった。男は腰をおろして彼女を膝に抱きあげた。そうしてかた手で背後からしっかりとかかえて、かた手で極度の恐怖のために蒼白くなっている彼女の頬をそっとさすりながら、訳のわからぬ異国の言葉でやさしくなにかいいかけた。それをたぶん
「心配することはない」
とか
「どうもしないから安心しろ」
とかいうのだろうと思った。そこでやっとすこし気がおちついて怖々男の顔を見た。彼はまだ二十五六かと思われた。型のちがった異国人の顔ではあったが、眉の濃い、眼の大きな、凛としてどことなし気品のある顔であった。
彼女はなんとなく
「この人は無体なことはしやしない」
という気がした。いつしか彼女は彼の帯びている綺麗な蛮刀に見とれた。そのつかのところには金銀のかざりがいっぱいついていた。彼はそれを無造作に腰からはずして彼女の手に渡した。そのとき従者がなにかいったら彼は微笑みながらうなずいてみせた。それを彼女は
「なに大丈夫」
といったのだろうと思った。実際それでどうかしようとすればできないでもなかったが、そんな気はちっとも起らなかった。そのとき彼は彼女を膝からおろして自分のそばに坐らせた。そうしてそこにあった果物をむいてすすめたのを手も出さずにいたら、彼はふくろをひとつとって彼女の唇におしつけた。彼女はまごついて口をあいてそれを食べた。彼は愉快そうに笑って頬ぺたをつっついた。そこで従者を呼んで二つの洋盃に酒をつがせ、先ず自分でひと息にのみほしてから、もうひとつのほうの洋盃を彼女の口へもっていった。彼女はもうなにもあらがう気がなかったし、すなおにしてさえいれば帰してくれるだろうと思ったので大人しくそれをのんだ。甘い、いい匂いのする、きつい酒だった。喉がかっとして、おなかで煮えくりかえるような気持がした。男は彼女の手をとってうえしたに揺るようにして拍子をとりながらいい声で異国の唄をうたった。それをきいているうちに身体じゅうがかっかとほてって気が遠くなってきた。彼女は心細くなって どうぞもう帰してください といおうとするのだけれど舌がもつれてどうしてもいえない。そして自分で自分の身体が支えていられなくなってひょろひょろとしたところを彼に抱きよせられてぐたりとその胸に頭をよせてしまった。
 彼女はここまで話してきて急にさしうつむいた。
「犬めが、それからどうした」
 聖者はひどくせきこんだ。彼女は火のでるように赤くなった。
「それからその人は私の……従者は出てゆきました……」
「お……おのしはされ放題になっていたのか」
「いえいえ、でももうどうすることも……もがいても、呼んでも……」
「うむ、それから」
 聖者は話を目で見ようとするような様子をした。彼女は泣きだした。
「うむ彼奴はそのくびを抱えたのぢゃな。その腹へのしかかったのぢゃな。うぬ!」
 聖者の顔は捩れ歪んだ。
 天幕のなかで彼女は裸のまま両手で顔をかくしてしくしく泣いていた。男は着物をとって手つだって彼女に着せた。そうしてやさしくじっと抱きしめてさも可愛げに、また心から詫びるように涙に濡れた眼瞼に口つけた。彼女は彼の胸に額をよせて息のとまるほど泣きじゃくりした。彼に対する彼女の信頼は目のまえに無慙に裏ぎられた。とはいえ不思議にもそれについて彼女の心に驚きや怒りの痕跡さえもなかった。ただ最初に、一般に異性との交渉に対する処女の本能的な恐怖があった。そしてその次に、童貞を破られた女性の――正当にでも不正当にでも――深い、遠い、漠然とした悲しみがあった。さきに「信頼」と見えたところのものは実は「信頼」の假面かめんを被った「許容」であったのかもしれない。男は金絲の縁縫いをした着物で涙を拭いてくれながらしきりになにかいい慰めるようであったがもとよりひと言も通じなかった。彼はしまいに自分の顔を指さして
「ジェラル、ジェラル」
と幾度も繰りかえした。
「私はきっとその人がジェラルという名なのだろうと思いました」
と彼女はいう。聖者は脅かすようにいった。
「それは名ではないぞ、邪教徒は彼奴らの使う悪鬼を呼ぶ時にそういうのぢゃ。そ奴は悪鬼の力でそちの心までたぶらかしてしもうたのぢゃ」
「私はようやっと立って帰ろうとしました。その人は手をとって助けてくれました。そうして外に番をしていた従者を呼んでなにかいいつけました。従者は苦笑いしましたが多分いいつけられたとおり私を送って家の近くまでついてきました」
 話す彼女よりも聴いている聖者は一層見るも無惨であった。
「そちの罪業は深いぞよ。明日から七日のあいだ今日の時刻に湿婆シヴァにお詫びをしにこい、必ず忘れるなよ。さあ帰れ。穢れた奴」
 彼女はもじもじとして立ちかねていた。やかましい主人がそれを許してくれるかどうかを気づかうのであった。で、恐る恐るその懸念をうちあけた。
「よし。帰ってこのわしがいうたといえ。もしそちをおこさぬようなれば彼らまでものろわれるぞと」
 彼女はすごすごと草庵を出た。森のそとは月が皎々と照っていた。彼女は家へ帰っておずおずと一伍一什を話した。そうして最後に聖者のいった言葉をも附け加えることを忘れなかった。唯自分が身重になっているということだけはいわなかった。凌辱についてはすでにその当時わかっていたので格別のこともなかったが、日参のことになると主人はいきなり顔の曲るほど彼女をなぐりつけた。暇がかけるのと供養の費えるのが業腹だったのだ。そうして結局あとからそれだけ余分に働いて穴埋めをする約束のもとにしょうことなしに許した。
 彼女は一般に邪教徒のいかなるものであるかは知り過ぎていた。それは憎むべきもののなかでも憎むべく、恐るべきもののなかでも恐るべきものであった。彼女は彼らを憎み、恐れ、かつのろっていた。それにもかかわらず彼女は己を抱愛した若い、美しい、優しい――と思った――男を憎むことができなかった。そればかりかどうしても忘れられない。彼は彼女を穢した。それが穢したのならば。とはいえ彼の抱愛はいかばかり心こめた熱烈なものであったか。それは彼女が未だかつて夢想だもせずして、しかも我知らず肉と心の底の底から渇望していたところのものであった。彼女はその思い出すも恐しい、奇怪な、しかも濃に、甘く、烈しく狂酔させたところのそれを思うのであった。それは恐ろしく、奇怪であったがためにますます不思議な魅力のあるものとなった。彼女はまた自分の腹の子を考える時、男と自分との間に一種神秘な、神聖な鎖が結ばれたような気がしてならない。そうして彼がいつか再び戻ってきて自分とめぐりあうような気がしてならない。彼女は勝ちほこったような気持で覚えずほほ笑みながら胸のうちでこんなことをいってみる。
「御覧なさい。私はあなたのものです。私はあなたの子を授かりました。私は神かけてあなたのものです。私を抱いてください。口つけてください。一緒につれてってください」
と。
 翌日彼女は一椀の供養の食物をもって邪教徒の天幕よりも怖い聖者の草庵へ行った。聖者は己に苦行をおえて木の幹によりかかっていた。そして無言のまま彼女を立ち迎えて草庵のうちへ導き入れた。彼は彼女の捧げた食物を木皿にうけて藁床のうえに置き、水甕みずがめのふちを両手でもって重たそうに神壇のまえへ運んだ。それには七分めほど水がはいって、一本の聖樹の枝がさかさまにひたしてある。彼女は滅入りそうな気持で目をふせていた。
「これは祈禱きとうによって功徳をつけられた水ぢゃ。これを神像にそそいで湿婆シヴァいかりを鎮め、またそちの身体にふりかけて穢れをすすぐのぢゃ。そうして、罪をゆるしてくだされ、身を浄めてくだされ、福徳を授けてくだされ、とおねがいするのぢゃ、そちは身に着けたものはみな脱いでしまわねばならぬ。そうしてこの燈明の消えるまで祈願をこめるのぢゃ」
 彼女は石像のようになって目をみはった。
「燈明が消えたら帰ってもええ。それまでわしは外に出て居ろう」
 聖者は外から扉をとじて歩み去った。彼女は耳をすまして足音の遠ざかるのをきいた。そうしてやや暫くためらっていたがようやく心をきめて、身にまとった布片をほどこうとして無意識に神像を見あげた。それが生きて見ようとでもするかのように。彼女はぐるぐるとほぐしはじめた。立派に発達した肉体が次第次第にあらわれる。彼女は着物をかた寄せておどおどしながら聖樹の枝をとって浄水を神像にふりかけた。そして平伏して祈願したのち起きあがって今度は自分の身体にふりかける。幾度も幾度もくりかえしているうちにやっと気が落ちついてきた。彼女はもはや猿神に祈ったようにこの子の親に今一度あわしてとはいわなかった。教えられたとおり、罪をゆるして、身を浄めて、と祈った。それは真実一生懸命であった。とはいえ恋人を棄てよう、忘れよう などとは露ほども思いはしなかった。
 皿の油はあまりながくはもたなかった。けれどもそれがどんなにながく思われたか。燈明が今にも消えそうになるのをみて彼女は手早く着物をきた。そして湿婆シヴァのまえに最後の礼拝をしてほっとして草庵を出た。そうしてそのまま帰ってよいかどうかを疑って見まわしていたときに聖者はどこにいたのかじきに姿を現した。
 聖者は娘の跪拝をうけたのち草庵に入った。そこには燃えた油のにおいと女のにおいがこもっていた。彼は燈明をともした。神像が浄水にうるおって、そのまえにひとすじの髪の毛が落ちていた。彼はやや久しくなにか思い耽ったのち供養の食物をとってぺちゃぺちゃとうまそうに食べた。
 その次の日も聖者はおなじように娘を残して草庵を出た。彼は程近いながれのところへきた。そこは月が水を照らしてせいせいと明るかった。そこでいつもの浅瀬に降り立って水浴をした。まだ癒えきらぬ掻ききずがひりひりと痛んだ。それから彼は岸にあがって黙想しようとするように足を組んで瞑目していたが、じきに立ちあがってそこいらを歩きまわった。彼は終日の苦行に疲れかつ飢えていた。で、また草のうえにべたりと腰をおろして息をつきながらなにかの考えに囚われた。と思うとまたその辺を落ちつきなくふらふらと歩きだした。彼は俛首うなだれながら夢遊病者のようにさまよった。夜の鳥が頭上の枝からばさばさと飛び立った。彼ははっと我にかえった。そしていつのまにか草庵のある空地にきているのに気がついた。彼は足どめにかかったように立ちすくんで思案しはじめたが首をふってもと来たながれのほうへ歩きだした。と、またひっかえした。そして二足三足歩いたとおもうとくるりと身をめぐらした。で、そのまま地から生えたように立って苦しげに溜息をついた。彼は脇腹のきずを爪で掻きさばいた。髪の毛をひきむしった。が、終に萬力でよじられるようにじりじりと向きなおった。そうして餌をねらう獣の形に足音をぬすんで草庵のほうへ忍びよった。彼は背面の隅の地面に近いところに明りの漏れる小孔を見つけて、そこへいやな恰好に四つ這いになって腹をひどく波たせながら覘きはじめた。
