見出し画像

長久手

 ほんの10メートルも歩けば名古屋市(名東区)になる、そんな所に暮らし始めたのは、自分がもうじき30になるという頃だった。あの頃、長久手は市制移行前の長久手町だった。
 自分は長久手図書館のある見晴らしの良い丘まで歩く事を日課の様にしていた。その丘からは遠く尾張旭や瀬戸の長閑な丘陵が見える。
 自分はこの丘まで行く道々、色々な事を考えながら歩いた。今取り掛かっている絵の事、これからの事、彼女の事。それらがごちゃまぜになってあの丘の頂に今も残っている様な気がする程だ。
 彼女は歩くのが嫌いだったから、その離れた丘の方まで一緒に歩く事はあまりなかった。けれど自分は彼女が隣に並んで歩いていないその散歩も好きだった。夕方になり、一人明かりの点り始めた住宅地なんかをぽつぽつ歩きながら、ふと顧みると、自分の境遇というものがいつのまにか随分変わってしまっていて、それまで無関心に遠く感じていた「暮らし」という生々しい語感のモノが、急に自分の方へ接近してきたのを感じたものだった。
 いつ頃からか、自分はあの丘を一人勝手に「幸福の丘」と呼んでいた。
 夜、彼女を送り届けた後で自分は一人香流川まで歩く。そうして誰も居ない、誰も来ない深夜の河川敷の階段に座っていると、「幸福感」というかたちを持たない抽象的な一語がじわじわと自分の内を満たしてくる。その幸福感を持て余したあげく、そのまま川伝いにあの丘まで歩く事もあったんだ。だからあの丘は幸福の丘になった。

 あれからもう随分年月が過ぎた。愛知万博が開催される年、自分はあの町を離れた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?