所属するということ

今日の朝、仕事が始まる前の少し空いた時間に、ふっと理解出来たこと。

わたしは 自分という存在が、果たしてこの世界の定義する、○田○子(仮名)とイコールである、という前提というか、戸籍だとか住民票だとかそういう自分を説明するとされているものが、全くもって理解出来ていない、受け入れられていない、ということ。

だから、学校であるとか会社であるとかそういった団体の一部に”所属”する個人、として行動したり、そういう”○山○太郎(仮名)的定義”のフィルターを通して他者から見られることに、違和感を感じて、窮屈になって抜けだしてしまう。

これは、自己否定とか自分を特別視しているとかそういうことではなくて、ただこの社会のルールに順応できていない、素直に従えない、だって自分の存在を言葉とか書類で定義することなんて不可能じゃないか?と思っているから。

つくづく面倒臭い人間だなぁ、と思うと同時に、腑に落ちたというか、納得もできた。この社会でうまくフィットして生きていくことが、自分にとってはハードルが高いことで、というか現在の日本や他の国にしろ、法治国家に一住人として暮らすこと自体が、理解しがたい不可思議なことだということ。

今朝の通勤の車中から眺める風景はすごく綺麗で、山とか街とかが溶け合って一体になって感じられた。そしてそれを見ている自分も、その風景の一部なんだと、そこにはっきりした境目はなくて、すべての中に自分がある感覚、わたしという存在は山でもあり街でもあり、何者でもあり得る、という感覚が、さあっと降りてきて、とてもしっくりきた。

今まで、不毛な戦いをし続けていたんだな、お疲れさま、がんばってたね、と。

やっと気づいたか、やれやれ、じゃあ今考え得るなかで最善の道を探してね、焦んないでいいから、妥協せず見極めてね、と自分に言い聞かせる。

常識、思い込み、固定概念、そういうものをぜーんぶ投げ出して、曖昧さの中に揺れ動く真実を探していこう、とゆるく思う。








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