 それとは知らず娘は一心不乱に祈願をこめている。うす暗い燈明の光がこちらから裸体の半面を照らしてふんわりとした輪郭を空に書いている。しっかりと肉づいてのびのびした身体が屈んだり伸びたりする。むりむりとした筋肉が尺蠖せきかくのように屈伸する。彼はその一挙一動、あらゆる部分のあらゆる形、あらゆる運動をひとつも見逃すまいとする。娘はつつましく膝をとじ、跪いてじっと神像を見つめたのち、祈願の言葉を小声にくりかえしながら上体をまげて、両肱と額を地につけて敬虔に平伏する。うなじから背筋へかけて強い弓のようにたわんで、やや鋭い角をなしたいしきがふたつ並んだ踵からわずかにはなれる。娘は起きあがる。顔が美しく上気している。今度はかた膝をふみ出し左手を土について身を支えながら、及び腰に右手をのばして神像に浄水をふりかける。丸々とした長い腕、くぼんだ肱、肉のもりあがった肩、甘いくだもののようにふくらんだ乳房、水々しい股や脛、きゅっと括れた豊な臀……その色と、光沢と、あらゆる曲線と、それは日々生気と芳醇を野の日光と草木の薫から吸いとって蒸すような匂いを放つ一匹の香麞のように見える。
 燈明が消えかかったので娘はかたよせた着物をとってぐるぐると身につけはじめた。韻律正しい詩がこわれて平坦な散文になった。彼は非常な努力をもってそこをはなれた。
 彼女が扉をあけて出た時に聖者は足音をさせて森の奥から現れた。そうして気むずかしい、一種いやな顔をして彼女をねめつけて草庵へ入った。
 四日めの午後からクサカの町に大騒ぎがはじまった。それはマームードの軍が帰途再びここに宿営することになって、その先頭の部隊が丁度到着したのである。此度彼の馬蹄が印度の地を踏んでから、向かうところ敵はみな風を望んで降った。インダス、ジェーラム、チェナブ、ラヴィ、サトレッジの諸河は難なく越えられた。彼は鬱茂たるジャングルをとおして「櫛が髪を梳くように」進んだ。十二月初め彼はジャムナ河に達してマットウラを陥れ、さらに東して同月末カナウジに達した。七つの塞をもって固められたガンガ河上の大都市は一日にして攻略された。今や彼は山のごとき戦利品を携えて故国へ凱旋するのである。クサカの住民は唯もう戦々競々としていた。しかし回教徒は案外おとなしくして格別乱暴なくわだてもしなかった。それはもはやこの町には破壊すべきひとつの殿堂も、掠奪すべき一個の財宝もないことを知っていたからである。
 戦争と長途の行軍に汚れた軍隊が続々と入り込んだ。負傷者も多くあった。そして皆疲れやつれていた。しかも彼らは皆幸福で元気であった。彼らは遠征の非常な成功に満足し、故郷の近くなったことを喜んだ。サルタン・マームードは虎のごとくに驕っていた。また戦利品を満載した駱駝と驚くべき多数の捕虜がひっきりなしにはいってきた。彼らは疲労と絶望で魂のぬけたような様子をしていた。この時波斯ペルシャの奴隷市場は彼らのため供給過多に陥って、一人の奴隷が二シリングで売買されたという。
 娘の心は落ちつきを失った。彼女は「あの人」が町のどこかに来ているような気がしてならない。もしかまだ来ていないとしてもきっとくるに相違ない。そう思えば矢も楯もたまらなく恋しくなる。そうしていつかうっとりと二人があうところを想像している。
「でももしかして運悪くあの人が!」
 彼女ははっとして空想からさめるともうそれが事実であるかのようにたまらなくなってしまう。と、そのそばからまたなにものかが造作なくそれをうち消してくれる。「あの人」がてつででも出来ていたかのように。
 とはいえ彼女は邪教徒に見つかるのをひどく恐れた。彼らは彼女を無事にすててはおかないであろう。彼女はもう自分の身体をほかの者には指もささせたくないと思う。
「私の身体はあの人にささげてある。勿体なくてどうされよう」
 そんな気持であった。
 五日めの夜、礼拝をすまして帰ろうとした時に聖者はいつになく彼女を草庵のうちへ呼び入れた。
「今日はそちに尋ねることがある。そちは彼奴が二十五六ぢゃというたな」
「はい」
「眉の濃い、眼の大きな奴ぢゃというたな」
「はい」
「そのほかなんぞ見覚えがあるか」
「背のすらりと高い、品のいい、強そうな……」
 彼女は男の立派な風采について語るのが嬉しかった。
「左手の小指に怪我をして、そうしてやっぱし怪我のためかすこしびっこをひくようにしていました」
 聖者は唇を噛んでなにかのかんがえに囚われていた、彼女は彼が今更どうしてそんなことをきくのかしらと思った。
「それともひょっとして」
 彼女は疑ぐり深く聖者の顔を見た。彼はふと気がついた。そしてへどもどして
「うむ、そ奴ではない。邪教徒めらは折ふしここへもくる。そ奴とはちごうていた。そ奴でも懺悔さえすればわしは赦してやる」
 そんなとりとめのないことをいった。彼女は不安と期待に心を乱しながら家へ帰った。
 あとに聖者はひとり瞋恚しんいほむらをもやしながら今日の出来事を考えた。二人の邪教徒の隊長が従者を連れて多分狩猟のために森へはいってきた。そのうちひとりがたまたまそこに行をしている彼を見つけて偶像教徒に対する回教徒的嫌悪からその顔にぱっと唾を吐きかけた。――打殺されなかったのが仕合せだったろう――彼はかっとして見上げたがどうすることも出来なかった。相手は見かえりもせずそのまま事もなげに語りあってゆく。彼は無念骨髄に徹していつまでもいつまでもその後姿を見送っていた。それは二十五六の、眉の濃い、眼の大きい、頗る風采の好い男だった。そして腰に黄金づくりの蛮刀を帯びていた。彼は もしや と思った。しかし唯それだけではあまり根拠が薄弱であった。それにもかかわらず彼はどうぞしてその男が娘を穢した奴であってくれればよいと思った。それは実に思うもたまらないことであった。そしてそれだけ一層そうしたかった。彼は娘のいう男をいくら憎んでも憎み足りないものにしたかった。そしてのろいにのろってやりたかった。
 しばらくして彼は森の奥で彼らの一人がその友を呼ぶらしい声をかすかにきいた。そしてぎくりとして耳をそばだてた。
 娘の帰ったあとで聖者は思った。
「彼奴だ」
たしかに小指がなかった。そうしてびっこをひいていた」
 それは娘がああまで慕うのも尤もだと思うほど立派な男だった。彼は娘が男について語った時のうっとりした様子を思い出した。彼は彼女のまえにいかに邪教徒を罵るとしてもその男を醜い奴ということはどうしても出来なかった。そうしてその点が何よりも先ず娘の心を虜にしたのだと思うとなおさらたまらなくなった。彼は彼女の口からきいたその時の有様、己をちりあくたとも思わぬ今日の不敵の振舞ふるまいを思って全身の血を湧かした。彼は五体をふるわせて歯がみをした。彼は婆羅門の忿怒ふんぬと苦行僧の嫉妬に燃えた。
 第六日。夜はふけた。ジェラルはひどく酔った戦友と一緒に天幕の外へ出た。そこで互いに上機嫌で別れをつげたのち彼は従者に命じて客人を見送らせた。彼は戦友の高調子な話し声のきこえなくなるまでそこに立っていた。綺麗に晴れた夜であった。茫漠とした平野に大きな深い空が紺黒におおいかかって、地平線に近く片輪になった月が赤くどんよりと沈みかかっている。彼はひとつ欠伸をして天幕へはいった。彼は戦友と重に昨日の狩猟やカナウジの攻略について語りながら徴発した甘蔗酒を汲みかわした。で、よろめくほどではないがだいぶ酔っていた。彼は年はまだ若かったが身分の高い勇敢な騎士であった。そうして今度の遠征にも度々抜群なはたらきをして敵味方に驍勇ぎょうゆうを示したし、獲物も運びきれぬほどあった。赫々かっかくたる功名と戦果は彼の心を此上このうえなく幸福にした。
 彼はふとこのまえここに宿営した時に慰んだ娘のことを思い出した。
「可愛い奴だった。つかまえられて螇蚸ばったみたいに跳ねおった。だが己はあとで可哀想になった。そうして帰してやる時ちょっと名残惜しいような気がしたのはへんだった。とにかく可愛い、いい奴だった。自惚うぬぼれかもしれぬが奴己に惚れたような様子もみえた」
 なんだかもう一度あってみたいような気もした。
「ひょっとしてまたここらあたりへくればいいが。しかし明日は多分出発せねばなるまい。後続の部隊も大概ついたようだから」
 それから彼は退屈な行軍について考えた。そうして最後に狂喜と歓呼をもって迎える故国の人々を。死のように静かな天幕のなかで彼は卓子に頬杖をついてぼんやりとそんなことを思っていた。その時彼はなにか人のけはいがしたような気がしたので顔をあげてとざした入口のほうを見た。
「あれが帰ってきたのかな、すこし早すぎるが」
 見ると天幕が内へふくらんでいる。
「酔っぱらってるんだろう。それにしてもうんともすっともいわないのはおかしい」
 そこで、ひとつおどかしてやれ と思って
「誰だ」
と怒鳴ってみた。黙っている。いよいよぐんぐん押して入ろうとする。押し倒してしまいそうないきおいだ。
「誰だ」
 彼は立ちあがって入口のほうへ歩み寄った。そうしてとざしの紐をほどいて顔を出すや否や
「あっ」
といってとびのいた。と、解き放たれた入口からぬうっと変なものがはいってきた。それはたしかに人間の形はしているが素裸で、全身紫色にうだ腫れて、むっとするいやな臭いがする。そしてつぶった目から汁が流れだしている。腐れかかった屍骸なら戦場で見飽きてるがこれは生きて歩いている。
「なんだ貴様は。化物か。死神か」
 相手は黙りこくって盲滅法に、しかもまともに彼のほうへ、ぎくしゃくぎくしゃくと関節病者みたいな足どりで寄ってくる。手には研ぎすました小刀を握って居る。ジェラルは覚えず身をひいた。
「何者だ。なんとかいえ」
