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写実について


 90年代初めにマドリードリアリズムが日本に紹介された後、若い日本人画家は一斉にその動きに呑み込まれていった。アントニオ・ロペスやエドゥアルド・ナランホ等の、ハイパーリアリズムとは少し毛色の違う精緻なスペインのリアリズム、写実描写に敏感に反応し、果てにこぞってスペインへ留学するという有様だった。マドリードリアリズムの中にただ一人日本人の、故・磯江毅氏が居たのは彼等にとって大きな灯台ではなかったろうか。
 自分はその潮流を横目にロンドンへ渡った。無論スペイン、とりわけマドリードも初めは視野に入っていたけれど、ヴィザ取得の際色々揉めて、それならいっそ言葉の苦労が少ない(自分は暫く英語圏に暮らしていた)英国にしようと決めたのだが、どこかにスペインへ流れていく同年代の画家の卵達へ勝手な対抗心もあった。

 それから日本の美術界は一気にスペイン流リアリズムに日本風味を添加した細密描写に染まっていく。そしてそれが驚く事についこの前まで(もしくは未だ)、口は悪いが、阿保みたいに大手を振っていく事になる。某写実系団体は帰国したスペイン直系の作家達の受け皿になり、果てにそれらの受け皿たる美術館まで出来る始末で、美術誌を開けば常に彼等の写実に誌面が割かれていた。まさに猫も杓子も細密写実といった感じであった。

 とはいえ自分もその「写実」の中に居たのは否定出来ない。何故なら、その当時自分は素描から徹底的にやり直そうともしていたので、写実の檻の中に自ら飛び込んでいった為だ。
 そうしてロンドンの小さな学校で一人細密な写実をやっていると、ある時校長(彫刻家)である男が来てこう言った。
「キミはなにか、図鑑でも描くのか?」
 皮肉好きな英国人らしいが、しかし彼のいう事も分からないではなかった。彼は自分の造った手の彫塑を見て随分褒めた後で、それにしちゃ何故キミのpaintingには感情が見えないんだ?と呟いた。その横で自分達の会話を聞いていた女教師が加勢する。
「アナタの絵はrational(理性的)だから」
 今は堪えろ――と自分は思った。今は写実に徹する時だ、その先に感情があるんだ、と信じていたからだ。
 しかしそんな事を言う自分に彼等はきっと言う。――時間が勿体ないわ。

 果たして写実とは何だろう?いや、具象とは何か。今の時代、絵具を使って描く事はともすれば酔狂にも思える。デジタルのデバイスで撮ってそれを加工すれば、写実絵画の意義は大抵失われる。何故なら、写実作家のほとんどの作品が、自己満足と面白みのない自分自身への詭弁に過ぎないからだ。テクニカルなところを無視したとして冷徹に見てみるといい。人物?静物?描かれたものはそもそも無理矢理絵にされ、作家とその周りだけの近親的なモノがピカピカしている。いわば誰かの非常に整えられた日記を見せられているだけだ。
 結局、自分も含めて大抵はぶつぶつ自分に言い訳しながらゴミの山をせっせと積み上げているのだろう。


画像 「虚実」F10 油彩 2002-2003年制作


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