「Tグループ」から学んだもの

3月8日から13日まで、南山大学人間関係研究センター*¹が主催する、「Tグループ(人間関係トレーニング)」に5泊6日で参加してきました。

今回はこのトレーニングで私が得た「学び」を自分なりに理解していき、生かしていくもの、また、誰かとシェアすることでより自分の理解を深めていきたいと思っています。

日々の人間関係や、ワークショップや対話の場、日常の職場、学校や介護など支援の現場、夫婦、親子、こども同士、全て私たちが人間として「生きていく」上でとても大切なものが詰まっているのではないかと感じますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。(おそらく長文です。)

・Tグループとは何か。
まず、はここから。Tグループの「T」は「トレーニング」という意味。つまり、「トレーニング・グループ」ということになります。(そのまま)
では、どんな「トレーニング」を行うのか。Tグループでは、「Tセッション」と呼ばれる、ラボラトリートレーニング*²と、全体会やその他の形式のセッションによって構成されるトレーニングです。

今回の「Tグループ」のねらいは、2点。
・今ここで(私、相手、お互い、グループの中で)起こっていることに目を向ける。
・関わりを通して(私であること、共にあること)を探る。

でした。まずはトレーニング内容から。

「Tセッション」とは、”時間と、場所と、人が決まっているだけの場”であり、その他は特に決まったことはありません。時間は約1時間程度、同じセッションルームで、10人程度(参加者とトレーナー)が、円になってイスに座り、ただ、ただ過ごします。そこには「決まっている話題・課題(コンテント)」はありません。ただそこには、一人ひとりの人がいて、お互いやそれぞれの「私」の中にある「気持ちや心の動き(プロセス)」が存在し、それらをお互いに確認したり、表明したり、受け取ったり、受け入れられなかったり、その時々の「プロセス」を共有していきます。

そして毎回のセッション後には、「ふりかえり用紙」を記入する。その時々のグループの様子、私の中の気持ちの様子、グループ、メンバーで気になることなどをふりかえり、「今、私や私たちに何が起きていたか」「そして、終わった今、どんな私がいるのか」を言語化していき、自らの理解を深めていく。次のTセッションまでにトレーナーがふりかえり用紙の集計を行い、「今のグループの現在地」をまとめてくれます。

全体会では、グループでのセッションから少し離れ、自分やグループについて見つめなおしたり、ねらいを再構築していく時間となり、少し心と体、頭を整理する時間となった。

Tグループのグループ自体は2グループ構成で、AとBに分かれていた。私は、Aグループで、部屋が一緒だった人はBグループの所属だった。セッションは各それぞれの部屋で行われて、ルールとしてお互いのグループで話された内容は他グループには共有しないようにすること(グループ内でおこっていることはまた別)がアナウンスされました。

・Tグループのトレーナー
Tグループには、「トレーナー」と呼ばれるグループを支える人が存在します。トレーナーと聞くと、「トレーニングを課す人」という印象・イメージを抱くかもしれませんが、Tグループのトレーナーの在り方はそういった存在ではありません。

グループメンバーと共にその場を、一見フラットな立場にいながら、パッと私たちグループの中で起こっていることに光を当て、学びを深めていく存在です。Tグループでは、グループ内で起こったすべてのことが学習素材となり、「今ここ」で私、あなた、グループで起こっていることが学びの対象です。そこに、いい素材、悪い素材とかはなく、起こったことすべてが学びの素材。トレーナーは、グループ内のプロセスを見ながら、グループが進もうとするきっかけに光を当て、グループの成長を促す存在であるなと感じました。

ファシリテーターや、子どもとの場づくりで、「伴走者」として在りたい常々思っているところだったが、まさにその言葉がしっくりくる感じがした。

ただ、グループには、2人のトレーナーがいて、一人は前述したような関わりをする僕にとってはとても「気持ちいい」という印象を受ける存在でした。もう一人の方は、トレーナーというよりも、かなり参加者に近い感じでの関わりをするトレーナーで、まさに、「トレーナーとか役割抜きに「その人としてその場に在る」ということを体現されているような人でした。