 相手はかなつんぼですこしも感じない。ジェラルは広くもない天幕のなかを卓子をまわって二回までも後じさりした。相手は正確に彼の足跡を踏んでひた寄りに寄ってくる。彼は未だかつて知らなかった感情――恐怖――に襲われた。彼はこのえたいのしれぬ敵に対してどうしてよいかわからなかった。そのとき偶然手が刀欛とうはにさわったので彼は殆ど無意識に蠻刀をひき抜いた。が、狼狽して相手を梨割りにはせずに、脹らんだ腹をめがけて力一杯に突いた。さいわいぶつりと突きとおった。熟れた瓜みたいに柔かった。相手はどさりと倒れると思いのほかすこし刀に支えられると見えたばかりで、前とおなじ歩調で、しかも盤石のような力でそのまま真直に歩いてくる。そのために刀がつかもとまでとおって背中へ突きぬけた。そしてジェラルが刀をぬこうぬこうとあせっているうちに相手は突然痙攣的に右手をあげて小刀をぐさと彼の胸に突きさした。ジェラルはどうと倒れた。そのうえへ折重って化物の屍骸が。
 第七日。娘は二重の意味で今日が待ちどおしかった。それは満願の日であるゆえに、また何故かは知らずいやでならない日参の終る日であるゆえに。で、いつになくいそいそとして出かけた。彼女を迎え入れた聖者はいつものとおり燈明をともしたがそのままおもむろに話しかけた。
「これ女、邪教徒らはまだ町に居るか」
「はい」
「皆居ろうな。少しはたったものもあるか」
「いいえ。でも明日にはたつのではないかと思います。昨夜夜中から大騒ぎをして、そうして今日暮れ方あの大きな榕樹のところに……」涙が彼女をさまたげた。「……集ってなにかお祭りのようなことをしていました。怖いので誰もそばへ行って見たものはありませんが、きっと出発の支度が出来たのであっちの神様を祭っているのだろうと皆がいっていました」
 聖者は大きくうなずいてじっとなにか考えている。彼女は「あの人」がかならずその中にいて、そうして明日はほかのものと一緒に行ってしまうような気がして胸一杯になった。
「畜生めらが。早う行ってしまえ」
ややあって聖者はぼけたようにいった。
「今夜はいよいよそちの身も淨まるぞ」
「………………」
湿婆シヴァのお告げがあった……」
「ありがとうございます」
 彼女は合掌してわずかに身をこごめた。
「これで満願ぢゃ。気をたしかにもてよ」
「はい」
湿婆シヴァのおつげぢゃ。その腹の子をおろせという」
「ひえっ」
 彼女はまっ蒼になってわなわなとふるえた。そしてわっと泣きふした。
「どうぞそれだけは、おねがいでございます。聖者様、お慈悲でございます。そればっかりは御免くださいませ」
「たわけめが。そちは子がかわええのぢゃな。これ、よう考えてみいよ。それは邪教徒の胤ぢゃぞ。そちは起水のついた畜生が腹のなかへしこんでいった血の塊がいとしいか。そちは腹から穢れて居るのぢゃ。畜生の血臭くなって居るのぢゃ。その子は口が耳まで裂けていようぞ。尻尾が生えていようぞ。おろしてしまえ。いやといえば必定地獄ぢゃぞよ」
「それはご無体でございます。この子は私の子でございます。誰の子でもありませぬ。この子はどうでもはなされませぬ」
「さてさて情のこわい女め。そちは地獄が恐しゅうはないか」
「私は地獄へ堕ちてもいといませぬ。それだけはおゆるしなされてくださいませ」
「ゆるせというてそれがわしにできることか。おつげぢゃぞ。さあどうぢゃ。おびえることはない。わしが按排あんばいようしてやる」
「いえいえとんでもない。私は神様におねがいいたします」
「神の仰せはわしがとりつぐのぢゃ。わしのいうことは即ち湿婆シヴァの神意ぢゃ。どれ」
「いえいえどうあってもなりませぬ」
「まだいうか。こうれ」
聖者は右手をのばしてきりっと彼女の頬を抓った。
「あ、かにして、かにして……」
「うむ、いうことをきくか。さあ」
「あれえ」
 聖者がいざり寄って着物の端に手をかけるのを振りほどいて逃げようとした。彼はすばやくたちあがって後ろから抱き竦めた。そして恐ろしい顔になった。
「男の命にかかわるぞ」
 彼女ははっとした。そして抱かれたままよろよろとして横に倒れた。
「きかずば男をのろい殺せとの御告ぢゃ、何十何百由旬はなれていようとも彼奴の五体は蛞蝓なめくじのように溶けてしまうのぢゃ。それはそれはむごたらしい苦しみをするぞよ。の、これ、男のためぢゃ、おろして了え」
 彼女はもうどうする力もなかった。ただ正体もなく泣き崩れていた。聖者は委細かまわず着物をぬがせはじめた。彼女の身体は纏った布片の解かれるに従ってあるひろがりづつがわりわりと露れてゆく。聖者はかっと上気して 変な顔になった。とうとう腹部が裸になった。彼の手がそこに触れた時彼女 は反射的に跳ね起きそうにした。
しずかにしろ」
かた手で頸をおさえつけた。ひどい力だった。そしてかた手でそろそろと揉みはじめた。彼は五体をふるわせてひどく喘いだ。彼女は無我夢中のあいだにもその熱い臭い息の吹きかかるのを感じた。聖者は生涯にはじめてさわった女の肌の滑かさと腹の柔みを覚えた。彼は人間というよりはむしろ化物のような様子をしてだんだん強く揉みしめてゆく。そしてそのうちに生きて隠れているものを長い爪で突き刺してやりたいと思う。彼女は悶え苦しんで脂汗をたらたらと流した。聖者は眼をすえてその蛇のように捩じれる肉団を見つめた。彼女は終に気絶した。
「おお、気をうしなったか」
 聖者は悪夢から醒めた様に我に返ってほっと息をついた。彼が毎夜ひそかに貪り見た女の肉体は今その上半を露出して膝の前によこたわっている。彼は猿みたいな顔になってわくわくしながら其一個処から他の個処へと目をうつした。
「おお、このちち」
 その絹のような肉の袋はほとばしり出ようとする生気ではちきれそうに張っている。彼はそのひとつをふっくらと掴んでみた。それは大きな手にあまってぶくぶくとはみだそうとする。いかにも女らしい肉と脂の感じである。彼はまたよく肥えた上膊じょうはくを握ってみた。胸より腹へ、肩より背中へと撫でまわした。肉体の凸凹が手のひらの感覚をとおして一種微妙な強烈なまざまざしさをもって伝えられる。彼は頬ずりした。その唇に口をつけた。全身の血がどす黒く情欲に煮えた。彼は娘の覚醒するのをおそれてそうっと着物をほぐしはじめた。上体とよく釣合った下半身が露れた。それをまた先のとおり精査した。彼は女の匂を嗅いだ。髑髏の瓔珞ようらくをはずしてかたえにおいた。そして眼を血走らせて女の身体に獅噛しがみついた。
 その前夜回教徒はジェラルが奇怪なものと刺しちがえて死んでいるのを見 出して非常なさわぎをした。彼らはそれを敵意をもったクサカの住民の悪病にかかったものだときめた。夕刻彼らはわずかの形見だけをのこして、身分と勲功の高いジェラルの遺骸をかつて彼が天幕を張ったことのある榕樹の蔭に埋め、 そのうえに出来るだけ大きな石を置いた。彼らはこの誰にも敬愛された美しい若い騎士の思いもかけぬ無惨な死を悲しんだ。夜に入ってマームードのいかりと人間の野性がクサカの町にむかって爆発した。回教徒は全市に放火して灰燼かいじんに帰せしめ、逃げまどう住民を手あたり次第に殺戮した。暗い大きな平野のなかにクサカの町の滅亡する火焔と赤黒い煙とがもの凄く舞いあがった。 それはちょうど彼女が草庵の中で気をうしなっていた時であった。
 聖者は手さぐりに燈明へ油をさして火をともした。娘はまだ喪神してい る。ただ前とは姿勢がちがっていた。彼ははじめて女の味を知った。彼は今 弄んだばかりの女のだらしなくよこたわった身体を意地汚くしげしげと眺めてその味を反芻した。そうして今までとは際だってちがった一種別の愛着、性欲的感覚にもとづくところの根深い愛着を覚えた。彼は嬉しかった。たまらなかった。で、蜘蛛猿みたいに黒長い腕を頭のうえへあげて女のまわりをふらふらと踊りまわった。
「わしはもうなにもいらぬ。わしはもう苦行なぞはすまい。なにもかも幻想ぢゃった。これほどの楽しみとは知らなんだ。罰もあたれ。地獄へも堕ちよ。わしはもうこの娘をはなすことはできぬ」
「それにしてもわしは年よっている。そうして醜い。これからさきこの娘はわしと楽しんでくれるぢゃろうか。いやいや、とてもかなわぬことぢゃ。ああ、わしはあの男のように若う美しゅうなりたい。そうしたなら娘も喜んで身をまかせてくれるぢゃろうに」
 彼は醜悪ではあるが悲痛な様子をした。
「そういうめにあってみたい。一日でもええ。ただの一遍でもええ。おお、なんたらうまそうな身体ぢゃあろ」
 そこで身をかがめていいきかせるようにいった。
「これ娘、わしはどうでもそなたをはなしはせぬぞよ」
「わしは此娘をひとにとられぬ様にせにゃならぬ。若い男はいくらも居る。ああ」
 彼は悶えた。泣きだしそうな顔をした。そうして久しいこと思案していたが終になにか思い浮んだらしくひとりうなずいた。
「そうぢゃ。わしはこれの姿をかえてしまおう。ふびんぢゃがしかたがない。わしらは畜生になって添いとげるまでぢゃ。よもやまことの畜生に見かえられもすまい。若い男も寄りつかぬぢゃあろ」
 彼はそっと娘を抱き起して藁床のうえにうつ伏せにねかした。そして上からしっかりとかじりついて猫のつがうような恰好をした。それから娘の頸窩けいかの毛をぐわっとくわえながら怪しい呪文を唱えはじめた。と、尖った耳の生えた大きな影法師がぼんやりと映った。そしてすうっと消えた。それと同時に彼の五体が気味悪く痙攣しだした。
 彼女は息を吹き返した。そして身体じゅうの筋をひき毟られるような苦痛を感じた。彼女は起きあがろうとしたがなにか重たいものがのしかかっていて身動きもできない。そして髪の毛を血の出るほどひっぱって泣くような吠えるようなことをいっている。「あ、坊さまだ」そう思うと空恐ろしくなって死物狂にふりほどこうと身をもがくけれど、手足が蛭のようにへたばりついていっかな離れない。二つの肉団が見苦しく絡みあってのたうちまわった。眼の前に光ったものがとびちがった。あたりの物が水車みたいに回った。そんなにして小半時も転げまわってるうちにようやく痙攣も苦痛もおさまって手足がぐたりと離れた。
 彼女は跳ね起きた。そしてなんだかすっかりこぐらがかえったような気持のする自分の身体を見まわした。それは狐色の犬の姿であった。そうしてそばに長い舌を吐いてはあはあと喘いでいる同じ毛の大きな僧犬を見た。
