努力とかいうやつ

先日NTRと消費税としゃしゃり出てくる薬味が嫌いという話をしましたが、海無し県を煽る東京都民と出身を訊かれた時に神奈川では無く横浜と答える横浜市民も嫌いです。嫌いなものの多さであればイヤイヤ期の2歳児とタメを張れそうですね。
因みに海無し県を煽る東京都民のことは八丈島在住と見做すことにしたのでよろしくお願いします。

見間違えではないので帰らないでください。というわけで枝豆と申します。
私は先日Twitterに以下の投稿をしました。

勿論努力することは尊い事ですし、人間社会で生きていく以上、何処かで必要にはなるでしょう。寧ろ何も頑張ることが無い人生はそれはそれで辛そうですらあります。

然し、或る人が何かで成功した、他の人には負けない得意分野がある、それはその人が努力したからという分析だけで終わって良いでしょうか。もっと言えば、或る人が何かで失敗した、他の人に見劣りしてしまう部分がある、それは本人の努力不足でしょうか。ここまで丁寧に書けば無条件に肯首する人は少ないと思いますが、この努力とか頑張りというのは往々にして人を思考停止させかねない力があり、私自身言葉として使うのはあまり好きではありません。何なら先程引用した通り、私は自分の成功体験や得意なことを自分の努力のお陰と思ってすらいません。
これが何故かというのを私自身繙いてみたいなあという記事です。

扨、これまでそれはそれはもう慙愧の念に堪えない恥の多い生涯を送ってきた訳ですが、そんな私でも得意(或いはだった)と言える物はあります。例えば中高の成績は学年で首席張っていましたし、高校の頃の弓道部では当時の部内の記録も実は沢山更新していました。今の日常の大半を占める仕事に関しても職場自体は割と気に入っていますし、上司からの評価もそれなりに高いと多分思います。これは人よりも上手い自信があるという趣味もあります。

上記の書き連ねたことに対して、勿論全く何も頑張らなかったとまでは言いませんが、それでも人より必死になって努力した結果なんだと思ったことは一度も無いです。事実多分してないですしね。

自惚れとも捉えられかねないこと覚悟のうえで、一番解りやすい高校生までのお勉強で見てみましょう。陰キャオタクらしく成績は良かった当時の枝豆さんのママ上は、ママ友達に「どうやったらそんなにお勉強出来る様になるの?」って類の質問沢山されたみたいです。事実子どもの人生に於ける勉強のウェイトって少なくないですし、その答が再現性のあることなら自分の子にも真似したいと思うのも当然ではあるでしょう。

然し私の例で言うと、別に狂信的な教育家庭に産まれたわけでも無ければ、成績が人格みたいな如何にもな塾行ったわけでも無ければ、私自身1日十何時間勉強する様なガリ勉君でも無かったわけです。人と違う自覚があるとすれば、勉強を楽しい、面白いと思える性格だったという点だと思うのですが、でもこれって私の努力で体得したものじゃないですよね。偶々そういう性格、頭で生まれ育ったとしか言えないと思うんですよね。ここの文章の最大の肝が「再現性が無い」という点で、努力という概念と一番対になる部分だと思っています。

もう一つ具体的なエピソードを出しましょう。私は学生時代の勉強の中でも数学が一番好きで、成績も一番良かった訳ですが、当時の私が如何やって数学勉強していたかというと、赤チャートと呼ばれる参考書(受験オタクなら多分知ってると思います)を頭の中で計算回しながら暇さえあれば読み耽るという方法でした。これも再現性無いですよね。少なくともこの方法真似したいなんて言ってる奴いたら全力で阻止しに行きます。
で、このエピソードの肝となると思っている部分が、本人は好きで好きで仕方なくてやっている事なので、努力している、頑張っていると思ってすらないという点です。好きでも無いことを何とか自分の意志で成績や受験の為に頑張る人と、受験とか成績とかの枠超えて好きで楽しいから盲目的にやる人間とどっちが平均的に勝つかと言えばよっぽど脳のスペックが違わない限り想像には難くないんじゃないかなあと…。


ここまでは私の只の具体例なのですが、先程の引用で私は「(中略)性格だっただけって考える様にしている」と書きました。この考える様にしているというのは、その様な認識にしないと心無い言動や思考の元となりかねないと考えるからです。
若しかしたら甘いと言われるかもしれませんが、私は他人に対して努力不足とか、その程度しか出来ないという事は大して必死(或いは好き)じゃないんだろうという評価は原則下すべきでは無いと考えています。先ずもってその人自身になることが出来ないのにそんな突き放す評価を妄りにしてそこから何が生まれるんですかという話ですし、ちょっと自分が得意だったり人並みに出来るからそう言えるかもしれないけど、一度フィールドが変われば簡単に立場が逆転し得る事に目がいかない想像、経験不足からこの手の評価は生まれやすいと思っているので。

あと、抑々その人がもっと出来る様になりたいと考えているのかという話もありますよね。これも私の具体例で、私のフォロワーならご存じかと思いますが、私は絵が死ぬほど下手です。神が逆にそういう才能を与えてくれたんじゃないかと錯覚する程にド下手くそです。試しに暫し私の展覧会にお付き合いください。

全て何だか判った人はDMへお越しください。褒めてあげます。
私はこういった作品(笑)を作った際にTwitterに投稿することがありますが、これは別に上手くなりたいとかアドバイス貰いたいと思って描いてる訳じゃないですよね。例えばここに私の絵の何処が駄目なのかとか上手くなるコツとかたらたらと書いてくる人間がいたら如何でしょうか。
ふざけて書いてるように見えますが、熱くなっちゃってると意外と抜けちゃいかねない視点だと思うんですよね。

得意なことがあるというのは大変結構なことなのですが、自分は何故それを得意で居られているのか、人より勝れた状態でいられるのかというメタ認知は最低限かませないと武器通り越して周囲への矛にすらなり得るのでそこは気を付けてみても良いんじゃないかなあと。

では頑張る、努力することは結局偶々適性がある人間に敵わないから無駄っていう絶望的な結論になるのかというとそれも明確に違うと言うことが出来ます。

人間が限られた時間の中で自分の意思でやる意味があることって大きく2つ挙げられると思っていて、一つが兎に角好きで仕方ない事、もう一つが好きでは無いかもしれないけど自分の為に生きていくうえで必要なこと。
前者は解りやすいでしょう。それが仕事かもしれないし趣味かもしれないし、自分の気のすむままに勝手に出来るものです。知之者不如好之者、好之者不如樂之者。

問題は後者で例えば好きじゃない範囲の勉強とか、得意じゃない仕事とか、最低限の処世術、コミュニケーション能力とか色々あるでしょう。何故、それが好きじゃない人に勝てないと知りながら努力しなければならないかというと、それが好きな人間だけで社会やコミュニティの営みを全て回すのは不可能だからです。昨今の人手不足なんか見れば明らかに解りますよね。この構造は努力する側である時も腐らない様に理解しなければならないですし、好きで頑張れる側、その分野が得意である側の人間はもっと解っておかなければならない、責務ですらあると思っています。
というか今生きていくうえで必要なことに絞って話しましたけど、コミュニティの運営継続って意味じゃ趣味の界隈もそうですよね。ガチガチに上手い人間や熱烈な一部の人間だけで界隈を盛り上げることなど不可能というのはそういうコミュニティにいる人間ならよく解ると思います。

というわけで書きたいことは大体書けたので最後に纏めると、町田を神奈川に取り戻す努力は一生涯続けていきたいと思います。以上です。

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