常に「今ここ」の私、相手、グループのプロセスから目をそらさない、メンバーがついつい見逃して流してしまおうとするプロセスにちゃんと目を向ける姿勢があり、非常に刺激を受けました。

結局、役割どうこうではなく、人と関わる上でまず、「私が一人の人間としてどう在りたいか」が大切であり、彼らの関わりは、対人援助職(看護師、教師、介護士、コンサルタント、ファシリテーター、カウンセラーなど)の人(私もふくめ)に非常に参考になるし、そうありたいと思う。

・Tグループで起こっていたこと
今回、Tセッション自体は全14回でした。(毎回、プログラム自体は変わっていて、しかも、1日が終わるごとに次の日のプログラムを組んでいるらしい。)
かいつまんで、僕らのグループで「起こっていたこと」をまとめていきたい。(話されたことではなく、あくまでも僕の中、僕が見たグループの中で起こっていたであろうことについて書きますので、かなり主観的です。)

グループメンバーはもちろん皆、面識のない社会人ばかりで、出身地、仕事、育ってきた背景・環境、年齢、家族構成、などなどバラバラです。そんな大の大人が車座になり、トレーナー入れた11人がただ、座りつづけます。何を話してもいいし、何もしなくてもいい。

最初は、自己紹介等から始まり、お互いに探り合い、とても慎重な関わり合いが続けられ、会話も誰かが、ポーンと場に投げ、誰かがまたポーンと場に投げる、そんな感じでした。

ただ、そんな関わり合いも長く続きません。表層的で、今、その場で起こっているお互いの気持ちや、自分のことに目が向いているのか、真剣に関われているのか、わからなくなってき、次第にグループは混沌としてきます。

私自身も、「今ここで起こっていることで関わりたいけど、関われない」自分や、グループ全体にイライラし、もどかしさを覚え、セッションが終わってからずっとイライラしていました。

次の日のセッションで、僕は開き直り「イライラしている」ことを表明しました。それまで、こころの中でずっと溜まっていた毒素を吐き出せ、とても「自由」になりました。そのあたりから、グループ全体も、少しずつ「今ここで起こっていること」についてグッと視点が向くようになってきました。セッションごとに、「主人公」が表れ、誰かの「今、感じている」気持ちや言葉に他メンバーが影響をうけ、「今、感じている」を表明し、受け止めあっていく。
予期せぬ話や、予期せぬ気づき、予期せぬ新しい発見をそれぞれがしていく。

あるセッションで、メンバーの人に、僕の関わりが表層的なものになっていないかと言われ、否定されたかのように感じた時は「俺はこういう思いで関わっていたんだ!!」と言わんばかりに、何かが乗りうつったかのように、真剣にその人に関わる自分が出て来たりした。トレーナー曰く、「何モノかに襲いかかるアスリートのような目をしていた」らしいです。

毎回、お互いの「今ここ」の気持ちを通じそれぞれの背景、今ここで共有している「意味」を分かち合っていくことで、何かとてつもない安心感と「つながっている」感が、おそらく私、グループ全体に保たれていました。お互いが、お互いに影響を与えあい、それを受け合い、変化していくグループになっていて、正直「何がきても怖くない」というとてつもないグループにいることでの「自信」が湧いていました。

・Tグループから私が学んだこと
 Tセッション自体は5日目の昼までの全14セッションまでとなり、ここから6日のお昼までは、一旦Tセッションからは距離を置き、これらのセッション中に起こったことを「学び」に変換していき、「日常」へ橋渡ししていく時間となります。
やはり、ここが一番重要だと思っていて、どれだけ体験しても「なんかこんな感じでよかった」で終わらせるのではなく、『さっきの体験は”私”、”これからの私”にとってどんな「意味」を持つのか』と問うていき、私の「学び」に変えていく必要があると思っています。この作業をしなければ、それはただの「体験」にとどまり、明日、明後日を「より良く生きる」ことはできなくあってしまうのです。