彼女は声をあげて泣いた。それは犬の悲鳴であった。その時彼女は急に腹のなかをひきしめられるような気がして藁床のうえにつっぷした。その拍子に胎児を産み堕した。それはまだ形の出来あがらない人間の子であった。彼女はその血臭いきたならしい肉塊に対して真底愛着を感じた。そうして自分の尻のほうにくびをのばしてべろべろとなめた。これまでその存在をただ胎壁の感覚に於てのみ認めながらもあれほど大切にのぞみをかけていた子どもをこんなにして闇から闇へやってしまうのがたまらなかった。それが恋人との唯一の 鎖、唯一の形見だというような理由からばかりでなく、訳もたわいもないただもう本能的にいとしくていとしくてとてもそのままはなしてやる気にはなれなかった。まったくそれは「業」とでもいうべき恐しい奇怪な力だった。彼女はまた僧犬が怖かった。


「あの人はこれが邪教徒の子だというのであんなに憎んでいる。あんなに忌々しそうにめつけている。出来た子になんの罪咎もないものを。あの人はほんとにこの子をどうするかしれやしない」
 そう思って非常な不安を感じた。と同時にまたそれを未来永劫自分のものにしていたいという気がむらむらと湧いてきた。そして彼女は胎児をばくり、、、と口にくわえた。で、舌を手伝わせながら首をひとつ大きくふって奥歯のほうへくわえこんだ。そして二つ三つぎゅっと噛んでその汁けをあじわったのちごくりと呑み込んでしまった。ほっと安心して落ちつくことができた。これらのことはいささかの躊躇も狼狽もなくごく自然に、平気に、上手に、ちょうど生れつきの犬であったかのように為された。彼女は張りつめた気がゆるむとともに堪えがたい疲労を覚えてそのまま深い眠りに落ちた。
 目をさました時には夜があけかかってうす明りがさしていた。彼女はかたわらに、揃えてのばした前足のうえに顎をのせてのたっとねている僧犬を見た。彼は犬の姿になってもそこにまざまざとあのいやらしい苦行僧を思い出させるところのものがあった。そのがっしりした骨組、瘡蓋かさぶただらけの皮膚、額の割れた相の悪い顔、睫毛のない爛れ目、そして相変わらずの臭い息が嗅覚の鋭敏になった彼女をむかつかせる。彼女はまた自分の身体を見まわした。それは若く、美しく、脂づいてはいるけれどもまごうかたない犬であった。
 「ああ、私は犬になってしまった。この人も犬になった。そうしてここにこうして一緒にねている。まあどうしたことだろう」
 彼女は自分が犬になったことよりも聖者が同じ姿になってそばにくっついているのが一層なさけなかった。彼女は自分と彼とのあいだに畜生道のえにし、、、が結ばれているのを見た。それでなんともいいようのないやるせない浅ましい気がして思わずわっと泣いた。涙のない犬の悲鳴を。僧犬はぱちっと目をあいた。彼はそろそろと身を起した。そうして背中をそらせ、尻をもちあげてのびをした。その次には先と反対に前へのり出すようにして後足を一本づつぐうっとのばした。それからぶるぶるっと二三遍身ぶるいをしてしゅんと鼻をふいた。そこには彼女を切っても切れぬ自分のものとしたうえの安心と落ちつきがあった。彼は彼女の身体をあちこちと軽く嗅ぎまわしたのちいった。
「目がさめたかな。わしもようねた」
 奇妙なことにそれは犬の言葉ではなかった。また人間の言葉でも。いわば人間の言葉を犬の舌で発音した獣人の言葉であった。その人畜いづれにも通じない言葉がすらすらと彼女にわかった。彼らはまさしく獣人だったのである。僧犬のこの短い言葉の調子には自分が彼女の所有者であるという意識と、所有した女に対するうちとけた馴れ馴れしさがあらわれていた。彼女は 虫唾か発しるほどいやだつた。
「そなたはひもじうはないか。あれを食べたらどうじゃな」
 そういって供養の食物のほうへ目まぜをした。彼女は胎児を食ったし、それに今はそれどころではなかったので ほしくない といった。
「それではわしが食べよう」
 僧犬は木皿へ鼻をつっ込んでべちゃべちゃとたべはじめた。そうして見る見るきれいにさらえて皿をあちこちに転がしながらべろべろとなめまわした。 彼女は知らぬまに理不尽に与えられたこの境涯と伴侶とをどうしてもすなおにうけ入れることができなかった。それでまた烈しく泣き叫んだ。
「何事も湿婆シヴァの思召しぢゃ。わしらはありがたくいただくまでぢゃ」
 いいながら僧犬は口のまわりを手ぎわよく舌で掃除した。それからどさりと尻もちをついて、後ろへ捩じむいてがちがちと歯を噛み合せながら尻尾のつけ根にこびりついた瘡蓋かさぶたを掻きはじめた。彼にはさしあたり強いて彼女を説得しようとするほどの熱心もなかった。
「どうでももう己のものだ。いつでも自由になる」
 そうした下劣な無関心があつた。
「わしらは人間ではつれ添うことができなんだ。それでこのようにしてくだされたのぢゃ。もう婆羅門も吠奢べいしゃもない。わしらは湿婆シヴァにめあわされた立派な夫婦ぢゃ」
 犬になると同時に彼が婆羅門であり聖者であることに対する彼女の崇敬は彼の「強さ」に対する動物的な「恐れ」とところをかえた。唯彼の知恵に対する 盲目的、習慣的な信頼のみはもとのままに残っていた。それで彼の言うことをそのまま信じたところで、彼女には余儀ない運命に対するすてばちなあきらめのほかなにもなかった。そうしてあきらめようとすればするほど生憎に彼が厭わしかった。
 外には鳥の声がきこえた。
「わしはちょっとそこまで行ってくる。そなたは身体が大事ぢゃ。ま少しそうしとるがええ」
 実際彼女は大儀で起きあがる気にもなれなかった。僧犬は鼻の先で草庵の藁を押し分けて出ていった。彼女はひとりになってしみじみとあたりを見まわした。自分が畜生になったばかりでほかのものは冷酷にもとのままである。湿婆シヴァの像も、水甕みずかめも、みな。ただ脱がされた彼女の着物と、不用になった髑髏の瓔珞ようらくとがちらばっていた。彼女はせめて僧犬がそばにいないことが嬉しかった。そうして底しれぬ悲嘆のうちに綺麗にしんしんと恋の湧き起るのを覚えた。
「あの人は今日たってゆくのじゃないかしら。私はどうしてもあの人がいるような気がする。きっと虫が知らせるんだろう。ああ逢いたい。ひと目なりと見たい。それにしてもこの姿で!」
 彼女は恋人に抱かれたかった。そうしてこれまではまためぐりあいさえすればいつでも抱愛されるものと思っていた。とはいえそののぞみは汚く無惨に塗り消されてしまった。二人のあいだは婆羅門と旃陀羅せんだらよりも遠かった。彼女はもはや穢わしがられる資格さえなかった。旃陀羅せんだらの女は万に一つは婆羅門の恋人とならぬとは限らない。すくなくともその肉体は抱愛をうけるに足る形態上の条件をそなえている。今や彼女にはそれさえもなかった。二人はもはや人、畜、境を異にしてしまったのである。畜生道の、混濁した暗黒ななげきが 彼女をいとわした。その時がさがさ音がして大きな僧犬の頭がぬっと現れた。そして肩から尻へとすっぽりとぬけてはいってきた。彼は口のなかに含んできたものを彼女の前に吐き出した。それはひどく青臭い二つの丸いものだった。
「身体の薬ぢゃに食べなさい」
 彼女は嗅いだばかりでむかむかする変な物を眺めて躊躇していた。
「魚の肝ぢゃ。辛棒して食べなさい。早うせい、、をつけにゃいかぬ」
 ついぞ見たことのない肝だった。彼女は
「早く丈夫になりたい」
「なにはともあれ丈夫にならなければ」
という気はあった。で、いやいやながら一つを口に入れた。それはぬらめいて渋みのある、こりこりしゃきしゃきした物だった。彼女はあらまし噛み砕いて苦労して呑みこんだ。むっとする噯気おくびが出た。残りの一つはどうしてもたべる気にならなかった。
「では養生にわしがま一つ食べよう」
 僧犬はぺろりとなめ込んだ。そうしてそのわる臭い口で彼女の口をねぶった。彼は出来るだけよそよそしくしてる彼女に寄りそって腰をおろして、 顔の向き合うように身体をまげて腹這いながらにたにたとしていった。
「今のは人間の睾丸ぢゃよ。えろう根の薬になるのぢゃとい」
 彼女は吐きもどしたいような気がした。僧犬は平気で話しつづけた。
「わしはクサカの町へ行ってみた。邪教徒の奴めらひどいことをしおった。クサカの者はみな殺しにされて町はきれいに焼かれてしもうた」
 彼女はぎょっとして僧犬を見た。住みなれた町の滅びたことについてもたとしえない寂しさをおぼえたし、日頃自分を虐使した主人たちに対しても、そうした場合人が人に対してもつほどの気持きもちはもつことができた。それに反して僧犬は彼女よりは一層完全に犬になっていた。彼はもしもとの彼であったならばいかにのろいかつ怒るであろうかと思われるこの出来事について全くよそ事のように冷淡であった。それはただ「食物」についてのみ彼にかかわりのあることであった。
「わしらもここにいては食う物に困ってしまう。もっとも二日や三日は屍骸を食ってもすまさりょうが」
 彼はその屍骸から睪丸をくいちぎってきたのであった。
「わしらはどこぞほかの町へ行かにゃならぬ。そなたに早う丈夫がつけばええが。あれでじつきに肥立つぢゃろうとは思うが。それにあれはえらい根の薬ぢゃ。そなたは程のうもとの身体になるぢゃあろ。犬の寿命は短いものぢゃ。そのうえわしは年よっとるで、わしらは根を強うしてせいぜい楽しまにゃならぬ」
 あの不自然な出産のあとであるにかかわらず彼女の健康は奇蹟的にすみやかに恢復した。それは所謂いわゆる根の薬のせいもあったであろうが、一つには彼女が人間ではなくて犬であったからでもあった。翌日の午後彼女は空腹に堪えかねて産後の疲れをおして僧犬と一緒にクサカの焼け跡へ餌を漁りに出かけた。彼女は通いなれた道をはじめて四つの足で歩いた。そして太い尻尾をきゅっと巻きあげてゆく僧犬のあとからだらりと尾を垂れてしおしおとついていった。森を出て彼女は町のほうを眺めた。町はあとかたもなくなって此処彼処に余煙があがっている。そうしてはるかに物の焼けた臭い、特に死体の焼けた一種こうばしい臭いが漂っている。終に焼け跡へきた。ぷすぷす燻る灰燼のなかにまっ黒になった死体がちらばって、それを野犬の群が争って食っている。それらのものは彼ら、殊に僧犬の大きいのに驚いて――彼らは犬にしては最も大きな犬であった――遠くから煩く吠えたてた。それらは彼女たちを自分らと同じ歯や爪をもったお仲間うちとして、人間や他の動物に対するのとは別の、もっと近接した関係、もっと切実な意味に於ての恐怖や敵意を示した。彼女は情ないおもいをした。僧犬はそんなことには一切無頓着にみえた。彼には何物もうち消すことのできぬ、何物をも忘れさせる大きなよろこび――彼女をわがものにしたという――があった。それはそうと現実にひしひしと迫ってくる飢餓は否応なしに彼女を駆ってその不愉快な場所をあちこちと嗅ぎまわらせた。彼女は少しづつの食物を見つけて辛うじて腹をみたすことができた。そこで腰をおろして休みながら後足で耳のうしろを掻きはじめた。僧犬はいう。
