決断と諦めって同じことらしいよ。ツレがそんなこと言ってた

問題を開くと、お決まりの順番に文章が大きく4つ、そのそれぞれに問題が与えられている。マークシートには無感情な数字が並んでいるばかり。そのどれを黒く潰すか、で己の将来が左右される。限られた時間の中で、文章に散りばめられた傍線部のうち、どれだけ設問者様の意図を汲み取れるのか、そんなことばかり気にしていたら文章そのものに没頭できる時間など生まれない。それ故に、本来数百ページに及ぶであろう作品の一部を切り取られた文章はどれも無機質に見えた。

反対に、部屋の本棚には、テレビに出ている、芸人と呼ばれる方々の本が並ぶ。。。と言っても数冊なのだが。また、その全てがエッセイと呼ばれるタイプの文章だ。その文章を読み終わるのに時間など限られていない。もちろん文章には傍線部など散りばめられていない。文章そのものに没頭していると、いつの間にか時間が過ぎる。数百ページに及ぶその文章はどれも実体験に基づいた感情がこもっていて、生き生きしていて、著者の声が再生されるようだった。


そんな「芸人のエッセイ」。一番最初に触れたのは、オードリー・若林さんの「ナナメの夕暮れ」だ。この本と出会っていなければ、今とは変わった自分が存在していただろう、と思う。そのくらいこの本には思い入れがあるのだが、しばらく読んでいないので今回は割愛。

なにもエッセイ批評をして芸能人相手に上から目線かましたいわけでは無い。あくまで自分が好きなことを好きなように話したいのみ。だが、言葉の切り取られ方で誤解を生みうる可能性があるので、そのつもりはないよ、と先に断っておく。


ということで、最近読んだヒコロヒーさんの「きれはし」が素敵な文章だった、というお話をする。

エッセイという文章の特徴上、読み手が書き手に共感する点があればあるほど、その文章に素晴らしさを見つけるのが容易になる。「類は友を呼ぶ」じゃないけど、きっとそういうこと。ではどこが似ているのか、「宇宙」という文章を一部抜粋する。

中学校にあがれば人生において初めてとなる最難関「みんなと同じようにふるまったほうがいい」という目に見えない、誰も言語化していない、けれど確かな圧力としてそこに存在するそれが待ち受けていたのだった。この場合の「みんな」とは「友達グループ」であったり「教室」であったり「放課後」や「クラブ活動」であったりとさまざまなのだが、私はとにかく「みんな」と同じことをするということが不得手だったが、それを言語化できぬまま、なんとなく、同じように振る舞ったほうがいいのだろうとぼんやりと理解していた。

自分がその段階を踏んだのは高校1年生。
みんな同じ制服を着ていて、みんな向いている方向が同じように見えるけど、実際はそうでない。文系理系も違う。目指す進路も違う。文化祭への熱量も違う。でもみんながなんとなくそっちの方向に進んでいるから、僕もついてったほうがいい、、、のかな?一人孤立する勇気もないし、、、てな具合。
多くのみんなは、そんなこと考えなくたってみんなと一緒に行動できるし、考えるプロセスが短い気がする。正直、羨ましかったかな。

他にも共感できる文章がいくつもあるんだけど、疲れたからパス。みなさん自分で読んでみてください。
他に、どの部分が素敵と感じたか考えてみたけれど、あらゆる目線に立つことを自己分析につなげる中で、その目線が広範囲に及んでいる印象を受けたから、文章中に出てくる言い回しに好感が持てるものが多かったから、というのが自分の考えるところ。

他に好きなのは「タイムリープ」「彼女たちについて」。

「タイムリープ」はコントっぽくて、読みやすい。「宇宙」ではキラキラしていない、自分らしく生きた青春時代を最終的には肯定していたのに対して、「タイムリープ」では、それでもキラキラした青春時代に諦めきれない、どこか捨てきれない憧れが強く出ているところが、これまた似ている点。

「彼女たちについて」にあるように、人と人との別れなんて今は分からなくて、突然やってくるものなんだけれど、それが相手の意思なのか、別の誰かの指令なのか、運命というものなのか、何であれ、柔軟に受け止め、前向きに生きていくしかない、という点。

人は何か選択に迷い、最終的にその選択を絞らなければならない時、「決断した」と口にする。確かにその言葉はあっているが、一方でそれは、反対の選択肢をあきらめた、ということでもある。あえて「あきらめた」と思いきることで、今、この瞬間を、より尊いものに作り上げることができるのかな、と、全体を読み終えて思った。

過去には、決断のひとつひとつ、あきらめのひとつひとつが見える。その全てが華々しいものでは無いし、時には悔いの残るものもあった。でもそれは仕方のないことで、抗うことなく受け入れる。そんなことさえヒコロヒーさんは言葉にされている。確かにそう思えれば、今の自分を決して否定することなく、受け入れられる気がするのだ。今の自分に満足いかなければ、タイムリープさえできないけれど、タイムリープじゃなければなんとでもなる気がする。


ちなみに、「岐阜営業」に出てきた美濃太田という駅は実家からほどほどの距離にある。美濃太田から長良川鉄道に揺られれば、そこは地元。懐かしさを覚えたので、今度帰るときはバスではなく電車で帰ろ、と思った。



もう夏は終わり、秋が始まろうとしている。


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