 今回のトレーニングは「これをしたら、こんなことを得られますよ~」というお得なセミナー講座みたいなものとは違い、どんなことを体験し、それをどのように学び取るかは、まさに「自分次第」。何を学んでもいいし、何も学ばなくてもいい。そういった意味ではかなり自由ですが、かなりハードなトレーニングだなと感じます。

ここでは、僕が2時間30分(まだまだ時間ほしかった)ふりかえりまとめた「学び・気づき・発見カード」5枚から紹介。

①反応があることは嬉しい。
 とってもシンプルに、自分が話しているときに「うん、うん」と目をみながら10人の人が、僕にまなざしを向け、話を聞いてくれることがとても、温かかったし、心が満たされるようで嬉しかった。また、「イライラしている」といった時も、「いま、それを言っていただいたことを重く受け止めます」という感じで、ちゃんと聞きそれを受け取ったという反応を具体的にもらえたことは非常に嬉しかった。
あと、気づいたことは、僕は自分のことを話すとき、目を見ずに上の方をみて話をする癖があるみたいで、少し意識的に目を見ながら話そうとすると、恥ずかしくなるくらいにみんなが目を見てくれていて、「嬉しいな」「あったかいな」という気持ちがわいてきた。フィードバックくれたメンバーに感謝。

②私とあなたの「枠組み」と、つながり
 メンバーの一人が家族との関わりについて悩みを吐露し、どうしたらいいかアドバイスを受けたいという時間があった。僕は、そのとき具体的な解決策を提示下としてもその人が結局納得したことでないと意味がないと思ったので、その人がその課題に対して「どう在りたいのか」という部分にフォーカスして話した。ただ他のメンバーは、具体的な解決策、例えば「心理学でこんな考え方があるから~~」など、を提示していた。

正直、僕はその関わりに腹立たしさを覚えたし、相談しているメンバーのためになっていないと思った。

ここで気づいたことは、みんなそれぞれの関わり方の「枠組み」(在り方に迫ったり、具体的な解決策を提示)は違っているけれど、そのグループとして「つながっている」メンバーを「どうにかしたい!」という部分では一致していた。

それぞれの関わりは違っていい。自分には自分の関わり、「枠組み」、見たい世界がある。

③他者の影響から、新たな自分の発見
 グループでは、「今の自分」について話すために、「過去の自分」について話すことが増える。それはTセッションを重ねるごとに、その内容は深まる。

そして、その「誰かの過去」の話は、「他の誰かの過去」の話を引きずり出していく。伝染し、影響し合う。

一人ひとり全く違う背景や環境で生きてきているのに、とても似通った経験をしているケースが多くあった。(マイプロジェクトでいうところの「相似形」かな)

そして、それは僕にも「伝染」されてしまった。伝染した僕はなぜか話そうとも思っていなかった、全く考えてもいなかった私と関わりのある3人の顔が浮かび、話していた。そして、気づいたら話しながら号泣していた。(ティッシュの塊がテニスボールくらいになった。笑)

他者の影響によって、全く予期もしなかった「新しい自分」を知ることになった。

④私とあなたの境界線と「つながる」切なさ
 最終Tセッションの前の休憩中に、あるメンバーA(以下A)が、Bに言った言葉が、Aはそのつもりなかったが、Bはその言葉に傷ついていた。
そのことを、Bが最終Tセッションで打ち明けた。

グループ全体は、本当にたくさんのセッションを重ね、お互いの関係も頼り、頼られる、信じれる関係性といえるほどかなり成熟していた。

Bは打ち明けたことによって、ある程度、このトラブルについては納得しているようだったが、Aは、傷つけてしまっていた事実を知ってしまったので、そのBのことを何とかしないと!と、全くそのトラブルについて流すことができていないように見えた。Bはもう解決してしまっているのに。

