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⛄🍓 無執着の境地 心の平静と祈り 🍓⛄

Ⓡ 幸福の科学 主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生 書籍・漏尽通力 参照です。

🍋 平坦なる道


昔話に、次のような話があります。僧侶が二人、川のほとりに歩いてきたところ、女性が一人困っていました。実は、川が渡れないでいたのです。見れば、たいへん若く美しい女性です。


一人の僧侶はこう思いました。「女人は悟りの妨げである。女人とは話してもいけない。もちろん、女人に触れるなど、もってのほかである」と。そのようなことを考えたのです。


もう一人の僧侶は、つかつかと女人に近寄って、「川を渡りたいのならば、私が渡してあげましょう。私の肩につかまりなさい。私の背中に乗りなさい」と言って、サッサと女人を背負って川のなかに入っていきました。


そして、腰まで浸かり、やがて川から出てきて向こう岸に渡っていったのです。それをもう一人の連れの僧は見ていて、唖然としたものの、憤然とした面持ちで、あとからついて川を渡っていきました。


先の女人を背負った僧侶は、やがて川を渡ると、女人を河原におろし、「では、お元気で」と言ってスタスタとまた進んでいったのです。あとから追いついた僧侶は、その女人を渡した僧の肩をつかんで、「おい、おまえ、おまえは今、破戒僧となったぞ。仏道修行は、女人とのかかわりを断つことが基本である。


それにもかかわらず、女人と話をし、こともあろうに女人を背負って川を渡るとは何事であるか」という問いかけをしたわけです。すると、その僧侶はこう答えました。「わしは、もう女人を背中には背負ってはおらんぞ。おまえはまだ背負っておったのか」と、そうした話をしたわけです。


そのように、形式主義で物事を考える人間というものは、「とにかく、いろいろな人との接触や出来事など、外面的なことを避けて、何もしない戒律的な生き方さえすれば、心穏やかに生きられる」と思いがちですが、本当は、修行の道とはそうしたものではないのです。


「僧侶であるから、女人が困っているときに助けない」というようなことが仏道修行の本道ではありません。人が困っているときには助ければよいのです。それが女性であるからといって、そのことばかりにいつまでもこだわっているのはおかしいでしょう。


「女性であっても助けるときは助け、助け終わったらもう忘れ去る」、ここに無執着の境地があるわけです。ところが、もう一人の僧侶は、女性を背負わなかったにもかかわらず、川を渡っても、まだ女性のことが気にかかってしかたないのです。


心のなかに、それだけの執着をつかんでいるわけです。 ”女人を背負っている” のはそちらです。そのようなわけで、平坦なる道というのは、決して何も起きない道のことを言っているのではないのです。


人生において、「何の刺激もないような生き方をしろ」と言っているのではありません。山のなかに籠ったり、滝に打たれたり、あるいは、洞窟のなかに座ったりすることで、「平坦な生き方をする」ということを言っているのではないのです。

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(私文:執着について)
この文章を読んで、執着とは、こういうものだったのかと思いました。それならば、自分自身のなかにも、沢山あります。こんな執着であったら、沢山あったのです。一週間も思い続けてしまう執着もあります。もっと長いときもありました。

大川隆法総裁先生は ”ただ、執着を去れ” と言われているけど、今までの執着もあれば、これから発生する執着もあります。無執着の境地になることが本当にできるのでしょうか。

最後まで読んで頂いて、本当に、本当にありがとうございます。是非とも、幸福の科学 主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生 書籍・神秘の法 を読んでください。

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