「このとおりでとてもわしらはこれから始終ここで餌をあさるという訳にはゆかぬ。どこぞほかへ宿がえをせねば。それでわしのかんがえではチャクチャの町がよかろうかと思う。ええかげんな町ぢゃし、それにここからはまずいちばん近いで」
 彼が同意を求めるように彼女を見たので どこでもかまわない と気のない返事をした。
「あそこに見える森をまわって、それからひとつ丘を越えて、三拘盧舍くろーしゃたらずもあるぢゃろか。そなたにはまんだちと難儀ぢゃろうな」
 彼女は 今のぶんならどうぞこうぞ歩けそうだからこれからすぐ行こうといった。帰るにしてもどうせ歩くのだし、それにあの草庵がいやでならない。で、とにかく行くことにした。
 彼女は焼野が原となったもとの住みかを名残惜しく眺めやった。それからとぼとぼと歩きだした。いよいよ焼け跡を出ようとする時にそこに運よく逃げのびて邪教徒の毒手を免れたわずかの人たちが集まっていた。彼らは邪教徒の去ったのをみて三々五々に戻ってきた。そうして目前に慘澹さんたんたる光景を見ながら性懲りもなくまたこの見込まれたような処に彼らの住居をさだめようとしているのである。彼女は彼らのそばを通ろうとして抑えがたいものいいたさの衝動を感じた。彼女は自分ひとりの胸に畳んでおくにはあまりに多くのおもいをもっていた。で、僧犬があわててとめようとしたかいもなく彼女は我を忘れてあられもない獣人の言葉をもって彼らに話しかけた。彼らは肝をつぶして彼女をみた。気味のわるい謔語みたいなことをいう狐色の牝犬を。そうしてかような際ではあり、彼らはてっきり彼女に魔が憑いたのだと考えて、彼女を打ち殺そうとてんでに石ころや棒きれをもって追っかけてきた。彼女は僧犬と一緒に命からがら逃げだした。彼女は自分の境涯のなんであるかをしみじみと知った。
 彼らは市外の森についてまわってから一つの川の渡渉場としょうば――それは聖者が浴をとり、彼女が水を汲みなれたその同じながれの下流にあたっている――をわたり、一つの丘を越え、幾つにも枝わかれした路をとおって、日の暮れる頃ようやくチャクチャの町へついた。そこで彼らはやはり邪教徒に破壊された天祠の廃墟を見つけてそこに住むことにした。崩れ落ちた瓦石の蔭にちょうど雨露を凌ぐに恰好な空洞が出来て、まだほかの獣のにおいもしなかったし、それに一方口で安全であった。彼らはそこに疲れた四肢をやすめた。
 ほかの犬に対する懸念から彼らは毎日つれだって食をあさりに出かけた。彼女は人懐しかさに堪えずしばしば立ちどまってはじっと人の顔を見つめ、またその話に耳を傾けた。
「ああものがいいたい。もとの姿になりたい」
 そればかりがおもいであった。人々のなかには時には食物を投げ与え、また稀には愛撫してくれるものさえあった。そんな時に彼女はいかに嬉しげに耳を垂れ、尾を振り、身をすりつけてその感謝と思慕の情を示そうとしたか。ただ彼女はあの苦い経験に懲りてどこまでも本物の犬でいることを忘れなかった。僧犬はそのように彼女が人間に狎れ親しむことの危険を懇々と説ききかせた。それは至極もっともなことであったが、彼がそうする真の動機は実は別にあった。彼には人間に対する彼女のそうした態度は己に対する冷淡、嫌忌の反映であるように思われて、よしそれが性的なものでないまでも彼に邪な嫉妬を起こさせたのである。
 くよくよとみじめな犬の日を送るうちに彼女にとってつらいことがはじまった。それは当然早晚起るべきことで、しかも彼女が故らにそれを忘れ、若くは忘れたことにしていたところのものであつた。僧犬は彼女に交尾を迫りだした。最初のうちは産後まだ身体が本復しないという口実のもとにどうや一日のがれをしていたが、それはいつまでもはとおらなかった。僧犬は彼女の尻を嗅いでいった。
「そなたは嘘をいうている。そなたの身体はもうはい本復している。わしにはちゃんとわかっとるのぢゃ」
 彼は異性を嗜む者の忍耐と、根気と、熱心をもって諄々と彼女を説きはじめた。
「訳のわからぬことをいうものではない。二人は湿婆シヴァにめあわされた夫婦ぢゃ。わしの永年の信心と苦行が思召しにかのうたがゆえにそれそのかわええそなたをわしにくだされたのぢゃ」
 ここまでいって彼は苦しげな様子をした。彼は自分のいうことが赤嘘であることについてはさしてなにも感じなかったが、己が彼女に授けられたものだといおうとしてどうしても巧い理由が見つからなかったのだ。
「そなたはわしに授けられた。すなわちわしがそなたに授けられたのぢゃ。よくよく深い宿縁ぢゃ。二人は切っても切れぬなかぢゃ。う、湿婆シヴァがそうおきめなされたのぢゃ。う、湿婆シヴァの思召しはありがとういただかにゃならぬ。夫婦の交りをするのはとりもなおさずあなたへのおつとめぢゃ。道ぢゃ。また楽し みの随一ぢゃ。そなたにはむつかしいかしらぬが、そなたは平生リンガを拝んだぢゃろう。あれは湿婆シヴァの陽根ぢゃ。それからリンガの立っている円い台はあれはヨーニというておつれあいのパールヴァチー女神の陰門ぢゃ。めおとの神の陰陽交合の形ぢゃ。それ、の、この世のものは皆陰陽和合する。せにゃならぬ。わしらは神々のおたのしみにあやかりたいとおねがいするのぢゃ。神々になぞらえて睦じう交合するのぢゃ。の、よう考えてみいよ。それに湿婆シヴァが二人をこういう姿にしてくだされたには深い仔細のあることぢゃ。それは わしらが人間でいてはつれそうことができぬでというばっかではない。それはの、畜生の欲というものは人間よりはなんぼうきついかしれぬ。それだけ楽しみも深いのぢゃ。けれどが畜生にはそれぞれ起水の時がある。ところがわしらはもとが人間ぢゃによつて季節というものがない。それぢゃでわしらは、きつい畜生の欲でいつでも楽しむことができる。かたじけないおはからいぢゃ。わかったかの。う、ようわかったかの。さあ、わかったら子供げたことをいわずと、さあ」
 彼女は彼の言葉を無条件にうけいれた。とはいえなんたる因果かいかにしても彼のように喜び勇んで神意にしたがうことができなかった。彼女は一旦あの人にささげたと思いこんだ身体を余人よじんにまかすに忍びなかった。恋人の血で浄められた大事の胎を厭わしい人の血で穢すに堪えなかつた。
「ええ子ぢゃ。の、おとなしゅうせるぢゃよ」
 僧犬は機嫌をとりとりそばへよって腹這っている彼女の下腹のへんを鼻でぐいぐい押して立たせようとする。それはちょうど人間が腋の下をくすぐられるようないらだたしいへんな感じがする。それをじっと辛棒していれば彼はひつこく尻を嗅いでは嗅いでは押す。彼女はたまらなくなっていやいやに身を起した。僧犬は満身獣慾に燃えたって彼女の背中にのしあがった。と同時に彼女は五体がそのまま硬直してしまった。気が遠くなって火みたいな血がかけまわった。恐ろしい、息のつまりそうな、類のない苦痛を覚えた。彼女は逃げ出そうとしたが僧犬は非常な力でしっかりと腰をかかえている。そして彼女がすりぬけようとすれば後足で歩いてどこまでもついてきながら、腹を立てて今にも噛みつきそうにする。彼女は暴力に対する動物的な恐怖に負けてしまった。彼女はきゃんきゃんと、悲鳴をあげた。口から泡をふいた。神意によって結ばれたる夫婦の交りは邪教徒の凌辱よりもはるかに醜悪、残酷、且つ狂暴であった。…………僧犬はやっと背中から降りた。彼女はほっとした。が、その時彼女の尻は汚らしい肉鎖によって無慙に彼の尻と繋がれていた。彼女は自分の腹の中に僧犬の醜い肉の一部のあることを感じた。それは内臓に烙鉄らくてつをあてるように感じられた。彼女は吐きそうな気になった。いわばその胎から嫌悪がしみ出した。彼女は早く離れたいと思って力一杯歩き出した。 僧犬は後退りしてくっついてくる。
「ああ、いやだいやだ。なんという情けないことだろう。こんなにしてるうちに私はきっとこの人のたねを宿してしまうだろう」
 彼女は自分の肉体が僧犬の肉体の接触のために、自分の意志に反して性的な反応をひき起すのがなさけなかった。そうしてそれが「あの人」に対してしんからすまなかつた。
「ゆるしてください。私の身体はこんなだけれど、心は決してそうじゃないんです」
 そんな気持であつた。彼女はそれが「神意」であることを疑わなかったとしても、自分にとってそれを「めぐみ」と考えるにはあまりにつらかった。むしろそれは「罰」であった。
 ようやく身体が自由になった時に彼女はへとへとに疲れて横になった。僧犬はなお身動きもできずに精をたらしながら、地から生えたように立って喘いでいる。
「なんという浅ましいことだろう」
 そう思って彼女は顔をあげた。ながいことかかってやっと僧犬は常の身体になった。彼は自分の局部をなめてからそろそろと寄ってきて入念に彼女の尻をなめた。その表情には情欲をとげたものの満足と、性交の相手に対する特殊の愛情があった。彼は彼女のそばにより添ってじきに眠った。彼女はその気楽な鼻息をきいた。もはやそこには神意も夫婦の道もなにもなかった。
「この人はああしてしまえば気がすむのだ」
と彼女は思った。
 僧犬の獣欲は恋がたきに対する嫉妬によって一層刺激された。一度彼女を抱いてからは自然相手の場合がまざまざと想像された。彼のあらゆる感覚が相手の感覚を妬んだ。
「彼奴はわしより先にこの女をたのしみおった。彼奴の血はこの女の体内をめぐっている」
 そう思うと歯の鳴るほど忌々しい。彼はいやが上に己の血を彼女の体内に注入することによって憎い相手の血を消してしまおうとするような気持で根かぎりつるんだ。そして情欲のとげられた瞬間に於てのみ生理的に嫉妬から解放された。