感じたことは
2人の間に強力な「つながり」が生まれてしまい、もはや、他人の問題が、自分の問題ととらえるようになってしまい、「私」と「あなた」の間がなくなってしまう。一方は求めていないのに、一方は関わらなくては気が済まなくなってしまう。これは、親子関係や、夫婦関係など濃い人間関係の中で見られる現象に近いと感じた。

⑤共にあるために私ができることは、常に「今ここ」を見続け、「私」で居続けること
 最初のワークで個人のねらいとして、僕は『多様な「私」が集い、「共にあるため」に「私」ができることを探る』を掲げ、6日間取り組んだ。その答えがこれ。(あくまでも現在の私の答え)

共にいることは、他の人の気持ちや考えにただ共感することではなく、
「私」が自分として、目の前にいる「あなた」と、「今ここ」で関わったときに、「どんなことを感じているのか」を必死に見続けて、それを返していくこと。

簡単にいうと、自分が「私らしく居続ける」ことで、ほかの人も「私らしく居続ける」ことができるようになるのではないかということ。

「あの人が思ったこといったり、正直に自分と向き合っている」と気づけば、「あ、私も正直にいていいんだ。思ったこと言っていいんだ」と「伝染」していき、初めてそんな、ちゃんと自分を表現できる者たちが集まり、「共にあること」ができるのかなと思った。(小難しくてすいません。)

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と、これが、僕が書いた、5つのカードの内容。もちろん、まだまだいっぱいあるし、言語化できていないこともたくさんある。でも、とりあえず、この5つを学んだ、つかみ取ったことは間違いなく言える。

・私のこれから
ここまで、すべて書くのに、Tグループが終わってから1か月弱が経とうとしている。

正直、何が変わったかと言われれば、難しい。
ただ感覚的な変化として、「湧き上がってきたことは、その瞬間に言わないと後悔する」という感覚がある。

それは、感謝の時だったり、謝る時だったり、異を唱える時だったり、喜びを表現する時だったり。

「ふっと湧き上がるけど、ここでいうと、まずくないかな。変な空気になるかな。別に言わなくてもいいかな。」とついついしり込みすることが、やはり、ある。

でも、その時の「今ここ」を見続けないと、僕はきっとその関わる「あなた」と「共にあること」はできないと思う。

だから、こんなとっても小さな日常の「今ここ」を見続けていきたい。

最後に、今回の講座で印象に残っている文章を紹介してこの長い長い記録を終えたい。


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「共にあること」

“共にある”ということは、われわれの中に、またわれわれの周囲に現実に存在するものを、見たり、聴いたり、それに触れたり、味わったりすることだ。

思考・感情・空想といった、個人的能力を結集することだ。
つまり人格としての自己に、面と向かうことである。

“共にある”ということは、ささやかなものに心を寄せることだ。
…… 一枚の草の葉、飛び回る虫、ふくらみゆくつぼみ、巣立ったばかりの小鳥など。

“共にある”ということは、美しい旋律に耳傾けることでもあるが、それと同時に、聞き慣れた音にも注意を向けることだ。
…… 吹きすさぶ風の声、軒端打つ雨の響き、道行く人の足音、幼子のすすり泣き、工具のうなりなどに。 

“共にある”ということは、色彩豊かな絵画に接することでもあるが、それと同時に、ありふれたものの姿に美を見いだすことだ。
…… バラの花の赤さ、思いにふける顔、新緑のみずみずしさ、優雅な裾さばきなどに。

“共にある”ということは、たがいに耳を傾けあうことだ。友情をもって接するとき、自分には役割があるという生き甲斐が感じられてくるのである。

“共にある”ということは、自己と他者の織りなす世界に関わることだから、一人楽しむ想像の世界にかくれ込んだりはしない。むしろ、人々の苦悩と努力に力を合わせるのだ。

“共にある”ことの秘訣は、昨日と今日、今日と明日をつないでいる何げない出来事を、一つ一つしっかりと生き抜けるようになることだ。』

カーム・クローネンバーグ・ムトウ著
『共同と孤立に関する14章』より


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おわり。



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