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考えてみれば

「良いニュースと悪いニュースがある」という表現をよく聞きますね。改めてよくよく考えてみれば、ニュースというのは大量にこの世にありふれている物であるから、そこに良いと悪いがあるのは当然のことのような気がしてきます。では何故それが表現として成り立つのかと言えば、この言い方をした時は「言われている相手がニュースの当事者であり」「片方がもう片方に影響を及ぼす可能性がある」という共通の認識があるからではないでしょうか。

だいたい、こういう場合の良いニュースと悪いニュースには関連性があります。例を挙げるならば、「宝くじが当たっていた」という良いニュースに対しては「最近買ったハズの宝くじが見当たらない」という悪いニュースがありそうですね。で、これを後者から前者の順で聞いたとしても、そこにある結果は覆りようがありません。だから別に、どちらから聞いても問題は無いハズです。

しかし「見当たらない」話をされた後に「当たっていた」話をされると、「何故見当たらないくじが当たっていると分かるのか?」という疑問が浮かびそうですね。普通くじの番号など覚えやしないからです。一方で当たっていた話からされた場合、でもその当たりくじが無くてさ──という展開になります。するとその瞬間に聞き手は大変な驚きを得てしまい、「どうして当たったことに気付いたのか」まで考えが至らない可能性が高いように思えます。

私はどうも日頃他人と会話するにあたってここら辺まで考えずに喋りだしてしまう、良くない癖があるようです。会話の順序が既に決定した過去に影響を及ばさないことを重要視しすぎている、と言えば良いのでしょうか。確かに過去には影響を及ぼしませんが、この話を聞いてこれから解釈する他人、すなわち未来にはかなり大きな影響を及ぼすんですよね。それを軽視しているのでは……?

一方で他人から話題を振られる場合には「なんでその順番で喋ったんだよ」と思うことが多々あります。最低だ。




ちなみに、今回の記事においてこの順番で綴ったのは、最後に「最低だ。」というオチが欲しかったからに他なりません。考えてみれば「他人の話す順序に不満を感じてしまう」は十分に導入になりえたでしょうね。でもこの順序で綴ることで「ここまで考えているからこそ自戒も出来ているし、故に他人のそういった部分にも気付いてしまう自分」として、ある種の甘えというか、許される部分があるのではないかと思ってしまいます。

以上。2022年12月11日、16時42分。

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