 傷ましい日が幾日かつづいた。ある夜の明けがた彼女はふと恋人の夢をみた。それは彼女の見なれた印度の町ではなくて異教徒の国である。そこには異教徒の男女が蟻のやうにむらがって凱旋の軍隊を迎えている。彼女はそのなかにまじって自分も異教徒であったかのように平気で「あの人」を待っている。 と、ちょうどそこへ約束したように「あの人」の姿が現れた。よく夢にあるように。彼は一隊の騎兵の先頭にたって立派な栗毛の馬に乗っている。そしてぴかぴかする甲冑をつけてすばらしい長い鎗をもっている。彼女が嬉しまぎれにかけよって鞍にとびつくと彼は別段驚いた様子もなく
「知ってるよ」
というように笑いながら彼女を抱きあげた。馬にのって鎗をもってるくせにどうしてかひょいと造作なくかかえた。そこで一生懸命にからみついて口つけようとすると生憎ずるずるとすべり落ちる。やっとこさと這いあがって口つけようとするとはまたずるずるとおっこちる。じれったいおもいをして幾度も幾度もそんなことをくりかえしてるうちになにかのはずみでふわーっと鞍から転げ落ちたと思ってはっと目がさめた。彼女は今の今とうってかわった自分の周囲を眺めた。そうして啼き叫ぼうとしたが、そばにいる僧犬を見て声をのんだ。気ちがいのような性交に疲れて、横っ倒しに四肢を投げだしていぎたなく眠っている。彼女は夢に見た人が恋しくて矢も楯もたまらなくなった。
「私はガーズニーへゆこう」
 彼女はガーズニーの名をきいていた。そこは異教徒の王様の都だということも。あの道をあの方角へ行くのだということも。もう神意もなにもなかった。ただ恋のみがあった。
「ああ、私は行こう。どうしても行こう。私は命がけで行こう。どうかして途中で死んだってこうしているよりはましだ。私はどうしても行く。どうしたって行く。駱駝の足あとを嗅いで行けば行けないことはない。あんなにたんと駱駝が通ったんだもの。それにあの車の轍や馬の足あとでもわかるだろう。……でも私はこの姿で……」
 彼女は当惑した。
「いえいえどうだってかまわない。ものがいえなくても、私だということがわからなくても、私はそばにいさえすればいい。顔を見るだけでも、声をきくだけでもいい。私は尾を振って、あまえて、あの人の手をなめよう。私はこの姿でせいいっぱいのことをしよう。あの人はきっと私を可愛がってくれるにちがいない。ああ、そうしよう。私はあの人のとこへ行こう」
 クサカまでの道は彼女が人間であってはとてもできないほどかなりはっきりと覚えている。彼女は僧犬を見た。正体もなく寝込んでいる。彼女は息をころしてそっと身を起した。そして忍び足に、僧犬の目ざとい動物の眠りをさますことなしに首尾よく住みかをぬけだした。外はまだ暗かった。彼女は今こそ天恵となった鋭敏な犬の感官を極度に働かせて出来るだけ速くクサカのほうへかけだした。彼女はあせったけれど路のわかれたところへくるとは間違まちがいなく方向をきめるために暫くは躊躇しなければならなかった。彼女は気が気でなかった。僧犬が目をさますまでにせめてあの川を越してしまわねばならぬ。追いつかれぬうちに、早く早く。彼女はひた走りに走った。さいわいに道も間違わず、夜のしらしらとあけるころ川岸へついた。彼女はそこですこし息をつかねばならなかった。そして汀から頭をのばして水をのもうとした。そのとき彼女は後ろのほうにばたばたという足音とはげしい息づかいをきいた。
「もうだめだ」
と彼女は思った。
「くやしい。くやしい。私は逃げそくなってしまった」
 僧犬は半狂乱で駆けつけた。すさましい形相をしている。肉交の相手を失おうとする時の醜悪な憤怒だ。
「ごめんなさい」
彼女は尻尾を後足の間へ巻き込んでちぢこまってしまった。僧犬は猛りたって無性にぱっぱっと砂を蹴上げた。彼はどうして自分の感情をあらわしてよいかわからなかった。勿論この際彼女の立場になって考えるなどは思いもよらない。自分がああまで熱愛して――全然肉的にではあるけれども――一生の幸福をそこにかけている相手が無情にも自分の寝息をうかがって逃亡しようとする。彼はくやしさ、腹立たしさにふるえた。女の肉がくいちぎってやりたかった。けれどもそうすればもうああした楽しみはできなくなる。僧犬のなかの人間がそんなことを考えた。で、そういう場合人間、殊に自分の弱点を知っている人間が賢くも示すことのある寛容と忌耐とをもっていった。
「なぜ逃げたのぢゃ」
彼女は吃り吃り答えた。
「クサカの様子が見たくなって……私はすぐ帰るつもりだったのです」
 嘘なことはわかっていた。が、それを本当にしてつれて帰るよりほかしかたがなかった。
「馬鹿者が。クサカなぞ見てどうする」
 そのまま彼らはチャクチャの住みかへ帰った。
 それからまた僧犬にとっては極楽の、彼女にとっては生きながらの地獄の生活がつづいた。彼女は逃げたいという気は寸時もやまなかったけれど逃げ出せるのぞみはまったくなかった。僧犬はその後それについて一言もいわなかっ たがあれ以来すこしも気をゆるさない。それにあの時の恐しさもまた彼女に再挙の勇気を失わしてしまった。
「今度こそ噛み殺されてしまうだろう」
 彼女は命が惜しかった。それは単に生命に対する本能的な執着ばかりでなく、そうなれば「あの人」と未来永劫あえなくなってしまう――と彼女は思った――のがたまらなかった。彼女は未練にも、生きてさえいればいつかはまた「あの人」の顔なりと見、声なりときく時が来ないとも限らないと思う。そのうえ生憎彼女はあの夜と同じ夢をくりかえしくりかえし見るのであった。それはさめればいつも堪えがたいおもいをさせたけれど、それでも見ないよりはよっぽどましであった。彼女はそんな夢が見られるだけでも生きていたかった。恋するものの常として夢のなかの恋人はその貴さ、大事さ、……に於てすこしもうつつの人にちがわなかった。彼女はその夢を嬉しくわが胸に秘めてひとりで思いかえしていた。人しれぬ逢う瀬ののちのように。そんなにしてるうちに彼女はいつか自分が身重になったことに気がついた。彼女は切っても切れぬ強靭な、汚しい肉縄で僧犬と自分がしっかりと結びつけられてしまったような気がした。それはひっ張ればひっ張るほど飴みたいにのびてきてどうしてもちぎれない。いやな、因果な、宿命的なものだ。彼女はまっ黒な、どろどろした悲しみに沈んだ。かつて「あの人」の子をもった場合の回想などは勿論ごうもこの目前の事実を潤色し、緩和するに足らない。それで彼女はただなにもかも「神罰」とあきらめるほかしかたがなかった。同じことを僧犬はまったく別な風に考えた。それは彼が彼女のなかに宿ってその血肉に養われることであり、彼の生活の精髓――性欲生活――がそこに具象されることであり、彼と彼女との関係が否応なしに結実することであつた。彼はひとりでほくそ笑んでいた。ただ困るのは彼の熾烈な性欲の始末であった。彼女は妊娠してから 絶対に彼を近づけない。威嚇も哀願もかいがなかった。彼はしまいに鬱血する情欲にうかされて、彼女の寝息をうかがって、そこいらの雌犬を捜しに出かけた。雌犬はみな彼の図体をみていちはやく逃げかくれてしまった。それにたまたまつかまるものがあっても折悪しく今は本当の犬の交尾期ではなかった。で、彼が無理無体につがおうとすると牙を鳴らしてとびかかってきた。それは自然にそなわった猛烈な爆発的な生理的反感であつた。その点に於ては一般に他の動物の性欲はもっともだらしなく発達した人間のそれよりもむしろ淡白かつ合理的である。そんなで、いわば凡ての性欲の門は彼にとざされていた。そこで彼はまたすごすごと彼女のところへ帰ってきた。
 そうこうするうちに彼女の二列にならんだ乳房は著しくふくらんで地につきそうになった。ある朝彼女は腹のなかにちょうど糞をする時のような衝動を感じた。そして思わずすこしいきんだらぴょこりと仔が産まれた。なんの造作もなかった。彼女は早速臍帯を噛みきって唯もう本能的な愛情をもって子どもをなめはじめた。それが何者の子だなぞということはてんで念頭に浮ばなかった。分娩のため神経過敏になつている彼女にさいわいに本能がそんな思念の起る余地を与えなかった。それは血臭い、ぶよぶよした、裸の肉塊であった。そうしてなんともいいようのない情愛が、味となり、においとなって、舌や鼻から全身にしみこんできた。うとうとしていた僧犬は目をさましてすぐに事態を見てとった。
「おお生まれたか。お手柄ぢゃったの」
 流石に彼も父親としての情愛を覚えて、歩みよって子どもをなめようとした。
「あ、その口でなめられちゃ」
と彼女は思った。しかしやっぱり嬉しかった。そのうちにまたぴょこりと生まれた。暫くして三番めのが。そうして最後に第四のものが生まれて依怙贔屓えこひいきのない母の愛撫をうけた。これらの四個の肉塊が尻からひり出されると同時に彼女の世界は一変した。あたかも世界がその四個のものに收縮してしまったかのように彼女の心がそこに集中した。彼女は幸福であった。もしそれが幸福ならば。子どもは目が見えないのでめくら滅法に乳くびをさぐりあててはちゅうちゅうと吸いつく。裸の、敏感な、愛情にうずくところの乳房が彼らの口にふくまれ、すべっこい舌にまかれて、ぺちょぺちょと吸われるのがぞくぞくするほど嬉しい。彼らは胎内にいた時からすっかり彼女に信頼しきって、そして目は見えなくてもちゃんと知ってますよというようにいささかの疑念もなく慕いよって鈴なりになる。彼女は自分の愛情が、湧いて、煮えて、甘い乳となって、とくとくと彼らの口にほとばしり入って、その五体にまんべんなく行きわたって、それを養い育ててゆくのを感ずる。母親の酣酔かんすいはあれほど自分の変形を嘆いた彼女に生れた仔が四つ足であることを忘れさせた。彼女はまたその抑えきれない母の矜と喜を相手かまわずわかちたい気持きもちであった。そこで僧犬は二重の満足を得た。子供の出生に対する父としてのそれと、その仔が不意に無心にもたらしたところの彼女との融和に対するそれと。
 子供が心配なのでそれからは彼らは交替で食を求めに出ることにした。僧犬は彼女の逃走についてはもうすこしも懸念しなかった。子供をおいてゆけぬことは目に見えていたので。ある日彼は子供に乳をやっている彼女にむかっていった。
「どうぢゃ。夫婦というもののうまみがようわかったぢゃろう。わしがいうことをききさえすればこの楽しみぢゃ。これはわしらが血の塊ぞよ。かわゆかろ。わしもかわえてたまらん。これからはつまらぬ駄々はこねぬものぞい」
 彼はにたにた笑って彼女の顔を見た。彼には勝ちほこった気持きもちとこれから先の性交の予感があった。彼女は黙っていた。なんともいう気にならなかった。今までただ盲目に働いていた母性、有頂天に跳躍していた愛情が突然ひどい衝撃をうけた。彼女は自分の腹にくっついてふるえている四匹のものをじっと眺めながら思った。
「ああ、これがあの人の子だったら」
 それ自ら満足していた彼女の母性はそれが夫婦の情愛と結びつけられようとした時に俄然として反抗した。今ここにこうして彼女の全心を占領している四匹の子供、それは強要されたる性交の、余儀ない、宿命的な、生理的結果なので、決して相互の愛情の産物ではない。またその理由にもならない。はたその夫婦間係を肯定し、或は享楽させるところの理由にも原因にもならない。彼女の矜や喜は母子のあいだの神聖な問題で、僧犬にはかかわりのない、かかわってほしくないことなのである。覚醒した彼女の心は今やそこに一点情ない汚斑のあることを見た。
「あの人の子だったら!」
 いわばそれは恋人の子に向けらるべき筈であった母性が、その正常の対象を得ないために、失ったために、ここに恋によってではなく、運命によって授けられた僧犬の子に対して、かりに補償的に働いたにすぎなかった。それはいかに熱烈であろうともそうであった。
 その次の日の午後のことである。僧犬はよほどまえに食を求めに出かけたまま待てど暮せど帰ってこない。彼女はひどく空腹を感じてきた。乳が出なくなったもので子たちはひっきりなしにきゅんきゅん啼いてひとつの乳くびから他の乳くびへと吸いついた。その声が頭へ針を刺されるようにこたえるさぞひもじかろうと思う。そうして詫びるような気持でかわるがわるなめてやってもどうしても啼きやまない。乳くびは血のにじむほど痛くなってきた。彼女はじりじりした。
「ええ、早く帰ってくれればいいものを」
 彼女は彼がまたどこかで牝犬の尻を追い廻してるのにちがいないと思う。彼は口を拭って知らん顔してるけれど彼女はその身体についた牝犬らしいにおいに気がついていた。彼女は唾でも吐きたかった。そして嫉妬からではなく、子供に対する愛情から腹が立ってならなかった。もう我慢ができない。子たちは啼き死ぬほど啼いている。彼女は余儀なく子供をおいて餌をあさりにでかけることにした。そうしてそろそろと身を起した。子たちは乳房につるさがったがじきにはなれて転がった。そして一層声高くきゅんきゅんと啼いた。彼女はその声に心を残しながら穴を出た。そうしていつもいちばんはじめに行く大きなごみ捨て場へいったが、あらかたもうほかの犬にあらされて、空虚な胃の半分をみたすほどの食物も見出せなかった。彼女は途中で僧犬にあいもするかと思い思い歩いたけれど運悪くとうとう出あわなかった。その癖ほかの犬には度々出くわしたが、彼女には子をもった母獣の狂的な勇気があったのですこしも怖くはなかった。それから雑沓ざっとうした市場のほうへ行った。そこで時々意地の悪い人間にいじめられながらもともかく相応の餌を拾った。それはいつもならばもう充分なほどであったが、今日のような極度の空腹とからっぽの乳房をみたすにはまだ足りなかった。心あたりの処は残る隅なく歩いたのだけれど。彼女は様子の知れない場所へ行くのには動物的な不安を感じた。それにおいてきた子供も気がかりでならない。彼女はさんざ迷ったあげく、今頃はたぶんもう僧犬が帰っているだろうとあてもない気やすめをしながら思いきってこれまで行ったことのない横町へ曲り込んだ。うす気味のわるい小路をぐるぐるとかいもなく捜しまわった末やっとのことで路ばたに捨てられた大きな魚の頭をみつけた。で、大急ぎでぐわっと噛みついて無茶苦茶にがりがりと噛み砕いてのみこんだ。彼女は幾度も喉に骨をたててはぎゃっと吐き出した。それでやっと堪能して帰ることにした。彼女は腹の重いだけ気が軽かった。彼女は腹一杯の食物が一足ごとにこなれて、全身にまわって、自分を元気づけ、甘い、温い、養いになる乳となって乳房に溜ってくるのを感ずる。その乳が早くのませてやりたいと思う。彼女はいそいそとして足の運びもかろく帰ってきた。住みかへ近づいたのはもう暮れ方であった。
「おや」
 子たちの声がきこえない。
「ねてるのかしら」
 彼女は孔からとびこんだ。いない! 僧犬もいない。変なにおいがする。妙な足あとがある。犬のにおいではないし
「あ、豹だ」
 彼女は気ちがいのようにかけだした。豹は夜など時折このへんまでも忍んでくることがある。彼女はそのにおいを知っていた。彼女は地べたに鼻をつけて出来るだけの速さで追跡した。まだ間もないようだ。はっきり残っている。 彼女はにおいをたどって終に町からかなりはなれた大きな森へはいっていった。なんにも怖くなかった。絶望的ないかりが影を見せない敵にむかって燃えあがった。森へはいってからは急に追跡が困難になった。そこにはいろんな鳥や獣のにおいがしてごちゃごちゃにたがいに他を消しあっている。とはいえ彼女は縦横無尽にかけまわってどうでも敵を見つけようとした。そして奥へ奥へと進むうちにぽかりと小さな沼のふちへ出た。大木がないかわりに灌木と雑草がもうもうと密生している。彼女はそこまできてはたと当惑した。象の群が水をのみにきたのであろう、そこらじゅうめちゃめちゃに踏みつけられてなにがなんだか訳がわからない。彼女は藪のなかを押しわけ、くぐりぬけ、難儀をして嗅ぎまわったが豹のにおいは絶えてしまった。しかたなくひきかえして別の方向へ捜しはじめた。まわりまわって歩くうちまた沼のところへ戻ってきた。で、 まだひきかえした。歩一歩と夜が近づいてくる。あせりにあせって別のほうへ別のほうへと捜すうちにまたもとの処へ出てしまった。もうどうすることもできない。たしかに敵はここへきたには相違ないがそれから先がわからない。 足あともない。においもない。到るところ象にへし折られ、踏みにじられた枝や葉を見るばかりである。彼女は絶望した。精も根もつきてしまった。その時そのすさましいいかりが忽然として深い深いかなしみと思幕の情にかわった。彼女は仰向いてあわれな長吠えをして子供を呼んだ。あの無心なものが豹のあとについてちょこちょこと歩いてでもゆくかのように。彼女はくりかえしくりかえし呼んだ。そして今一度呼ぼうとした時にがさがさという音をきいた。彼女は赫として身がまえした。そこへ僧犬が現れた。彼は帰るとすぐ事変のあったことを感づいてあとを追ってきたのである。彼女は手短かに一伍一什いちごいちじゅうを話した。
「あきらめるよりしようがない」
 彼も流石に悄然としていった。そこに感情の共鳴があった。
「わしが早う帰らなんだのがわるかった」
 彼女はもうそんなことを咎めだてする気もなかった。彼らはだらりと尻尾を垂れて申し合わせたように黙って住みかへ帰った。
 夜である。彼女は座りなれた穴の隅にすわって、そこにまざまざと残っている子供のにおいを嗅いで悲しい悲しい声をあげた。彼女はまた豹のにおいを嗅いであらたに母獣のいかりを燃やした。
「ああ、あの子たちはどんなにか啼いて私を呼んでいたのだろう。それをあの口の裂けた豹めがききつけてそっと忍んできたのにちがいない。あの子たちはそれを私だと思ってよちよちと慕いよったのだろう。それをまあよくもよくもむごたらしく一つ一つくい殺して……かにしておくれよ。かにしておくれよ。私がわるかったのだから。私さえいればこんなことにはならなかったのに。おまえたちがひもじかろうと思ったばっかりに……ああ、私はどうしたらいいだろう。出る時にあんなに慕って啼いたものを……のませてやりたい。のませてやりたい。このまあ乳をのませたらどんなにかよろこぶだろう」
 彼女の乳房ははちきれそうになってうずいた。彼女は彼らの頭や前足がそこに触れて、それが小さな口につるりと吸い込まれる気持きもちを思い出す。そうしてこらえきれぬ物足りなさ、心さみしさを覚える。
 きらぬだにいねがての犬の夜があけて朝の光が堆石のすきまからさしこんできた。とはいえそれは昨日とは似てもつかぬ日であった。
 極度の緊張ののちの弛緩、麻痺、放心の幾日がすぎた。僧犬は又もや彼女をいどみはじめた。すてばちになった彼女は格別の嫌悪も反抗も示さず唯々 諾々としていうなり次第になった。僧犬はそれを、最近のかなしみからいよいよ彼女が完全に夫婦の情愛を解するようになったのだと思って頗る上機嫌であった。
「どうぢゃ、ええもんぢゃろう。わしがいわんことではない」
 そういう考えがますます彼の情欲を刺戟した。その上彼はこの機をはずさず彼女が今こそ賞美したらしい性交の味によって己れを彼女に忘れられぬものにしようと思った。それでさかんに交尾した。しかし誤解から起ったこの状態は勿論余り永くは続かなかった。彼は彼女の従順の意味を感づいた。そして反動的に非常な不満を感じた。彼は温かい屍骸を抱いてるようなものであった。それが真実屍骸であったら、それが性欲をみたす器となる限り相当の満足を得たであろうけれど、生憎とそれは元来生きた女であった。そして美しい男に対しては確かに生きて発剌とした、なまなましい女であったに相違ない。そう思えば彼は狂的な抱擁の最中に於てさえうち消しがたい無味、不満を覚えた。それは彼の情欲が熾烈であるだけ大きかった。彼はさんざつがった後でいささかの感興も、感興の過ぎたらしいようすもなく、気のない顔をしてる彼女にむかっていった。
「水くさいではないかえ。わしがこれほどに思うているにそなたはすこしも報いてはくれぬ。それではあんまり情がうすいというものぢゃぞえ」
 彼女はなんともいうことができなかった。実際そのとおりであった。それはまったくしょうことなしのおつきあいにすぎなかった。性的な反応が起るのさえ不思議なくらいであった。
「ちっとはわしが身にもなってくりやれ。そなたさえその気になってくれるならこの上ないたのしみがでけるのぢゃに。そなたがつれないばっかしにわしがいつも味ない思いをする。そなたはよいかしらぬがそれではわしがたまらぬ。先の短い命をこのようにして暮すのが思うてもつらい。それはわしもよう得心している。そなたがわしを嫌うのももっともぢゃ。わしは醜い。それにこのとおり年よってもいる。が、の、ここをようききわけてくりやれ。いやなものを 無理難題をかけると思うかしらぬがの、それが恋ぢゃ。どうでも思いきれぬのぢゃ。わしは気のちがうほどに思うている。可愛い、いとしいと思わぬ時はないのぢゃ。今までは黙っていたが、わしはそなたをひと目見た時から恋い慕うていたのぢゃ。わしは迷うている。思いこがれている。の、すこしは察してくれよ。そのおもいをはらすにはそなたを抱くよりほかはないのぢゃ。そなたがせめてわしがおもいの半分も汲んでくれうならわしはもういうことはないのぢゃ。これ、わしはつらいのぢゃ。ふるうほどせつないのぢゃ。 の、そなたも木や石ではないぢゃあろ。察してくりやれ。夫婦らしゅうしてくりやれ。 慈悲ぢゃぞえ。の、これ、あわれと思うてくれ」
 彼は手を合わせぬばかりにしてかきくどいた。彼女はうなだれて黙っていた。彼女にはよくわかった。それほどまでに思ってくれるのをありがたいとも思った。そんな苦しみをさせるのはすまないとも思った。出来るならどんなにでもしたかった。が、どうにもしようがなかった。それは彼女の力に及ばぬことだった。彼女は彼をさだめられた夫として承認した。人身御供にあがった気持で泣く泣く身をまかせた。それがせい一杯のところだった。それ以上は彼女にとっていわば背理であった。彼女の肉体を構成する細胞の一つ一つが絶対にそれを拒絶した。それは彼女がまだその時期に達しない処女であって、それを彼にもてあそばれるのと同然であった。彼女はそれをしも忍んだ。それ以上なにが望まれようか。
 「ごめんなさい」
 彼女はいった。それは真底からの詫であるとともに断乎たる拒絶でもあった。僧犬は溜息をついた。彼は数多い呪法のなかに一途な女の恋を忘れさせる法のないのをくやんだ。しかも彼はなお懲りずまに執念くかきくどいて夜となく昼となく彼女を悩ました。
「わしはこんな身体ぢゃ。さきはもう見えている。わしはこのままでは死んでも死にきれぬ」
 そんなこともいった。実際彼の身体はひどく弱ってきた。全身の悪瘡はますます烈しくなった。彼は間がなすきがなそれを爪と歯で掻きむしっている。 そのたんびにばらばらと毛がぬけて赤肌から血膿が流れる。爛れ目のうえに眉毛も髭もなくなり、肉ばかりの尻尾がちょろりと垂れて、見るもいやらしい姿になった。彼は痒さに責められて疲れきった時のほかはおちおちと眠ることもできない。気力も体力も衰えはてて今はただ猛烈な獣欲ばかりが命をつないでいる。こんな有様で思うように彼女と楽しむこともできずに死んではまったく死にきれないのであろう。とはいえ彼女のすてばちな無関心、冷淡な従順は彼の執拗な強要のために再び積極的な嫌悪となった。それは本然の傾向に戻ったものをわる強いされる時に現われる抑えがたい自然の反抗であつた。彼女はうるさくかきくどかれるほど生憎に「あの人」が恋しくなった。そうして始終「あの人」の夢を見た。それがいよいよ彼女を堪えがたくした。彼女はまたもや逃走を考えはじめた。
「今度こそ命がけだ。が、もうしかたがない。どうでもなるがいい。もう一度逃げてみよう。どうしても逃げおおす。そうしてあの人のところへ行く。ああ、私はガーズニーへ行こう。ガーズニーへ行こう」
 ある夜彼女はそうっと穴をぬけだした。そしてまっ暗な路をクサカのほうへひた走りに走った。二度めなので迷うこともなかった。彼女は自分の足音をさえ恐れた。僧犬は弱ってはいるが欲望や嫉妬はその四肢に魔物のような力を与えるであろう。彼女は無二無三に走り渡渉場としょうばのところまできた。胸が裂けそうに苦しい。足が萎えてへたへたとつぶれそうになる。
「ここを渡ればひと安心だ」
 彼女は一生懸命気をひきたてて渡りはじめた。岸に近いところはしずかにおどんでいたがまんなかへ出れば出るほどながれが強くなってくる。彼女は鼻先を水面に出して必死と泳いだ。しかし気ばかりはあせっても足の力がぬけて充分に水を掻くことができない。それで目あてのほうへまっすぐに行けないばかりか時々ぶくりと頭までもぐる。彼女は見る見る押し流された。流れはますます早く、水は深く、川は広くなってゆく。精も根もつきてしまいそうになった。で、思わず喘ごうとしてがぶりと水を呑んだ。彼女は最後の努力をした。嬉しい! 岸が近づいた。ながれもゆるくなった。とうとう泳ぎついた。が、そこには適当な足場がなかった。彼女はやっと前足をかけても後足をあげることができない。そしてもがいてるうちにまた押し流される。そんなことを何度もするうちに気がぼうっとしてきた。
「ああ」
 彼女は無茶苦茶に泳ぎついてははなれ、泳ぎついてははなれした。そのう ちどさりとなにかにぶつかった。脇腹に強いいたみを覚えた。それは天の佑であった。大きな木の根が水の中までのびだしていた。いい按排にそれに身を支えられて辛うじて這いあがることができた。そこで急に気が弛んでよろよろとした。そしてずぶ濡れのままへたりと倒れてしまった。
「私はこれなり死ぬのかしら」
 そんな気が夢のように頭に浮んできた。そうして死にそうに喘いでいた。そのうちふと彼女はかすかに遠吠の声をきいたように思った。そしてはっと起きあがった。恐怖が彼女を力づけた。彼女は見当をつけて、密生した藪を斜につっきって本道へ出ようとした。彼女は全身きずだらけになったほど困難したがともかくも目的を達した。僧犬のけはいもなかった。
「まあよかった。もうすぐクサカだ。それからガーズニーへ!」
 彼女の胸はよろこびに躍った。案内知った路を勇んでかけだした。なにはともあれ僧犬をまいてしまうまでは走らねばならぬ。で、わざとクサカの焼け跡へははいららずにぼかぼかした草地を横ぎって、町から大きく迂回している街道の先のほうへ出ようとした。そしてにおいをまぎらすためにそこいらにごろごろ眠っている野飼の牛の間を縫うようにして行った。そうしたらひょっくりと、 いつぞや異教徒が祭をしていた榕樹のあるところへ出た。星あかりにすかしてみたら新しい堆土のうえに大きな石がおいてある。
「ああ、ここだった」
と思った。それから森のほうへ行こうとした時に彼女は突然恐しいいきおいで走り寄る足音と、ききなれた僧犬のうなり声をきいた。彼女は立ち竦んだ。それと同時にぐわっととびかかるけはいを見て危く身をかわした。彼女は鼻の先で猛りたつ彼のまばらな毛が針みたいに逆立っているのが見えるような気がした。
「どこへゆく」
 僧犬は憤怒にふるえながらいった。そのとき彼女にはもう恐怖の影もなかった。ただ氷のような絶望があった。
「どこへ行くのぢゃ」
 噛みつきそうにいう。彼女は黙っていた。
「わしは知っとるぞ。おのしは彼奴のとこへ行くのぢゃ」
 彼はさも憎そうにいった。
「これ、血迷わずとようきけよ。あの男は死んだぞよ」
「え」
 彼女はぶるぶるとした。
「嘘です。嘘です。あなたはひとを騙すのです」
「嘘ぢゃというか。彼奴はこのわしが殺してやったわ」
「お黙りなさい。あの人はあなたなんぞに殺される人じゃない。さあ、いつ、どこで、どうして殺しました」
僧犬は「いいい」というような、いやな、絞り出すような声をした。嫉妬がこみあげたのだ。
「馬鹿めが。毘陀羅法でのろい殺したのぢゃ」
彼女はぎょっとした。半信半疑になった。呪法の力は知っている。
「そのびだら法とはなんです」
「知らずばいうてきかしてやる。屍骸をやって人を殺させる法ぢゃ。名さえ知ればど奴でも殺せる」
「それごらんなさい。あの人の名も知らないで」
「彼奴はジェラルというた」
「え、あなたはそれは名じゃないといった」
「ふ、ふ、嘘ぢゃ。わしは彼奴の名を知ったばかりか現在彼奴を見た。彼奴は苦行をして居るわしのまえを通ってこの顔に唾を吐きかけおった。おのしのいうたとおりの男ぢゃった。暫して森の中で ジェラル、ジェラル と呼ぶ声をきいた。ジェラルという名は邪教徒にあるのぢゃ」
「でもあの人は屍骸なんぞに殺される人ぢゃない」
 彼女は強情に盾ついた。そうすることが恋人の命を救うことででもあるかのように。
「まだいうか。これ女、ようきけよ。彼奴がどれほど腕前があろうと呪法には勝てぬぞよ。屍骸には鬼が憑くのぢゃ。逃げもかくれもできぬのぢゃ。まんいち相手に行力でもあって殺せぬ時は戻ってきて呪法の行者を殺す。いずれか殺さねばおかぬのぢゃ。わしは命がけの呪法を行うた。それもおのし故ぢゃ。屍骸は戻ってこなんだ。どうぢゃ、彼奴はどうでも死んだのぢゃい。それ、これが彼奴の墓ぢゃ」
「え、ではほんとうに……」
「殺したがどうした。切りこまざいても飽き足らぬわ」
 彼女はぐらぐらとした。すさましい女のいかりに燃えた。彼女は矢庭にとびかかって相手の喉くびと思うところへぐわっとくいついた。僧犬は不意を襲われて仰向に倒れた。彼女はのしかかってしかとおさえながら死物狂に頭をふって喉笛をくいちぎろうとした。そして僧犬がげえげえとかすれた声を出してはねかえそうともがくのをどこまでも噛みふせていた。僧犬はとうとう息がとまった。ぐたりとしてころがった。彼女は血みどろの口をはなした。そうして恋人の墓石に身をすりつけて悲鳴をあげた。それから彼女は犬にも人間にも通じない獣人の言葉で湿婆シヴァの神に祈った。
湿婆シヴァの神様、私をあわれと思召すならば、この身の穢を浄め、今一度もとの姿にして、どうぞあの人のそばへやってください」
 獣人のいのりは神にとどいた。彼女に突然五臓六腑がひきつるような苦痛を感じて背中を丸くしてぎゃっと吐いた。わる臭い黒血がだくだくと出た。それは体内をめぐっていた僧犬の血であった。それと同時に彼女はくるくるとまわってばたりと昏倒した。
 ややあって彼女は我にかえって立ちあがった。そうしてなにか一皮ぬいだような気のする自分の身体を撫でまわした。それは完全な女の姿であった。 彼女は狂喜のさけびをあげた。それは人間の声であった。彼女は湿婆シヴァに感謝すべく地にひれ伏した。その時大地がくわっと裂けて彼女はさかさまに奈落の底へ堕ちていった。闇から闇へ、恋人のそばへ。
 
             大正十二年七月四日


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